二十四ノ怪
今のわたしは、きっといつかの籠の中で着崩して泣いていた、あの雀の子と同じ姿になっているんだろう。
足や肩は傷こそ消えているものの、別の何かが肌の表面に残って、風の冷たさに加えて鳥肌を立たせていた。
体の方もおそらく痣が出来ていたせいで痛んでいたのに、今はなんともない代わりに、筋肉がひどく強ばって悲鳴を上げていた。
陽は暮れて虫の音も今日は聞こえず、風と草木のざわめきしか部屋に訪れない。そして部屋の中は、わたしのすすり泣く声しかしなかった。
「鈴音」
畳を踏む音が聞こえた。
思わずびくりと全身が跳ねた。自身を守るように、両腕で着物と一緒に自分を抱え込む。
「ナゼ泣くンダ?」
着物に埋めていた顔を一段と深めて、背中をさらに丸めた。
震えが止まらない。
今が怖いのか、自分が知らなかった過去が怖いのか、それともこの先の事が怖いのか。とにかく震えが止まらない。
「マダ俺が嫌なのカ? いつになったら俺に懐ンダ?」
また一歩鬼さんの声が近づく。
歯軋りでも聞こえてきそうな呻き声に、ますます体が強張る。
「こんなに大事にしてヤッテいるのに。どうして笑わナイ?」
あぁ、そうだ。わたしは確かに、鬼さんについ最近までは、鬼さんに大事にされてきた。
この場所に連れてきてもらって、色々な物を与えられてきて。陽の光まで差し込んでもらって。大事にされているんだと思っていた。
でも……その代償があの雀の子にした事だというの?
これだけの待遇をしたのだから、感謝して甘んじて鬼さんの望むことに応えなければいけなかったの?
……いや違う。そうじゃない。
鬼さんはそんな事を言っているんじゃないんだ。
鬼さんのいう大事と、わたしの思う大事は違う。鬼さんが望むお互いの関係とわたしが望む二人の関係が違うように、もう根本的に違うのだ。
鬼さんは本気でわたしを大事にしていると思っている。
さっきのように「やめて」と言ってわたしが嫌がっても、鬼さんはただ傷を治してやったとしか思っていないんだ。
「どうして俺を拒むンダ?」
不機嫌さと不可解さを混ぜた、苛立った気配。
自分なりの気遣いが全く通じないわたしに、さぞ腹が立っているんだろう。この恩知らずと罵りたいのを抑えているのか、押し殺した声音だった。
「籠の中で、お前だと思った身代わりにも、せっかく良くしてヤッタのに」
良くしてあげた?
だとしたら鬼さんはやっぱり分かっていない。
鬼さんはわたしをここに連れてきたと同時に、籠の中にいる雀に対しても加減なりしたと言っていた。
それが先程同様、わたしが以前からどんなに心底嫌な事だと訴えても、鬼さんはそうは受け取ってくれなかった。それどころか、鬼さんは鬼さんなりに気を遣って、雀に触れて良くしてやったと言うのだ。
「お前はどうしたら俺を見るンダ?」
何度も、何度だって。悩んできた……もう無理だと思うときもあったし、やっぱり上手く付き合っていけると思うときもあった。
信頼してもらえたと喜ぶこともあれば、どうしても恐ろしいと青褪める自分もいた。
それが交互に繰り返され、一進一退でやってきた。
でも、今度ばかりはもうダメ。もうダメなのだ。
越えたくなかった一線を鬼さんに越えさせられた。わたしが知らない間に、越えられてしまった。
雀の子が受け入れると言っていたけれど、結局自分の体に起こった事は変わらない。
そして今、鬼さんが怒ってわたしに手を出してきたのを考えれば、せっかく身代わりになってくれた彼女の存在はもはや無意味となってしまう。
「オイ」
そうだ。どんなに籠の中で彼女が苦痛に耐えて身代わりになっても、ここで鬼さんにわたしが捕まってしまってはもう意味はないんだ。
わたしはここで正気を失い、あの子は籠で苦しみ続ける。 ……鬼さんはその結果に、何の意味を見出すんだろう。
このままだと共倒れになる。
ふと、そんな言葉が頭をよぎった。
