二ノ怪
痣は何度やっても消えなかった。
やる度に退魔の光を浴びているはずなのに、わたしの顔色は次第に悪くなっていった。
どうして消えないんだろう。
もしかしてただの痣なんだろうか。でもどこで? わたしぶつけた覚えなんてない。だとしたら寝てる間にでもぶつけた、とか?
痣は赤く大きくはないが首筋にはっきりと浮かんでいる。痛くないけれど、見ていると不安になってくる。
退魔の剣でも消せない痣。鬼さんが強い妖気でもわたしにぶつけてきたから?
でも痣はいつだって腕とか、顔からは遠いところから現れていた。毎日確認していたのに、気づかないだなんてあり得る? 背中だって鏡を見て念入りに確認していたし、首に痣が移動するにしては時期が早すぎる。
どうなっているんだろう……。
本当にただの痣なら、取り越し苦労で済むんだけれど。
櫛と退魔の剣を手に取って引き出しにしまう。はぁと息を吐いて背まで伸びてきた髪を撫でた。
首が隠れるように少しだけ前に髪を流しておこう。鬼さんに見られたら良い事はない気がする。
鬼さんに相談するという選択もあるのかもしれないけれど、見せたら見せたで、何言われるかわからないもの。黙ってよう。
襖の向こうから足音が聞こえてくる。他の誰でも無い、鬼さんの足音だ。重い足音にもう一度首筋が見えないように確認すると、わたしは立ち上がった。
「ン?」
襖が開かれたと同時に鬼さんの訝しむ声が聞こえてきた。
そちらに目を向ければ、鬼さんは何故か手に湯呑を持って立っていた。
「ど、どうかしましたか?」
眉を寄せてこちらを凝視する鬼さんに緊張しながら問いかけた。
しばらく鬼さんはわたしを足元から顔をじろじろ見て、やや不可解そうな表情で口元を歪ませると、手に持っていた湯呑に視線を一度落とし、またわたしを見た。
「起きたのカ?」
「今さっき起きました」
そう答えれば、また鬼さんは複雑そうに眉を寄せてジッとわたしを見ると、頭を掻いて籠へ近寄った。
「……具合はドウダ?」
「至って普通です」
言った後、痣の事が頭をよぎって思わず首に手をやりそうになるが、ギュッと両手を握り合わせて我慢した。
「動けるカ?」
「……え?」
「身体はドウダ?」
「え? いえ、別に問題無いですけど……」
なんでそんなこと訊くんだろう。
別に体調は悪くないし風邪っぽくもない。多少身体は痛いけれど、畳の上でずっと寝ていたのだから、それは仕方ない事だし。
「何でですか? 調子悪そうに見えます?」
鍵を開けて鬼さんが籠の中へ入ってくると湯呑を差し出された。
受け取ってみればキンと湯呑は冷えていて、底に描かれた金魚が良く見える透明な水が入ってた。
「マァ、飲め。喉が渇いているんじゃないカ?」
別に喉は乾いて無いんだけれど。
でも断る理由も無いので言われるまま水を飲んだ。とても冷えていて、飲んだ水が喉から胃に流れて行くのが良く分かる。
湯呑から口を離した時、自分が全て飲んでしまったのに気づいて目を瞬かせた。
「全部……飲んじゃった……」
特別喉は乾いていないはずなのに。一気に飲み干しちゃった。
変だなと首を傾げれば、鬼さんはわたしから湯呑を回収してその場に座った。
わたしもそれに倣ってその場に座る。
「ドウダ?」
「何がですか?」
「気分の悪さはあるカ?」
「気分の悪さ?」
そりゃ鬼さんといれば気分が悪いよりというよりも、不安も不満も山ほど出てくる。
けれどそれは今更だし、少なくとも退魔の剣があることで以前よりは大幅に改善されている方だから、これ以上の望みは無い。
「特別我慢できない事は今のところは無いです。退魔の剣のおかげ、というのもありますが」
籠の生活だって辛いには辛いけれど、鬱々して闇が滲み寄ってくれば、その度に剣で祓えば良いだけなのだから問題は無い。
……それよりも。
「鬼さん突然どうしたんです? 柄にもなくそんな事を聞いてくるなんて」
「柄にもなくは余計ダ」
ムッとした表情を見せてもこちらを窺う気配は相変わらずで、わたしはどこか居心地が悪くなった。
「身体は少しだるいですけれど動けないくらいじゃないです。畳の上で寝ていたから、若干体が痛いですけれど」
苦笑いしながら言えば、鬼さんは何故だかますます怪訝な顔をして目を下へ向けた。まるで考え込んでいるみたいに。
「鬼さん本当にどうしたんで――」
言いかけた途端、いきなり引き寄せられた。そして気がつけば柔らかな布地と紫煙の香りに包まれていた。
背筋がゾッとした。自分でも驚くぐらいに身体と心が悲鳴を上げて、わたしの口からもひきつった短い悲鳴が上がった。
反射的に思い切り両手で鬼の胸を押し、自分を抱きしめるような形で後退りをした。
あ、あれ……?
