三十四ノ怪
言われたことが理解できなかった。
相変わらず唸り声でも上げているような鬼さんを見て、わたしは口を僅かに開けて呆然としながら何度か瞬きした。
「好い、た……?」
眉間に眉を思い切り寄せてわたしは言った。
好いたって、好きって意味だよね。他に思い当たらないから、そう思うしかないけれど。
でも、そうだとしても。
キッと自分の眉がつり上がったのを感じた。この期に及んでまだそんな事を言うのかと。
こんな状況にまでなっているのに、どうしてそんなことが言えるんだろうか。
わたしが渋い顔をしたからか、鬼さんは顔を歪ませて腕を組んだ。
「ナンダその顔は」
「好きだなんて……それじゃあ、どうして、どうしてこんな酷いことばかりするんですかっ」
半ば愕然としながら言えば、自然と涙がまたボロボロと零れてきた。無意識に両手が拳を作って、手のひらに指がくい込んだ。
「だって……今回のことは……あんまりじゃないですかっ」
最後は完全に涙声になって、わたしは両手で顔を覆った。
だって、だって好きだなんて。絶対におかしい!
好きな相手に乱暴なことをするって、どう考えたっておかしいし理解できない。
少なくとも好きな相手であるなら、大事にするとか、相手の気持ちを理解しようとするとか、考えを尊重するものだとわたしは思っている。
乱暴なことをするだなんて言語道断な話だ。
例えどんなに心底好きだとしても、許されることじゃないし間違っている! 乱暴をしていい理由に「好き」だなんて、身勝手もいいところだ!
「お前は籠で雀を飼っていたんダロウ。その雀はどうだっタ? お前に懐いたカ?」
唐突に言われたことにわたしは意味が分からなくて、返事ができなかった。
涙を拭いながら鬼さんを見れば、眉間に皺を寄せてわたしを見ていた。
「俺の苦労が少しは理解できたかと思ったんダガ、ナ」
「苦労?」
「俺は俺なりにお前を守ろうとシタ。ダガそれをぶち壊したのはお前ダ。あのまま大人しく知らナイでいれば、俺もお前も上手くやれタ。……そうダロウ?」
それに対してわたしは耳を塞いで強く首を振った。
そんなの、それこそ絶対に違う!
あんな嘘偽りのものなんか長続きしない。気づかないとしても、虚しいばかりだ。
絶対に幸せになんかならない。ましてや二人が好き合うなんて事もありえない!
「わたしは鬼さんとは違う! 籠の中の雀がわたしに懐かなくても、相手が心を開いてくれるまで寄り添います! 自分の思い通りに相手が自分の方へ向いてくれないからって、わたしは乱暴なことなんてしません! 絶対に!」
叫んで反論すると、鬼さんの癪に障ったのか。鬼さんは青筋を浮かべながら大股に近寄ってきた。
「その言い草はナンダ。まるで俺がお前に一度たりとも、寄り添わずに今日まできたとでも言いたいのカ?」
怒鳴ってもないのに物凄い気迫だった。
鬼さんの存在そのものが、部屋全体を圧迫してしまうような、大きな気配の塊に見えて思わず尻込みしてしまう。
「こんなに良くシテやっているのに……それなのにお前はっ」
「わ、わたしは、鬼さんが、鬼さんが乱暴な事に対して言っているんですっ。鬼さんが色々とわたしに良くしようとしてくれているのは分かっています! でも」
狭い籠の中というのもあって、鬼さんが大股で近寄ればすぐに目の前まで迫ってくる。
瞬時に息が止まった。
わたしは反射的に、転がるように格子の壁に沿って逃げるが、すぐに鬼さんに背中を掴まれた。
「あっ」
いきなり背中を掴まれて後ろへ体が倒れる。その時に足が文机に当たり、衝撃で乾いた音を立てて引き出しが開いた。
文机の上に置かれていたものが転がって、床や引き出しの中へ落ちていく。
「お前はドウしてそう頑なに俺を拒むんダ」
仰向けに倒れたわたしを対の紅が冷たく見下ろす。
慌ててわたしは体を捻って体を起こした。
「い、今みたいに、鬼さんが乱暴だからじゃないですか!」
打ったせいか、それとも今まで寝ていたせいか。また頭がくらりとして意識が揺れた。
それでもなんとか尻餅をついた状態で、鬼さんから少しでも距離を取ろうと壁際まで後退りをした。
「マタ俺から逃げようとするからカナ」
あんな存在感だけで殺せる勢いで迫ってきたら、誰だって逃げ出すに決まってる。
そう内心反論するものの、手は素直にガタガタと震えて、わたしが腹の中ではどれだけ怯えて怖がっているのかを、強く訴えている。
「ナァ鈴音」
静かに腕を組んで、鬼さんは変わらず冷たくわたしを見下ろしている。わたしは身構えながら鬼さんを見つめ返した。
「お前は俺を残酷だのいうガ、お前こそドウなんダ?」
「わたし?」
一体いつわたしが鬼さんに残酷なことをしたと言うんだろう。
酷い事をされたのなら数え切れない程あるけれど、鬼さんにそんな事をしたことがあったっけ?