もしそうなるのだとしたら、雀の子にこれ以上無意味な負担をかけさせられない。……ううん、意味があるのだとしても、もうやめさせたい。こんな悲しいことは……させちゃいけないんだ……。
こんな事を考えるのは、わたしの臆病な良心が僅かな勇気を奮い立たせたのか。
わたしが籠に戻り例え正気を失っても、彼女が受けて来た苦痛を今度からわたしが受け入れれば、きっとあの子だけは助かる。
そんなふうに思ったのだ。
鬼さんが言うようにわたしの常闇の部分が独り歩きして、完全にわたしとは別の存在になっているのだとしたら、わたしの体から出してあげられたら一番なのだけれど。残念なことにそのやり方が分からない。
それならせめてわたしの身代わりをやめさせるのが、あの子に対する恩返しになるんじゃないのかな。
『ダメよ!』
「鈴音」
悲鳴に似た鳴き声が聞こえたかと思ったが、頭を掴まれて強引に顔を上げさせられた。
着物に顔を埋めていたせいで、急に外気に触れた顔の表面が寒く感じる。ひんやりとした風が吹けくと、赤くなった鼻先が冷えた。
「お前は啼かないクセによく泣くナァ」
顔の筋肉がひどく引きつって、目元も熱くてじんわり痛い。
滲んだ視界によく光る紅い瞳がぼんやり浮かんだ。
「お前はコノままずっと逃げるのカ? こんな時こそ、いつもの偽善を発揮させたらドウダ?」
にぃっと深く笑んだ三日月が目の下に映る。
それは真っ赤な舌でズルリと舌なめずりすると、耳元へ寄せてきた。
「可哀想にナァ。アノ鬼の雀は」
まるで狙いすましたみたいだった。
優しい口振りに哀れんだ口調。今さっきわたしが自分の良心に気づいたのを見透かしたかのように、とても柔らかく、わたしへ雀が可哀想だと語りかけてきた。
「誰かさんの身代わりにナッテ、自ら俺に寄って体を開いて……ナァ? 自身を顧みず差し出して。痛々しく哀れだと、そう思わないカ?」
紅い声はそれは本当に憐れんでいるようで、闇に生きる鬼とは縁遠いはずの、慈悲深さすら感じられるものだった。
わたしは目は見開いたまま何も見ず、けれど耳だけはひたすらどこか甘く囁かれる声だけを受け入れていた。
「アノ鬼の雀は鬼サマ鬼サマと最初に鳴いて、羽広げる時には慕っていマスと囀って……最後の最後に、震えて辛い嫌だと泣く雀カナ」
震えは止まらない。けれども自分の思考は、鬼の紡がれる紅い低い声に止まった。
「鈴音の代わりにナッタばかりに、ナ」
自分の中で何かが軋んだ音を立てた。
急に頭の奥からバサバサと激しい羽音が聞こえてくる。叫びに近い小鳥の鳴き声が、罠に掛かってしまったと焦るように喚いている。
「鈴音はお優しいからナァ……まさかまさか他人様を見捨ててこなかったお前が、仮に自分の分身とは言え、哀れな小雀を見捨てる様な真似はしまい?」
鬼が身じろぐとハラハラと自分の頭から何かが舞い散る。
それはとても軽い、茶色い小さな羽。白い綿毛が根元に生えている、枯れ葉色をした羽根。
「お前は助けないのカ? アノ“鬼様、鬼様”と鳴く雀を」
瞬きもせず大きく見開いたまま、一枚羽根を摘んで眺める。
乾いた音を立てて羽根は粉々に散っていく。
「籠に残せば“痛い、辛い”と泣く雀を鈴音。お前は見て見ぬフリをするのカ?」
『ダメ、ダメ』
あぁ痛い。頭が割れそうに痛い。
羽音が一段と激しくなり、鳴き声もまるでサイレンのように鳴り響いている。
これは幻聴なの? わたしにだけ聞こえるの?
やめて。頭が痛いの。割れてしまいそうなくらい、とてもうるさい。
「アノ雀が可哀想だと……そうは思わないカ? え? 鈴音ぇ」
ひどく頭が痛むのに顔の筋肉は動かないばかりか、着物を握り締める腕は頭を抱えることもしないし、わたし自身しようと思わなかった。
痛い、と彼女も泣いているの? だからガンガンと内側から殴られるような痛みが続くの?。
ああぁどうしてそんなに叫んでいるの? 鬼さんが言うように、辛いと泣いているの?