目の前で若干目を見開いている鬼さんと恐らく同じ、いや、それ以上に驚愕しているであろう自分の顔を想像して硬直した。
鬼さんに抱きしめられるとか、今までこんな事は何度もあったのに。なんで今更こんな過剰な反応をしてしまったんだろう。
い、今ので鬼さん怒ったりしたかな。
「ごめんなさい……お、驚いてしまって」
自分のしている格好に改めて気づいて、両腕を下ろした。それでもまだ震えている指先を両手で握りこんで隠した。
「……いや、イイ」
鬼さんは特にわたしを咎めたり睨んだりするでもなく、また頭を掻いて視線を下げた。
それから「あぁ」と呟いてきょろりと両目の紅を動かした。
「そういや紫の奴が体が空いたんでナ。また話し相手にすると良いカナ」
「あ、やっと紫さん落ち着いたんですね。良かった。鬼さん、ありがとうございます」
話題が変わったことにホッとしつつわたしはお礼を口にした。
紫さんは元々はわたしの話し相手として紹介されたのだけれど、以前あった騒動であちこちの事後処理やらで忙しく、これでわたしと会うのは久しぶりということになる。
「あと鈴音」
「はい」
「俺の真名はドウダ?」
「知りませんよ」
そう返答すれば、よしと頭を撫でられた。
別に嘘をついているのではなくて、本当にわたしの頭から鬼さんが隠してしまったのだ。
わたしが知ってお屋敷に戻ったあと、あれやこれやと様々な術やらよく分からないお呪いでわたしに徹底的に鬼さんの真名を思い出せなくしたらしい。
それはそうだろう。なにせ鬼さんの弱点なのだから。
ただその弱点を知っていても、退魔の剣をもってしていても、わたしは鬼さんには勝てなかったのだが。
「それじゃあナ。ナンカあったら俺に言え」
「分かりました。ありがとうございます」
何かあったら困るのだけれど。
心の中で苦笑いしながらわたしは鬼さんを見送った。
・・・・・・・・・・・・
畳の上にお香と座布団を用意して待つ。
今日は本当に久しぶりのお喋りだ。前の騒動は思っていたよりもあちらこちらの妖怪や現世に影響を及ぼしていたらしく、わたしは当然なから蚊帳の外で(というよりやれる事なんてない)わたしはずっと籠の中で大人しく日々生活するしかなかった。
楽しみだなぁ。久しぶりになにを話そうかな。
あ、それより先に紫さんを労わないと。きっと疲れているだろうから、わたしも紫さんに気を使って負担をかけないように気を付けよう。
しばらくすると襖の隙間からすぅーっと細い煙が入り込んできた。いつもなら天井から香炉が降りてきて、そこから出てくるのに。
煙は籠の周辺をくるりと周り、そしてわたしが用意したお香に近寄ると、渦を巻いて人の形へと姿を変えていった。
煙で型どられた姿はいつもと同じように、神主のような姿だった。
「紫さんお久しぶりです」
「……どうも、御姫さん」
「お忙しい中来てもらってありがとうございます」
わたしが感謝を伝えると、一瞬間があってから「いえ」と低い声で返された。
なんだか怒っているように感じられるけれど。やっぱり疲れているからか。何かわたしに言いたいことでもあるのか。
元々紫さんはわたしによくお説教をしてくるが、ここまで低い声を出して険悪な雰囲気を感じさせるのは珍しかった。
いつもの嫌味や、窘めるものとは違ってるように感じる。
「あの……」
「御姫さん」
わたしが話すより先に紫さんから声が上がった。
用意された座布団の上に座る形で、目の前の煙の人型はわたしに真っ直ぐ顔を向け、また低い声で言ったのだ。
「今お姫さんがどのような事になっているのか、どこまでご存知か。お聞きしても宜しいですか」
「え? 今のわたしの?」
「はい」
「えーっと……」
突然言われてもなんて答えれば良いのやら。
