「第一話-皮-」その3
「第一話-皮-」
霊門栖堂と筆で書かれたようなへんてこな黒い文字。所々崩れ落ち、表面が雨風によって変色した古ぼけた木の看板は、とても不気味だった。
神保町の本屋が立ち並ぶ道から少し離れた静かな路地裏。そこにひっそりと建てられたその不気味な古本屋。
その二階建ての一軒家をぼうっと見上げる。二回の窓は大きく開け放たれ、その窓のカーテンレールにぶら下がる、鮮やかな模様が描かれた風鈴がとても涼しげであった。
「坂垣さーん。私です。七色です。」
薄暗く、湿った涼しい店内に一歩踏み入って、七色先輩が叫ぶ。そこそこ、しっかりとした体つきの僕でさえあんな大きな声が出ないのに、あの華奢で今にも折れてしまいそうな身体の一体どこからあんなに大きな声が出るのか……毎度のことながらその声の大きさには目を丸くする。
棚に所狭し、と並べられた本。棚に入りきらずに床やテーブルの上に積み上げられた本。外にまで溢れんばかりにゆらゆらと乱雑に四方八方。本、本、本。
本。
もし、地震が来た時にここにいたとしたら、確実に本に埋もれて窒息死か圧死出来るであろう。それ程沢山の本が山のように不安定なタワーを作り上げている。
「おぉ、やっと来たか。待ちくたびれたぞ」
本の山の奥から煙草でしゃがれた男の声が飛んでくる。ぼさぼさに伸ばされた長い髪を、輪ゴムで無造作に縛った四代後半の中年男性。日本人にしては堀の深い整った顔のせいか、野暮ったい服を着ていても、不潔とも清潔とも言えぬその身なり。細い銀縁眼鏡と口に咥えた煙草の赤が暗闇の中にぼうっと浮かび上がる。
「すいません。ちょっと寄り道をしてしまいまして」
七色先輩が肩を竦め悪びれた様子もなく、店の奥へと歩みだす。僕もそれのすぐ後ろについて店内へと入る。店の中は、湿った古い紙とインクの香り、それから煙草の臭いでいっぱいだった。
「七色は相変わらず自由だな……」
「お褒めに預かり光栄です」
「お前のそういうとこ、一体誰に似たんだか」
「少なくとも自分では、古本屋の煙草好きな店長に似たのだと思っていますけどね」
「ほざけ」
七色先輩と坂垣さんの乾いた不気味な笑い声が、僕等の他に誰もいない店内に響き渡る。会話はまるで親子のように微笑ましいものなのに、二人から発せられるその幽霊のような雰囲気のせいで全てぶち壊し。店はただの妖怪館になってしまったようだった。
そして、こんな不気味な二人に挟まれた、若干一名。どう考えてもここに不釣り合いな僕。一人。ちなみに、こんな人物が二人に増える様子は残念ながらない。だから、この先もおそらく僕一人が挟まれ続けることになるのだろう。
そして、そんな僕は現在早くも出来ることならば帰りたいと思っています。心の底から。真剣に。
げんなりとしながら、七色先輩に後に続き本の間をすり抜けながら、店の奥へ奥へと進んでいく。
「それで、例の本は一体どこにあるのですか?」
七色先輩が店の一番奥に置かれたレジの近くに一脚だけ置かれた椅子に、無遠慮に座りながら坂垣さんに尋ねる。坂垣さんは、坂垣さんで、レジの所へと置かれた椅子に大きな音を立てて豪快に座りながら、煙草の煙を吐き出した。
ちなみに、僕が座る椅子はない。だから、毎回僕だけ椅子に座らず、七色先輩の、云わば、執事の如く斜め後ろでそっと控えている他なかった。しかし、だからと言って僕は、執事のようにアイロン掛けしたかのようなあの素晴らしい立ち姿ではなく、だらしない棒立ち状態である。残念ながら、基本引きこもりの僕にはあの技は習得できなかったのだ。そもそも習得する気もないけど。だから、出来ることならば楽な椅子に座りたいものだが、坂垣さんは店の狭さからかこれ以上椅子を買う予定はないらしいので、おそらく一生このままだろう。
そういう訳で、僕は今日も今日とて、七色先輩の斜め後ろでぼんやりとだらしない棒立ち姿で執事ごっこをする。とてもつまらないし足が辛い。もう年かな。
「まぁ、まぁ、七色。そう興奮するなって、直ぐには逃げやしねぇから」
坂垣さんが僕と七色先輩の方へと灰色の煙を吹きかけながら、ゆったりと言葉を吐く。そんな坂垣さんののんびりとした様子とは対照的に、そわそわと落ち着かない様子の七色先輩。その様子は、まるでガラクタを与えられはしゃぐ子供と、それを無感情のままにぼんやりと眺める親のようで少し可笑しかった。
