三十六ノ怪
暗闇に一人取り残される。
彼女はわたし。わたしは彼女。
ずっと否定して、拒み続けた自分の常闇。鬼さんの妖気を浴び、常闇に充満する妖気を受け続けて、出来た灰梅の痣。
そして瞳に移り宿った、鬼さんが好きな梅の花。
私はどうありたかったんだっけ。
鬼さんと共に、どう生きていきたかったんだっけ。
その答えは過去何度も見つけてきた。
でもやっと答えを見つけても、わたしはまた探す。そしてまた見つけて、また迷って、また探す。その繰り返し。
苦しかった。キリがないこの答え探しに。
これがこの先も続くのだと思うと、気が狂いそうになった。それは今も同じ。
陽のある家族や友達との思い出と、退魔の剣が心の拠り所だった。
闇は、わたしに苦痛と人外へと引き摺り落とそうとする、害悪なものとしか思えなかった。
だから拒み続けた。
闇が自分の中で出てくる度に祓い続けた。
あの常闇をさ迷う骸骨みたいになりたくない。
自分は違う。わたしは人間で、妖怪じゃないと。そう思いたくて、知らずに灰梅を傷つけてきた。
『これで良かったんだ』
……そんなふうに、わたしはいつから思い込もうとしてきたんだろう。
絶対に後悔の一つもしてはいけないと、常闇で共存するのではなく、闇に屈せずに生きようと思い始めていたのは、いつからだろう。
わたしが望んだのはこんな形じゃない。
確かに今のわたしには常闇の痣も灰梅はないけれど、これが陽のある普通の人間の姿じゃない。
今ここにいるのは、ただ常闇で闇を拒むことに執着する、陰鬱な人間だ。
自分の腕を見下ろす。
蒼白くて細い。不健康そのものだ。けれどもそこには、常闇の痣はなかった。けれども同時に、自分の中に陽の光も感じられない。
こうじゃない。違うんだ。望んでいた姿はこれじゃない。
表面だけの話じゃないんだ。
わたしはただ誰も傷つかずに、笑い合って、穏やかに過ごしたかったんだ。
鬼さんのお酌をしながら、紅い月を眺めて。鬼さんの皮肉混じりな話を聞きながら、常闇で過ごしたかった。
例え灰梅を持っていても、常闇の人間になったとしても、人であるわたし自身として生きたかった。
深く息を吐く。
長く細く、肺にある酸素を全て時間をかけて吐き出していく。
家族と離れても、友達と離れても。忘れられても。帰れないとしても。
例えそれらの事を一時後悔して、泣いてしまったとしても。そう思うこと自体は、別に罪悪感なんて覚えなくても、良いのかもしれない。
それこそまた泣いたりしてしまっても、それはそれで、きっと良いんだろう。
繰り返されることの何が悪いの。
わたしは何を、こんなに意固地になっていたんだろうな。
一つひとつ、自分の中で答えを見つけていく。
どうしていきたかったのか。どうしたいのか。そしてこれから、どうすべきなのか。
考えること自体、辛かったものが今は感じられない。
小さな一歩ではあるけれど、むしろ確実なものとして、自分の足元がハッキリと作られていくような気分だ。
遠い闇の向こう。
水の音がして、波紋がこちらまで広がり消えていく。そしてまた遠くで火が燃え上がる音がして、白い塵が足元を通って消えていった。
「お願い」
誰もいなくなった空間で、真上を見上げて、わたしは天井のない暗闇に呼びかける。
「お願い降りてきて」
彼女を呼ぶ。鬼の雀であるわたしを。
しばらくして、チラチラと紅い火の粉が、雪のように降ってきた。
儚げな紅い粒は足元に落ちていく度に、いつか鬼さんとした線香花火の火花のように、音もなく消えていく。
「わたし、やっと分かったの」
降り注いでくる火の粉に語りかけると、一羽の紅く光る雀が旋回しながら舞い降りてくる。
雀が羽ばたき羽を広げると、彼女の真下から見えない地面を割って、一本の木が生えた。そして高く高く伸びていった。
「現実を受け入れる覚悟はあるんですか?」
チョンと長く細い、垂れた枝に雀が留まる。
もう木は伸びるのをやめて静かに佇んでいた。大きな骨の手に見える枝はだらりとして、幽霊の手のようだ。花は咲いていないから、より不気味に見える。