紫さんの様子を見るとただ事ではないのだと分かるが、どうしてわたしに詰問しているのかは分からなかった。
「相変わらず籠で生活しています」
「他は?」
「えっと、前に比べて妖怪の風当たりが厳しくなりました」
「ほお。で、他には無いので?」
「他は……あの、退魔の剣があるおかげで、常闇の痣は出来なくなりました。気分が闇に飲み込まれそうになっても、払い除ける事が出来る様になって、これで」
「それで?」
唸るような声が聞こえた瞬間、喉元に刃を突きつけられたような錯覚を覚えて、わたしは続きの言葉が出なくなった。
「それで、なんです?」
「え……」
「その御剣を持つことがどの様な事か分からないほど、御姫さんは頭が足りないわけではないでしょう?」
紫さんの威圧感もそうだけれど紫さんの言いたいことが分かってしまい、わたしは喉が急速に乾いてきて俯いた。
「御姫さんは私達を脅かす者になりたいのですか?」
「ち、違います! それは絶対に」
「では何故、鬼様がお許しになられたからといって、そんな忌々しいものを手元に置くのですか」
静かであるはずなのに怒気を含んだ口調はわたしの体を震え上がらせた。全身から汗が出て、顔から血の気が引いていくのが感じられた。
「子鬼が貴女様を避け、夕餉から何から遠巻きに差し入れ、貴女様がその部屋にいるというだけで隣接する部屋や廊下すら近寄ろうとしないのですよ」
そんなに酷いことになっていたんだ。
ただご飯とか身の回りの物を貰うときは、随分乱暴になったなって思うくらいだったから、そんな事になっているとは思わなかった。
「皆、鬼様に御姫さんから剣を取り上げるよう進言しても鬼様は了承して下さらない。一体、どのようにして取り入ったのです? 今まで貴女様を憐れと思っておりましたが、今回ばかりは私も許すことは出来ません」
紫さんの厳しい言葉に小さくなりながらも、わたしはギュッと膝の上に握りこぶしを作って口を強く結んだ。
そして口元に力を込めたまま、わたしは口を開いた。
「わたしは紫さん達の言うひ弱な人間です。紫さんがこの場で少し締め上げてしまえば数秒もせずに死ぬでしょう」
視線は戻せない。やっぱり言うのは怖い。
でもわたしはそれでも、どこか悔しくて更に手に力を込めた。
「子鬼ですら、わたしを殺すことは容易でしょう。わたしは牙も爪もなく、呪術もない。……この常闇で対抗する術なんて全くないんです。誰に聞かなくても、わたしが一番弱い存在なんだと理解しています」
「だからなんです? それがあの退魔の剣を持つ免罪符になるとでもいうのですか?」
「あれがあれば、わたしはずっと正気のままでいられますし、自分の身を守ることもできます。前の戦いの時だって、わたしがもし退魔の剣を持っていたら、紫さんだって傷つかずに済んだじゃないですか」
最後は言い放つようにして言えば、少しだけ殺気立ったものが薄まった。ふわりと揺らめいて、紫さんが造形のない顔をわたしに向ける。
「……そのようなこと、御姫さんは考えなくて宜しいんです」
「でも」
「子鬼達の様子を見て何も思われないのですか。あの中には昔、貴女様を近くで世話したものもいるのですよ」
「それは……」
「貴女様が恐れているのも分かっております。ただここは常闇。妖の住む世なのです。あのような異質なものがあっては皆怯え辛いのです。それは御姫さん、貴女様が一番理解していることでは?」
最後の方になると、紫さんはいつものわたしを宥めるような口調に変わっていた。厳しさはあるにしても、殺気は今は感じられない。
そのことに少しだけ安堵しつつ、わたしはどうしようもない現状を改めて突きつけられて、ただ途方に暮れるしかなかった。