相変わらずこの人たちはまるで本当の親子のようだな。
「生きている間には一度は見てみたいと、恋い焦がれた物を今日、ようやく見ることができるんです……興奮せずにはいられませんよ。」
肩を竦め忍び笑う七色先輩。そんな七色先輩の様子に、眉をひそめ顔をしかめる。
出来ることならば、僕は一生見たくなかったけどね。そんな悪趣味な物。
露骨に顔をしかめたせいか、そんな僕の様子に気づいた坂垣さんが愉快そうにニヤリと不気味な笑みをその顔に浮かべた。
「そうかい、そうかい。七色がそこまで言うなら、早速本がある場所へ案内してあげようじゃあないか。直
渡も早く読みたくって仕方がないって顔をしてるし……な」
目と目が合う。半月型に細められた茶色い瞳に殺意が沸く。
あの性悪野郎……一生覚えてろよ、と心の中で何十回目にもなる呪いの言葉と言う名の、悪役の捨て台詞のような言葉を心の中で呟く。勿論、声に出すつもりはない。あの七色先輩でさえ頭が上がらない相手に、僕みたいな新参者が勝てるわけがないから。むしろ、生きて帰ってこれたら百点満点だ。
余りの怒りに顔のパーツが真ん中に寄ってしまった僕を見つめながら、坂垣さんが低く笑う。そんな坂垣さんに倣って僕の方を振り返り、人を小馬鹿にした憎らしい笑みを暗い闇に染まった顔に浮かべる七色先輩。二人揃って完璧なサディストとしか思えないこの惨事。
僕は至極真っ当な普通の、ごく普通の人間であるから、こんな二人などお呼びじゃない。そして、お呼びじゃないこの二人を、今すぐ本に埋もれさせて僕と同じように苦しませてやりたい。そう思ってしまうほど、この現状がとても辛い。だからと言って、僕の身代わりとして二人からの攻撃を受けてくれそうな、僕第二号の登場は現時点では未定であるから、仕方がなしにこのひ弱な身体で一身に受け止めねばならない。あぁ、なんて無情な世界だろうか。
坂垣さんがひとしきり笑った後、気怠そうにゆっくりと立ち上がった。それから、首を奥の方にある階段の方に振ってから、二階へと上がって行く。僕等もそれに続き、坂垣さんの自宅である二階の部屋へと向かう。
一歩、一歩、階段を蹴り上げ上へと上がって行く度に、軋む木の音が日本らしさを感じさせ心地が良かった。よく磨かれた階段のこげ茶色の木が、窓から射す白っぽい日差しを反射してきらりと光り輝く。
都会に建てられた狭い家の、狭く急な階段を上りきってすぐ右側。茶色い煙草のヤニがべったりと浸み込んだ襖。流石、煙草を食うことを世の中で最も至高としている人物は住んでいるだけはあると思うほど、周辺に漂う肺を犯す煙臭さ。
坂垣さんがその古ぼけた襖を乱暴に開け放つ。木と木がぶつかり合う甲高い音が鼓膜を揺らす。
眩しい日差しが差し込む日当たりの良い襖の先。部屋の中。くすんだ黄土色の畳は年代を感じる。開け放たれた窓から覗く外から仰ぎ見た白い半透明の地に、鮮やかな赤い模様の入った涼しげな風鈴が視界の端で揺れ動く。
木製の古ぼけた箪笥と、沢山のいわくつきの本が詰め込まれた禍々しい本棚。そんな、まるで田舎のお年寄りが暮らしている部屋のような、古ぼけたその部屋の真ん中。つるりとした光沢が美しい木製のちゃぶ台が置かれていた。さらに、その上。ポツリと寂しげに置かれた、灰がかった薄い黄色の皮が被せられた古めかしい分厚い一冊の本。
「これが例の本ですか?」
「あぁ、そうだ」
「何だか思っていたより……」
「普通だろ?」
坂垣さんが無表情のまま、言葉と共に、アリスに出てくる芋虫の先生の如くゆったりと長く身体を包み込むような煙を吐き出す。坂垣さんの言うとおり、一見その本は、中世を専門として扱う古本屋にならばどこにでもありそうなハードカバーの本であるように見えた。ただ、おかしな点が一つ。その本が古めかしい見た目の割に、どこにも損傷がないことだ。
古本屋で売っている洋書は普通、多少の損傷がある物が多い。とくに、値段が跳ね上がれば、跳ね上がるほど、損傷が酷い物が多くあるように思う。しかし、この本にはそれがない。読み古された形式があるのに、だ。
襖を挟んで廊下側。七色先輩が顎に手を添え、何やら難しい顔をしながら部屋の中へと立ち入る。そうして、そのまま本を上から覗き込むようにちゃぶ台の方へと近づいて行く。
「失礼します」
