十四ノ怪
どこか切なげな物言いに戸惑った。
今だに優しい手つきで頭を撫でられて、わたしはじっと固まっていた。
わたしの為でもある?
色々不可解なものを覚えるが、鬼さんの手つきと口調があまりにも優しく、知らずにうっとりと瞼を閉じていた。
頭を撫でていた手が背中に回され、宥めるように摩られる。
「お前が部屋にいないから驚いた……まったく、とんだお転婆雀かな」
「……雀」
じんわりと染み入っていた微睡みに、ひやりとした物が一筋頭の芯を冷え込ませた。おかげでわたしはぼんやりとしていた頭が冴えて、おもむろに鬼さんから体を離した。
「どうした? もう良いのか?」
何も言えずにまた俯けば、鬼さんはわたしの手を取ってゆっくりと歩き出した。
「どうしてこんな無茶をお前は毎度するんだかな」
呆れた口調で言いながら、歩きやすいように草を分けて進んでいく。ここへ来る時は猪みたいに突っ込んできたのに、随分と丁寧に道を作っていく。
歩きやすいように気を配ってくれているのかな。
「お前はやはり陽の当たる所で、もう暫く大人しくしていた方が良さそうだな」
手際よく道を拓いていく鬼さんの大きな背中を見る。
ここでは鬼さんはずっと気遣ってくれている。籠の中に入れるのでもなく、雑誌も用意してくれたし、ラジオだってくれた。それにちょっとしたプレゼントだって。
……でも。だけれども。
脳裏に浮かぶのは籠の中に入っていた毟られた雀。首元のピンク色の地肌が痛々しい。
それに、わたしの姿へ変わって虚ろながらも怯えていた。
あの怪鳥の正体を知っていて、なおも不思議なことをわたしへ告げてわたしを追い出した。
もう一度鬼さんの揺れる背を見る。
わたしは何度か口を開け湿したあと、キツく目を閉じてから唾を飲み込んだ。
「……襖が、開かなかったから」
「あ?」
唐突に告げたわたしに「なんだそりゃ」とでも言いたげな声を上げて、鬼さんは歩みを止めずにわたしへ肩越しに振り返った。
「中庭に出る引き戸が開かなかったんです」
「それがどうして森ん中へ突っ込む事に繋がるんだ?」
わたしは黙り込んだ。
言ってしまっていいか判断しかねたからだ。
「また雀の幽霊か?」
ぶっきらぼうに言う鬼さんをちらりと見上げる。
鬼さんはわたしがまたあの雀を怖がって、部屋中を逃げ回ったんだと思っているのだろうか。
「少し、違います……」
「じゃあなんだ? どうしてこんな所にいるんだ?」
「それは……」
またしても言い淀んでしまう。
正直に言ってしまおうかどうか。それとも少し探りを入れようか。
「さっきも言いましたけれど、退魔の剣を取りに戻ろうとしたんです」
わたしはなるべく普通を装って鬼さんへ話した。
「それで鬼さんがあの中庭から出入りしていたみたいだったから、試しに中庭に行こうとして。でも、引き戸が開かなかったんです。ですからその、散歩がてら、他に出入り口は無いか探そうとしたんです」
若干苦しい所はあるが、細かい所は後でカバーしよう。
幻聴かどうかも分からない声を聞いたことも、雀の夢を見たことも、その雀がわたしの姿に変わったことも。今は伏せておくことにした。
「そんだけで、森に突っ込んだのか?」
やっぱりそうなっちゃうよね。当然だ。
色々考えを巡らせて、わたしは見えて来た縁側の明かりを見つけて俯いた。
「一人じゃ退屈だったんです。それにせっかく明るい所にいるのに、外へ出歩かないだなんて勿体ないじゃないですか」
「それじゃあ何が必要なんだ?」
間髪いれずに言われて固まる。
もう縁側の目の前に着いてわたし達は、草木の中から抜け出していた。虫の音も戻ってきて二人が黙っても静寂は訪れない。
「退屈だから外へ出たんだろう? 何が欲しい?」
「別に物が必要と言う訳じゃないです……でも、強いて言うのであれば、やっぱり退魔の剣が欲しいです。その他はいらないです」
さわさわと風が木の葉を揺らして、鬼さんのシャツとわたしの浴衣の裾もゆるくなびかせる。
