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「第一話-皮-」その4



「第一話-皮-」



 「で、具体的には何をすればいいんっすか?」

 七色先輩がひとしきり笑い終えたのを確認してから、半ば自暴自棄気味に尋ねる。ついでに、大口開けてどら焼きを頬張りながら。

 あー美味しい。美味しいのが憎らしい。

 口いっぱいにどら焼きを詰め込みながら、眉間に老人の如く深い皺が寄っていく

 「とりあえず、手に取って私に本を見せてくれないかい?」

 お茶をすすりながら、何食わぬ顔で七色先輩が言う。

 「本ならもう見てるじゃないっすか……俺がわざわざ持つ必要はないと思うんっすけど」

 「裏はまだ見てない」

 威圧的な七色先輩の沈んだ二つの瞳が僕を射抜く。有無を言わせぬその瞳。まるで、蛇に睨まれた蛙のようだ。

 口いっぱいに詰まったどら焼きを必死に噛み砕き、甘ったるくなった口の中を苦い緑茶ですすぐ。

 全く七色先輩め……。

 ため息一つ吐いてから例の本へと手を伸ばす。

 仮に僕まで指が焦げてしまったらどうしようか。痛いのは死ぬほど嫌だから出来ることならやりたくない。けど、七色先輩が自分から本を持つことは出来ない。だから仕方がない。僕なら持てるはず。大丈夫。心の中で必死に自分を勇気づける。倍速する鼓動。血を巡らすその勢いのせいか心臓が痛い。

 震える指が本へと少しずつ、少しずつ近づく。そして――。

 そっと、いつの間にか詰めていた息を吐き出す。

 乾いた本の表紙に指先がそっと触れる。震えが止まる。

 何も起きない。

 緊張の糸が解れ身体が楽になる。どうやら大丈夫そうだ。

 本をそっと持ち上げる。思っていたよりもずっと軽いそれに驚いた。と、同時に、鼻から脳天に突き刺してくるようなその生臭い人間の臭いが近づいたせいでより一層酷くなる。そこで、腕を限界まで伸ばしなるべく遠ざけるようにしながら、おそらく臭いが分かってないであろう七色先輩に本を突き出した。

 「はい、どうぞ」

 「ありがとう」

 七色先輩はそう言うと身体を上下左右に動かしながら、入念に本の観察を始めた。その瞳は宝物を発見した子供のように輝ており、何とも呑気なものだった。まったく、こっちの苦労も知らずに。後で絶対何か良い匂いがする菓子を奢ってもらおう、と一人心の中で決意する。

 酷くなる異臭にいくら顔をしかめても、七色先輩は知らん顔で観察を続ける。それが、一分。二分。三分……と。いくら本が軽いとは言え、片手で、しかも、腕を限界まで伸ばした今の状態では、いい加減腕が悲鳴を上げてくる。そして、その内逆に二つ折りになりそうだった。

 何で僕だけがこんな目に合わなきゃいけないんだ。震える腕に必死に力を入れながら悪態を吐く。

 見た目はさて置き、酒も煙草もやらないし、喧嘩だって仮に可愛い、可愛い女の子が捕まっていたとしても僕じゃ相手にならない! 他の誰かに助けてもらってくれ! と一目散に逃げ出すほどの平和主義な優等生だと言うのに。それに、今だってこうして……まぁ、後で小説取り上げるか、高級な菓子は奢ってもらうつもりだけど、こんな変人先輩のお願いを聞いてあげているし。だから、神様。いい加減にしやがれ。わりと本気で。

 いくら時間が経っても慣れない。それどころか、時間が経つにつれてどんどん気になってしまう鼻につんとくる不快な臭いを少しでもどうにかしたくって、顔を窓の方へと背ける。えいっ、せめてもの悪足掻きだ。

 ――――――――。

 「……七色先輩。今、何か言ったっすか?」

 不意に鼓膜を揺らした、風鈴のように涼やかで風に攫われどこかに消えて行ってしまいそうな程、か細い声。

 ……に……て……。

 脳に直接語りかけてくるような誰かの声。

 「いいや。私は何も言ってないけれど」

 「え?」

 七色先輩の方へと顔を向ける。

 視界に飛び込んできた灰がかったくすんだ黄色の古書。

 「――っ!」

 その表表紙の文字がうねり出し、そして表面がシャボン玉のように泡立ち始め。そして――。

 早くこっちに来て。

 そこに浮かび上がった毛が一切生えていない皮だけの、目、鼻、口。しっかりと目や口を閉じているそれはまるで眠っている人間のような顔をしており、何ともおぞましい光景だった。

 えっ。

 そいつの瞼がそっと開く。真っ白な陶器のような白い眼球。それがぐるりと回り、赤いビー玉のような二つの虹彩が僕を見つめた。

 えっ、え? 僕の身体が情けなく震え出す。

 本に浮かび上がった血色の悪い唇が弧を描き、薄らと開く。その開いた隙間から覗く底の見えない闇。そこから、漂う腐敗臭と生臭い血の臭い。死んだ人間が放つその臭い。脳天を突き刺すその刺激臭に頭がくらくらとする。

 反射的に甲高い悲鳴が腹の底から湧き上がる。

 「トワ君!?」

 目の前で起こった突然の出来事に錯乱する僕を、目を丸くし見つめながら、何も知らない七色先輩が慌てた様子で立ち上がり、右腕ごと僕への方へと身体を伸ばす。

 血の気が引き、冷たくなっていく身体。腹の底でのたうち回る生温かな吐き気。震える手から本が滑り落ちる。

 音もなく僕の手から滑り落ちるそれが、酷くスローモーションで見えた。

 ちゃぶ台に本の角がぶつかる。

 ぶつかる?

 いいや、違う。

 死んだ人間の皮膚に浮かぶ、何ともおぞましい人間の口がぱっかりと開く。開く。開く。僕を飲み込むほど大きく開く。

 逃げろ。本能が喧しい警告音を頭の中で鳴り響かせる。しかし、金縛りにあっているかの如く僕の身体はピクリとも動かなかった。

 動け、動け! 早く!!

 そうしている内にも、猛スピードで迫りくる大理石のように白い歯。口の中に広がる漆黒の闇。そこから漂う臭いは、鼻の奥に臭いの元が詰められたかの如くきつく、その腐敗臭と生臭い血の臭いが鼻を刺し、脳髄を揺さぶる。その臭いに、胃から口の中へと噎せ上がる熱くドロリと痺れる苦い物。

 「トワ君!」

 切羽詰まった七色先輩の叫び声。

 ――助けて。そう言うより前に、ぱっかりと大きく開いた暗い、暗い口の中の闇に、脳天から爪先まですっぽりと飲み込まれる。

 眼前に広がる果てなき闇。遠ざかっていく七色先輩の声。白い腕。グラグラと揺さぶられる脳内。その感覚に意識が遠のいていく。


 「見つけ出してください」

 

 誰かの請い願う声。

 一体誰の?

 考える間もなく僕は、先の見えぬ闇の中へ、何も抵抗できぬまま引きずり込まれて行った。



食べられるなら七色先輩にしてもらいたかった。

そして、僕はそれを助けることもなく、手を振り見届けたかったです。

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