七色先輩に続き、敷居をまたぐ際。僕だけは軽く会釈し、挨拶してから部屋の中へと潜り入る。そうしなければ僕は、あいつらに「客人」として迎えてもらえないから。そうなってしまったら最後。葉子先輩お手製のお札だけじゃどうにもならない相手が僕に襲い掛かるだろう。考えただけでも身震いする。
部屋の中へと入ってすぐ、微かな異臭に気が付いた。爽やかな夏の風に乗って仄かに鼻を擽る生臭いその臭い。その何とも言えない不気味な臭いに顔をしかめる。
「何かあったのかい?」
ゆったりと顔を上げ、僕の方へ振り返りながら七色先輩がどこか愉快気に尋ねてくる。
「えぇ」
腰につけた真っ黒い小さなポーチを取り外し、ちゃぶ台のすぐ傍に適当に投げる。それから、ちゃぶ台を挟んで向かい合いになるように、部屋の隅っこに重ねられた座布団を二つだけ拝借して並べる。
「おう、おう。なんだ、直渡はもう何か感じ取ってんのか。流石、幽霊のエキスパートは違うな」
「口の中にそこの本棚にある本、詰め込まれたいんっすか?」
「おぉ、怖い、怖い」
喉の奥を不気味に鳴らしながら、僕を茶化すだけ茶化して「じゃあ、俺は店番しなきゃならねぇから、あとは自由にしろ」と言って、そそくさとまた店の方へと戻って行ってしまった。
これで十四勝零敗。勿論、これは坂上さんの勝敗であり僕のものではない。つまり、僕がここに連れてこられ、坂上さんにいじり倒され早一年ちょっと。まだ、一度も勝てたことがないのだ。その余りの惨敗っぷりに我ながら心底呆れる。また、心底解せぬ。今すぐ再戦を希望したい。
まぁ、結局負けるんだろうけど。そもそも僕は七色先輩にさえ勝てないのだから。まず無理な話だ。
肩を落とし、大げさにため息を吐きながら、埃っぽい紺色のふかふかと枕にしたら丁度良さそうな座布団に腰を下ろす。本に近づいたせいか異臭がより一層強くなる。
「それで、トワ君。君は一体何に気づいたんだい? 気配? それとも声? ……はたまた形かい?」
口元に弧を描き、子供のようにはしゃぎながら、座布団の上に行儀良く正座した七色先輩が捲し立てるように僕に問うてくる。
それに対し、手を伸ばせば届く場所に置かれたポットといつものお茶と菓子のセットを手繰り寄せ、お茶を入れながら「臭いです」と適当に答えてやった。
「ほう、においか……」
「ええ、何か生臭い臭いがするんすよ。その本」
「具体的には?」
「夏場、人が電車の中で押し合いしている時みたいな…あんな感じの人間の生臭さっすね」
「人の皮で作られたこの本だ。人間臭くっても何の不思議もない。しかし、それは実に興味深いな……」
七色先輩が古めかしいその本を覗き込むようにして近づき、鼻をひくつかせながら、そのまわりの空気を大きく吸い込む。臭わない人はいいな。そんなことをぼんやり考えながら、入れたての熱いお茶をそっと七色先輩の近くへと差し出す。
白い湯気が生暖かい空気に乗って天へと舞い上がる。
「ありがとう」
「いえ」
手短に会話を終え、今度は大きめの木の器を机の上に置く。濃い茶色の器の中には、どらやき、チョコレート、クッキー、最中、大福、小さなカステラなど、甘いお菓子がぎっしりと詰まっていた。おそらく今日のために滅多に外に出ようとしない坂垣さんが、わざわざ用意してくれたのだろう。ご丁寧に甘党な僕らの為に、近場の煎餅屋の煎餅ではなく、様々な種類の甘味を用意してくれた坂垣さんは、何だかんだ言って優しい人だ。
自分用に入れたお茶をすすりながら、最中を一つ木の器から拝借する。
お茶をちゃぶ台の上に置き、最中の包装を破りちゃぶ台の上に乗せる。後でまとめて捨てるためだ。
七色先輩も幽霊のようにその長い腕をぬっと伸ばし、器の中からどら焼きを取り出し嬉しそうに食べ始めた。流石に包装紙を畳の上に捨てずに、僕のごみと同じ場所に置いた辺りやっぱり坂垣家での七色先輩の態度は違った。
最中を頬張りながら窓から覗く、晴れ渡った眩しい空をぼんやりと見上げる。普段、こんなに暑い休日に外に出るのは御免だけれど、今はそんな光り輝く外へ出ることが出来たらどんなにいいことか。悔しくて仕方がない。どれぐらい僕が外に出たいかと言えば、窓から外へと飛び降りた際、軽い骨折で済むと言われたならば宙で一回転してから落ちるぐらい喜んで飛び降りる。そのぐらい外に出たい。
まぁ、死にたくはないからやらないけど。