頭の痛みよりも、そんなことばかり考えてしまう。
『ダメ! ダメ!』
頭のどこかで聞こえる鳴き声を聞きながら、籠の中の彼女を思い出す。
痣だらけで、骨のように痩せ細って、肩を肌蹴させて。
ブツブツと同じ言葉を繰り返していた。必死で自分は理想の、鬼様の雀であると言い続けていた。
あの子はわたし。けれども、わたし自身じゃない。
わたしのせいで辛い目に遭うだけに、わたしから離れてしまった常闇の雀。
逃げてきた辛さと恐怖を、受け続けることになってしまった、悲しい存在。わたしが切り捨てた、わたしの闇の部分。わたしの――……
『ダメ! 言わないで』
「助けて……」
わたしは着物を潰す勢いで掴んでいた手を離すと、目の前の太い首筋に手を伸ばした。
あの子を助けないと。わたしが助けてあげないと。
「お願いです……彼女を……あの子を……助けてあげて」
言った瞬間、激しい羽音も狂った鳴き声も聞こえなくなった。
しんと静まり返った中、紅い鬼だけが笑った。音もなく見たわけでもないのに、そう思った。
「あぁ……」
呟かれた声。それはやっぱり先ほど感じたのと同じように、優しいけれど冷たく笑っていて、頭を掴んでいた大きな手はゆっくり髪を撫でた。
「助けてヤルとも」
強く抱きしめられる。自分の口から呻き声が溢れるほどに。
途端にズルリと自分の体が力を失って、糸の切れた操り人形のように、四肢も首もカクンと鬼に寄りかかった。
「ナァ鈴音。俺は偽なんて要らないカナ」
鬼の頬が頭に擦りつけられる。
体に引っかけるように掛かっていた着物は、はらりと足元に落ちた。冷たい風が部屋に流れ込んでくるたびに、肩や背中、足、首筋を冷たく撫でる。
「泣ク声も、笑ウ声も、悲シさに体を丸める姿も」
素肌が広がる背中に大きな手が添えられ、ゆっくり上下に摩られる。
体に力が入らない。視界すら、自分で変えることが出来ない。
「お前がイイ鈴音。狂ったとシテも、病ンだとしても」
呪いのような語りかけ。
胸焼けするような甘い囁き声が、毒のように自分の心に染みていく。
「俺は鈴音が良いンダ」
背中を撫でていた手が腰に回される。
着物はもはや腰下まで全て落とされていて、お腹の下を全て覆う以外、体に纏ってはいなかった。
「例え恨みを向ケられても、お前が俺に向けられるモノなら……悪くないカナ」
鬼さんの顔が頭から首筋へ、首筋から鎖骨へ移動し、軽く牙を立てられた。
わたしの視界は赤みのある黒髪に、そこから生える二本の角。その向こうには色づいた紅葉の森。暗闇に浮かんで幻想的だ。
これであの子は助かる。もう籠の中で痛い目に遭うことはない。
本来の形に戻るんだ。全てが元通りになる。誰も悲しまなくなるんだ。
枯れたはずの目から、また大粒の涙がボロボロと溢れて零れた。
きっとこれは嬉し涙だ。あの子を助ければ全て終わる。そしてわたしも終わるんだ。
そう終わる。それが具体的に何であるかは、あえて考えない。
どうせ考えたって意味はない。先はないのだから。
「鈴音。俺を恨んでいないと言ったガ、憎んでいるダロウ。あぁ俺を嫌ってばかりいるンだろうナァ」
ゆっくり鬼さんは頭をもたげると、わたしを見下ろして妖しく笑った。それはもう、綺麗な紅い三日月を作って。
「嫌ってもお前が俺のモノであるのに変わらナイ。それに、鈴音自身の心であるのなら、俺は喜んで呑み込もうカナ」
鬼さんは酔っているのか。
お酒もないのに、いつも以上に変なことばかり言っている。
わたしはそれでも糸切れ人形に変わりなく、その場に顔の筋肉ひとつ動くこともなく、目も動かせることなく、鬼の手と腕に支えられながらその場に座り込んでいた。
「鬼‥…の雀」
ふと、自分の口が動いた。
そうすると、縁側の向こうにぼんやりとした影が見えた。影は風に吹かれると木の葉のように、影から何かが抜けていった。
『あぁ、あぁ……なんて……なんてこと』
小さな消えそうな小鳥の声。さわさわと木々が揺れると、羽のような形をした両腕で顔を覆ったのが見えた。
そして全身を震わせ、呻いて泣き出すと
『なんて愚かな……』
怨みの篭った、悲しい鳴き声が聞こえた。
彼女の背後から真っ暗な闇が溢れて来て彼女を包んだ。
一度だけ目を閉じて、もう一度目を開くと、そこには誰もいなかった。
ただ静かな暗闇が広がるだけだった。