「それはまだ、うん、とは言えないけれど」
俯いて、目を閉じる。
それからまた彼女を見つめる。
「あなたはわたし。わたしはあなた。あなたの痛みは……わたしの痛み」
足を動かし彼女へ歩み寄る。
丸い目をした雀の彼女へと近寄って、見上げた。
「だから……戻ってきて」
彼女は何も話さなかった。
しかしその代わりなのだろうか、垂れた枝からするりと降りると、ふわりと形を変えて闇に足をつける。
今度はいつか見た、ボロボロな姿のわたしが、無表情に見つめ返していた。
「今まで押し付けてごめんなさい」
苦しみを切り出して、疎ましいと切り捨てたわたしの常闇。わたし自身が捨てた、常闇のわたし。
「もう大丈夫だから」
そう言って雀を抱きしめた。
彼女は辛かっただろう。寂しかっただろう。そして悲しかっただろう。
でも生きる為に、死にたくないと願った自分の為に、犠牲になった。
捨てたわたしを守る為に。諦めたわたしの代わりに、一人で頑張ってくれた。
「二度と自分を捨てないから。約束だから」
強く抱きしめると、生ぬるい空気がわたし達を包み込んだ。
棒立ちになっていた彼女が、とてもゆっくりした仕草で、わたしの背中に腕を回してきた。
抱き返してきたそれは手ではなく、柔らかな翼だった。
彼女から感じる気配は、暗いはずなのに温かくて、包む生ぬるい空気は不気味なのに、どこか惹かれる妖しさを感じさせた。
ポツポツと目の端に紅い大きな光が落ちてきた。
見上げると、不気味に見えた垂れた枝には、いつの間にか紅い梅の花が咲き誇ってて、わたし達に梅の花を降らせていた。
絶え間なく降り注いでくるのに、枯れることも散ることもなく、紅い花は舞い降りてくる。
足元には見事なくらい、真っ赤な梅の花が闇を染め上げて広がっていた。
「私を見捨てないでくれて、ありがとう」
彼女の声がした途端に、パッと抱きしめていた体が沢山の雀の羽へと変わって散った。
雀の羽と梅の花が入り交じり、大きく渦を巻いてわたしの髪を舞い上がらせた。
不気味で、恐ろしく。それでいてどこか惹かれる妖しさ。
わたしが拒絶した常闇のもの。
「おいで」
わたしがそれを見上げて両手を広げると、渦はわたしを巻き込んで視界を塞いだ。
全てが紅く暗く映る。
視えないものが視えて、様々な声を通すように瞳を灰梅で開ける。
惹かれてはいけないと見ないようにしていたものを直視して、その妖しさに魅せられる。
ハラハラと降りしきる梅越しに、常闇の、果てのない闇が見える。
そして……わたしの瞳に、灰梅が宿った。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意識は唐突に戻った。
不意にわたしは目を見開くと、鏡に映る自分と目があった。
少し驚いてやつれた自分の顔がこちらを向いている。呆然としながら辺りを見渡すと、白い籠の中だった。
「わたし……」
鏡に視線を戻すと、そこには灰梅が瞳に咲いた自分がいた。
多少視界がぼやけているのは、体調が悪いせいか、寝たきりだったのかも知れない。
それでも以前より、暗闇がよく見える。
灯篭のおかげで部屋は真っ暗ではないけれど、部屋の隅は暗い。それでも物がよく見える。
これは確かに、灰梅がわたしに宿った証だ。
『……起きたんだって』
急に聞こえてきた声。
自分の耳よりも、心に響く声のほうがより聞こえる。
『そうなの? また起きながら寝ていたのに。今度は本当に、起きたんだ』
『そうみたいだ。あんな不味そうな骨と皮みたいになってきたのに、まだ生きてやがるのか』
『忌々しいアレをやっと手放したんなら、目障りだ。さっさと死ねばいいのに』
……これは、鬼さんのお屋敷で働いている妖怪の声。
子鬼にしては大きい気がするけれど、どこからか見ているのかな。
さっそく手厳しい声に、思わず視線が下がる。
そうしている間にも、次から次へと憎悪を含んだ思念が、わたしの中に入り込んでくる。
『今から鬼様の所へ行って、また直訴するか?』
『そうだな。宴に出して貰おうぜ』