部屋の明かりが鬼さんを照らしたおかげで、鬼さんの表情だけでなく、着ている服装がようやくハッキリした。
「鈴音。お前は光が欲しかったんだろう。だからこの場所をお前にやったんだ。これ以上光を欲してどうする?」
鬼さんは落ち着いた赤茶色のシャツを着て、ベージュのズボンを履いている。足はサンダルのようなものを履いていた。
表情は呆れ顔と困り顔が混ざったようなもので、まるでわたしが駄々っ子みたいなことをして、どうやって言い聞かせようか悩んでいるようにも見えた。
わたしはそれらを瞬きしながら見て、鬼さんへと顔を上げた。
「あの剣は特別なんです。勿論身を守る為と言うのもありますけれど」
退魔の剣は文字通り、魔を退ける御剣だ。
鬼さんの故郷でもある集落で、ひっそりと祀られていた木製の剣。教科書にでも載っていた三種の神器の一つ、両刃の土器によく似ていた。
「あの村の人達から貰った大事な物なんです。形見の様な物なんです。鬼さんだって知っているでしょう?」
なんたって鬼さんが生まれて初めて出歩いた集落だ。鬼さんだって彼らの境遇は知っているし、何よりわたしと一緒にいたんだ。退魔の剣を手にした経緯を知っている。
「あの子達や、その家族の願いも篭っているんです」
「あいつらとお前の間に、深い繋がりも無いのにか? ほんのひと晩程しか遣り取りもしなかっただろうが」
「時間の問題じゃありません。皆わたしに、この剣を託すと言っていたじゃないですか。それに、わたしは毎日あの子達の為に手を合わせています。そうあの子達と約束したんです」
「はっ、それで深い繋がりが出来たとでも? それこそお前の自己満足だろ」
吐き捨てるように言われて胸が痛くなった。
言い返したいのだが、言葉が出なくて口元をぎゅっとする。
自己満足。
そんなつもりは無かった。あの少年も喜んでくれているように感じた。
でも、本当の所はどうなんだろう。
わたしがこうして毎日手を合わせても無意味で、わたしが祈ることによって彼らが安らかに眠れると、本気で思っていることは思い上がりなんだろうか?
こういう揺さぶりはいつでもわたしが信じて疑わなかったものを、いとも簡単に崩してしまうのだ。
わたしがずっと毎日欠かさずしていたことが、こうもきっぱりと言い捨てられて、すぐに不安に陥ってしまう。
こんなんじゃダメだ。もっとしっかりしないと。
そうは思っても、どうしてもわたし一人では自信が持てなかった。元の、現世でいた時ならともかく、世間知らずだったこともあるかもしれないけれど、ここまですぐに揺らぐ事なんて無かったのに。
自己満足、なの?
あの子達は、あの少年たちは……わたしが両手を合わせても、まったく救われていないの? 今も苦しんでいるの?
わたしが黙って俯いてしまうと、鬼さんはわたしの様子に苛立ったのか、角の生えていない頭を片手で掻いたみたいで、ガシガシと音がした。
「あれは他の奴らが騒がんようにしまった」
苛々として言った後、気を取りなすように大きく息を吐いて、口調を緩めた。
「だから安心しろ。壊してやいないさ」
「いえでも、そうじゃなくって。鬼さんはわたしにあの剣をくれたんじゃなかったんですか?」
鬼さんの言葉にわたしは慌てて顔を上げた。
「持っていても良いって、わたしと約束してくれたんじゃなかったんですか?」
「あぁそうさ。あれは今だってお前の物だ。だから他の奴らにもやって無いし、あれの所有者は誰かと訊かれたらお前だと俺は答える」
またふぅーっと深く息を吐いて頭にやっていた手を下すと、鬼さんは片眉を寄せてわたしを見下ろした。
「もう良いだろう? この話は終いだ」
「え?」
鬼さんはにこやかに笑うと、わたしへ近づいてそっと髪を撫でてきた。
鬼さんが浮かべたその笑顔は、とても優しくて柔らかいものだった。思わずなんでも聞き入れてしまいそうになるくらい、惹かれる微笑みだった。
「外を歩きたいなら俺が連れだしてやる。だが今は駄目だ。少し辛抱しろ」