もしあるとしたら、以前鬼さんに間接的に傷を負わせくらいだ。
「わたしが鬼さんを傷つけたことがありましたか?」
知らないうちに鬼さんが苦しむ事をしてしまっていたのだろうか。
だとしたらそれに関しては謝らなければいけない。
でも、それじゃあ、普段わたしに対して乱暴に扱うことがあったのはそういう事があったからなの?
知らないうちに鬼さんを痛めつけていたから、乱暴にしていたの?
「お前は人間の男に頬を染めることがあっても、俺にはそんな顔を一度として向けなかったダロウ」
「は?」
考えていたところで、あまりにも予想していなかったことを言われて、思わず声を上げてしまう。
そんなわたしには構わず、鬼さんは表情を変えることなく、わたしを睨みつけている。
「あのガキ共がしてやっている以上に俺はお前に散々良くしてヤッタ。あぁかなりしてやったカナ。愛でてやったと言っても過言ではナイ」
いきなり話が変わって目を白黒とさせる。
ガキって誰? 何の話?
「ちょ、ちょっと待ってください。一体何の話をしているんですか? 意味が全然分からないんですけれど」
本当に、誰の事を言っているんだろう。話が見えない。というか、噛み合っていない。
鬼さんは今何に怒って、わたしを責めているんだろう。
「このガキ共ダッ」
怒鳴った声と同時に、わたしと鬼さんの間に真紅の炎が上がる。
驚いたものの、中には鏡のようなものが浮いていて、誰かを写している。それに気が付けばすぐさま怖さは引いていった。
「これは……瀬川君? それに、野田君?」
鏡に映っている人は、高校の時の同級生だ。今はもっと大人びて、でも、あの頃の面影はまだはっきりと残っている。
そして先輩や後輩の子も、次々に浮かび上がっていく。
「…………盗み見、していたって、ことですか?」
彼らはわたしにとって、好きになってくれたり、またわたしが好きになった人達ばかりだ。
どれも本来なら楽しい良い思い出になるはずだった。でも始まることもなく、実ることもなく終わってしまった惨めな恋。
「お前は叶うはずのナイ想いだと知った上で、頬を染め、ガキ相手に惚けて、終いには涙を流して想いながら憂いタ。……俺の下に戻るのを知っているクセにナ」
鬼さんが何を考えているのか、いよいよ分からなくなってきた。
元々分からないけれど、それ以上に理解できない。
大体これはなんなの? わたしのこんな辛い場面を、大事な学校生活を常に盗み見して、それを今こんなふうに見せつけて。
「鈴音言ってみろ。お前が俺に対して、ガキ共に向けた眼で俺を見たことがあるカ? 顔を向けたことがアルか?」
「……あるわけ、ないじゃないですか」
「俺はお前の連れを見逃し、お前に飯と着るものを与え、住む居場所まで用意してやっタ」
「……わかってます」
「それにドウダ? 命もあり、五体満足で、おまけにお前に食わせてやった人魚の肉で、今やお前に寿命という限りはナイ」
わたしは口を閉じた。強く結んだせいで唇が痛いし震えている。
体の中で激しい感情が渦巻き始める。言葉ではとても言い表しがたい感情ばかりで頭にすら浮かんでこない。
何がショックなのか、何に対して怒ればいいのか。それとも悲しめばいいのか。頭が、追いつかない。
「鈴音っ」
俯いて唇を噛んでいるわたしに業を煮やしたのか。鬼さんの影が素早く近づいて大きく息を吸った。
「お前はいつになったら俺を好くんダ!?」
「だったら!」
口がそう叫んだ。
ほぼ鬼さんの言葉に重なるように、わたしは叫んでいた。
「鬼さんがそういったことを望むのなら! 花魁さんや青女さんのところへ行けば良いじゃないですか!」
怒鳴りつけるような声。