『今回は鬼様も手を焼いていたと聞く。……我らも耐えた。今度こそ鬼様も応えてくださるはずだ』
話の流れからして、わたしを始末してくれと、鬼さんに掛け合うつもりなんだ。
ここの妖怪たちはかなりの憎悪を含んでいる。
この会話だけで、灼けるような胸の気分の悪さが、体の内側から染み込み始めてる。
でも。
すっと立ち上がって、背筋を伸ばす。
それから髪を梳かして肌が荒れている顔を、なんとか脇に置いてあった桶の水と手ぬぐいで、いくらか整える。
次に着るもの。衣紋掛けにかけてある着物に手を伸ばす。
裾に広がる紅葉と一羽の雀。ギュッと赤い帯で締めて襟を整える。
わたしだって覚悟は出来た。
自分自身との約束だもの。わたしは絶対に常闇で生きてみせる。
この先泣き言を言っても、辛いと感じても、わたしは自分としてこの闇の中を生き抜いてみせる。
部屋の暗さがより明るく見えた。
決して光が強まったわかではなくて、物の影や部屋の中が鮮明に浮かび上がる。
自分の灰梅が瞳に煌く。
鏡を見たわけでもないのに、キラリと玉の様に、輝くのが分かった。
「いるんでしょ。出てきてもらえませんか?」
天井に向かって声をかける。
言い終わらない内から、ガタンといくつかの音が上から聞こえた。
「無理なら、出てきて貰えなくてもいいです。ただ鬼さんを呼んで貰えませんか。話があるので」
声が掠れている。喉がムズ痒い。
それでも清々しいくらいに、自分から出る声は通っていた。
『……なんの真似だ。寝言か』
『馬鹿か! 起きてるの見たろ! そんで、俺らに言っているんだろ』
『どうする? 鬼様の所へ行くか?』
『この大馬鹿野郎! 今さっき他の連中が鬼様の所へ行ったばかりだろ! 下手したら巻き込まれるぞ!』
……子鬼たちは他の妖怪に比べて弱いのかな。
それとも鬼さんに直談判しに行った妖怪たちが強いのか。でも、巻き込まれるって、どういう意味なんだろ。
「あの、無理ならわたしが直接行ってもいいんだけれど、ここを出してもらえない?」
子鬼が鍵を持っているとは思えないけれど、一応可能ならわたしが行くと伝えてみたけど……やっぱりこれは望み薄かな。
「えーっと、それか手紙を書くから渡してもらえないですか?」
そう天井を見上げて言えば、しんと静まり返る。
それからしばらくしてゴソゴソと動く音が聞こえてきた。
『もう例のヤツは持っていないんだろ。お前いけ』
『はあああ!? 嫌なこった! 俺は御免だ! お前こそ行け』
『俺も御免だぞ』
『おいおい人間の小娘ごときでビビってるのか?』
『じゃあお前いけ』
上から複数のキーキーと喚く声が響いてくる。
最初は声を殺したヒソヒソ声だったのに、徐々に白熱して、今ではほぼ怒鳴っているような声が天井から漏れてきている。
灯篭の灯りを見ると、今は音無の時間ではない。
それなのに子鬼の声がこれだけハッキリ分かるってことは、やっぱり灰梅の力のせいなのかな。以前はここまで強くなかったのに。
もしかして、常闇の力である灰梅を受け入れたから、ここまで子鬼の声が聞こえるようになったのかも。
今は退魔の光も浴びていない。
わたしの中に退魔の光は感じられない。だからより、常闇に馴染んでいるのかも。
相変わらず子鬼たちの喧嘩の他に、他の妖怪たちの憎悪が感じられる。逆にわたしから伝えることは出来ないのかな。
灰梅で部屋と籠を見回す。
籠の入口に、紅くぼんやりとした気配を纏った鍵が見える。
これは鬼さんのかけた術だ。
鍵に何かしら衝撃を与えれば、もしかしたら術が反応して、鬼さんに伝わるかも知れない。
息苦しさに深く息を吐いて、ゆっくり籠の出入り口へ近づく。
これをどうにかすれば、何か起きるかもしれない。
わたしが手を伸ばしたその時、上から小さな影が降ってきた。
ちょうど自分が伸ばした手の先の、白い格子の向こう。そこに緑の肌が見えた。
「あ……」
しかめっ面な顔を、さらにまた小難しい顔にして、わたしを見上げる緑の子鬼がいた。
その小生意気な顔は、自分が初めてこの常闇に来た時に見た、あの顔そっくりだった。