こくりと自分が頷きかけそうになるが、慌ててそれを取り消すと、鬼さんの、わたしの髪を撫でる手をやんわり外して見上げた。
「でも鬼さ」
「それよりも酌をしてくれ」
「お酌はします。けれど」
「鈴音が酌をしてくれるとより酒が美味くなる」
「それは有難いんですけれど、でもそれより」
「もう陽も沈んで寒くなるだろう。早いとこ上がって呑むとしよう」
「あ、の……鬼さん話を」
「怪我もしてないんだろう? なら早いところ部屋に上がれ」
「あ……の……わたしの」
口を開いて言いかけたわたしだったが、数秒後には言葉を呑み込んで足元を睨んだ。
鬼さんののらりくらりとした遣り取りに、わたしは煮え切らない物があって歯痒かった。
今の鬼さんからじゃ恐らく何も訊きだせない。もっと強気に出て白黒はっきりするべきか。
でも……。
それは質問した事によって何か恐ろしい事に触れるかもしれないという、未知の恐怖に怯える自分もいた。そしてまたこの心地良い閉塞感も、悪夢が訴える意味の分からなさも、心底うんざりしている自分もいるのだ。
「鈴音」
優しく鬼さんがわたしを呼ぶ。
人の顔をして人の姿をして、わたしを人として扱おうとしてくれている。
でも、違和感が拭えなかった。
これは、今見ているこの光景は、現実なのだろうか。
「鬼さん」
「ん?」
「わたし変な夢を見たんです」
「夢?」
またかと口にしないまでも、目が言っていた。
その目を真っ直ぐに見つめてわたしは息を吸った。
「とても怖い夢でした。変な鳥とか雀とか。だからその夢から守るために剣が欲しいんです。鬼さんだって、いくらなんでも夢の内容まで変えるなんてこと、出来ないでしょう?」
一気に捲し立てれば、鬼さんは僅かに目元を険しいものに変えた。でもそれは一瞬のうちに隠れてしまい、また目元を緩やかにして苦笑した。
「夢なんざ飽くまで夢かな。放っておけばそのうち消える。怖いなら俺が添い寝してやろうか?」
茶化して笑う鬼さんがわたしの顔に手を伸ばす。
わたしをその手を両手で掴んで、しっかりと見つめ口を開いた。
「鬼さんはわたしにあの退魔の剣を持たれるのが怖いんですか?」
「……なんだと?」
掴んだ大きな手がぴくりと動いた。
鬼さんの顔も少し強張り、口元はまだ笑が残っているものの、先ほどの柔からさは消えていた。
「どうしてそこまでしてあの剣をわたしに渡すのを怖がっているんです?」
鬼さんの手を掴んだまま、わたしは目を逸らさずに鬼さんの暗い目を見つめ続けた。
「わたしに何か隠しているんですか?」
問えば鬼さんから笑がすっと静かに消えた。
しかしだからといって怒っているわけでもなく、冷ややかでもなく、ただわたしを見下ろしていた。
「一度お屋敷にわたしを戻して下さい。退魔の剣が手元に無いのなら、わたしがお屋敷に戻っても問題ないでしょう?」
ギュッと大きな手を握る。
懇願する思いで鬼さんの無機質な、幾何学模様のない顔を必死に見つめて言った。
「鬼さん。ここは……この場所は……本当はどこなんですか?」
今度こそ鬼さんの人の気配は消えた。
元々鬼なのだからその表現は少し違うのだけれども、ずっと鬼の気配は押し隠していたように思えていたが、今はそれすらしていない。
「ねぇ鬼さん。わたしは、どこにいるんですか?」
ゆっくりとわたしが掴んでいた手が離れていった。
わたしを見下ろす仄暗い二つの目は、どこか奥の方で何かが燻っているように映った。
何も言われずに無機質な眼差しで見続けられると、思わず尻込みしそうになる。が、もう今更退けない。
「答えてくれないのでしたら、せめて退魔の剣を手元に置かせて下さい」
キッと目元に力を込めて人の顔をした鬼を見上げる。
「鬼さん――」
「ここまでしてやったのにマダあの忌々しい剣ガ欲シイのカッ」
聞こえた唸り声は訛りのある、低く紅い声だった。
顔半分は茨のように捉えどころのない模様が蠢いて覆い、唸った口元からは牙が覗いた。
そして不気味に光る瞳は、妖しい紅だった。