さっき噛んでいた唇に残る痛みさえも気にならないくらいに、わたしは吼え続けた。
「あの人達こそ鬼さんを好きだって! 鬼さんだって分かっ」
言った瞬間、わたしの体は宙に浮き、視界は回って、止まった時には背中に衝撃が走った。
不幸中の幸いというか、畳の上に投げ出されたせいで、格子やすぐ横にある文机に当たることはなかった。それでも痛いことには変わりないのだけれど。
「ナンダ。……ソレをお前が言うのか鈴音。好かれているからソッチに行けと。お前が言うのカ?」
静かなのに、逆にその静けさが張り詰めさせて、空気が肌に痛いくらいピリピリとする。
あぁわたしは終わるんだ。
どこか他人事みたいにそう思えた。
しばらくお互い何も離さずに黙ったままだった。
どちらも動かず、物音ひとつ立てずに。鬼さんは立ったまま、わたしは倒れたまま。
なんだかおかしな光景だ。
衣擦れの音がした後、鬼さんがどかりとその場に座る音がした。
わたしは倒れた格好のままで動かなかった。動く気にもならなかった。
「鈴音、俺が憎いカ?」
「……恨んでないです」
「憎いカ? と訊いたンダ」
「……分かりません」
普段のわたしなら「そんな事ないですよ」と口では言って、おなかの中では舌を出しているところだ。
でも今は、どうにもなれというか、もうそれこそ本当に分からなかった。
「好く気はないのカ?」
さっきとは違って感情のない声だった。
無機質な、何も読み取れない声音。
「……わたしにはもう……好きという心が、分からないです」
さらりと自分は告げた。特に考えていったわけでも、普段から思っていたことでもないのに。なぜだか自然とそう口にしていた。
遠くの方から羽音が聞こえてくる。
目を閉じてしまえばきっと、すぐそばまで来てわたしに代わろうとするのだろう。
彼女はわたしに出来ることはもうないと、そう判断したという事、か。
目蓋が重くなってくる。意識も遠くなりつつある。
このままもう任せてしまおうか。そんなふうに思った時だった。
短い雀の慌てた声が聞こえたかと思うと、自分の上の方から温かな気配を感じた。
陽の光のような、燦々とした全てを照らして温めてくれる気配。
『自らの足で立たねば』
頭に浮かんだ、飛び込んできた言葉。それは声じゃなくて、どちらかといえば思想のような。
誰かも分からないものなのに、その意味もわからなのに。それは諦めかけたわたしの胸に、微かに火を付けた。
……そうだ……ここでまた寝るわけにいかないっ。
雀の子に代わっては。ここで意識を放して、同じことを繰り返してはいけないんだ!
グッと力を腕に込めて体を起こすと、わたしは脇にある文机の引き出しに手をかけた。
そしてその中に手を突っ込むと、様々なものが入り乱れているというのに、すぐに馴染んだ感触が手のひらに広がった。
「……なんのつもりダ」
背中は痛い。遠くの方で非難するように、雀のけたたましい鳴き声が聞こえる。
きっと彼女は怒って呆れている。そしてまた言っているんだろう。
馬鹿なわたし、と。
それでも、わたしは退魔の剣を握り締めて立ち上がった。
目の前には妖しい紅でわたしをひたとみる紅い鬼。顔半分の幾何学模様は威嚇するように蠢いている。
「鬼さんわたしはきっと……分からないんだと思うんです」
「何をダ?」
「わたしは鬼さんが相手だと、好きだという気持ちと憎いという気持ちが、どちらも……多分、無いんです」
一際大きな雀の悲鳴が上がって聞こえた。
そして叫んだまま、何かを訴えたまま、遠くの方へ消えていく。
「ほぉ……」
こちらに向けられる二つの紅が細くなる。
それはいつもみたいな三日月ではなく、鋭利な刃のような細さだった。