最中を一口齧る。口の中いっぱいに広がる餡子の素朴な甘さと、しっとりと香ばしい皮が絶妙に絡み合い口の中で踊り狂っていた。つまりは、とんでもなく美味いということだ。流石東京のお高い和菓子。地元のスーパーで安く売っているのとは一味も二味も違う。そもそも、比べることすらおこがましい程である。
一人頷きながら、口の中いっぱいに張り付いた甘味を洗い流すべくお茶へと手を伸ばす。
手を伸ばしながら顔をちゃぶ台の方へと向ける。
刹那。空気が黄から緑へ……あの本が置かれた場所を中心として光りの線が四方八方へ飛び散る。鼻腔を擽る煙草のフィルタが焦げたような、甘臭い雷が落ちた時とよく似たその臭い。
ぎょっとして見開いたまま、事が起きたであろう伸ばされた腕の先へと慌てて視線を向ける。
「おや、おや……今回は手強そうだね」
本の周りで、雷が落ちる時のあの音を小さくしたものが渦巻く。それに合わせて白い筋を立て輝く光の筋。その少し上で停止している七色先輩の青白い右手。
その中指は黒く煤けており、更に、赤黒い血液が薄らと滲んでいた。
「ついでに、どうやら私のことはお呼びじゃないようだ」
ほら。と、焦げた指先を僕の顔の前へと突き出す七色先輩。
「そんなのいつものことじゃないっすか」
畳の上に置いたポーチの中から、ワセリンや絆創膏などの簡単な治療道具が入った、小さなこれまた小さな和柄の入った白地のポーチを取り出す。
七色先輩自身はオカルトが三度の飯よりも好きなくせに、いつもオカルト的な出来事に拒否され、酷いしっぺ返しを食らう。今回もそうだ。だから、僕は常に衛生兵の如く、オカルト関係の場所へ赴く際には必ず簡単な治療道具を持っていく。さもなければ、七色先輩はどんな怪我でもそのまま放置してしまうから。
さらに、そんなオカルト好きなのにオカルトから嫌われている七色先輩の代わりに、そういった奇怪な現象に襲われるのはいつも僕である。まったく酷い話だ。ちなみに、葉子先輩は葉子先輩で、得意の謎の儀式やら技によって自分の対処は自分でしてしまい、後は放置。結果、そっちから追いやられたものがやっぱり僕を襲う。本当に酷く迷惑な話だ。
ため息を吐きながら、焦げて血が滲んでいる七色先輩の指を手ごと片手で引き寄せる。本当は人間ではなく、幽霊やロボットだと言われても疑わない程、氷のように冷たく冷えたその手。
傷口に付いた血を拭き取り、傷口を消毒してからワセリンを塗りつけたり、と手早く治療をしながら、されるがまま大人しくしている七色先輩をチラリと上目使いでそっと見やる。
欲しかった物を目の前で取り上げられたような、今にも癇癪を起してしまうのではないかと思えるその子供のような表情が、いつも学校で見かける七色先輩の能面顔とはかけ離れていて少し可笑しかった。
「はい。出来たっすよ」
「ありがとう」
「まったく……何で毎度毎度そうやって、拒絶されるのが分かってても触ろうとするんっすか」
絆創膏が巻き終わった指を軽く叩きながら、またため息を吐く。これで今日、一体何度目のため息になるのだろうか。
いつか死にそうでこっちはそれが怖くって。心配で堪らないのを少しは分かってもらいたい。
心の中で悪態を吐きながら、ひそめた眉のせいで心配していることがバレたくなくって、そっと顔を背けながらポーチの中に治療道具の入ったポーチを仕舞いなおす。
「……すまないね。トワ君」
「え?」
妙に大人しいと思っていた七色先輩が突然ポツリと静かに呟いた。驚いて顔を七色先輩の方へと勢いよく戻す。七色先輩は頭を垂れていたせいで、その顔にかかった陰のせいで表情は殆ど分からなかった。
「どうしても知りたいのだよ……知らなくてはならないのだよ」
空気が抜けて、掠れた酷く沈んだ小さな声。今にも泣いてしまうのではないか。有り得ないのは分かってはいながらも、そっと七色先輩の小さく形の良い頭へと手を伸ばした――と、同時に、ぱっと何もなかったかのように七色先輩の無表情な顔が上げられた。慌てて手をひっこめ、何となく極まりが悪くってそっぽを向いた。
「君にはいつも、いつも迷惑ばかりかけて……」
「別にいいっすよ」
「そうかいい?」
「確かに迷惑ばかりかけられてるっすけど、別に死ぬほど嫌だって訳じゃないっすし。それに、七色先輩に助けられること多いっすからね」
「そうかい……そうかい、それならば良かった」
七色先輩の声色が元通りになる。それにほっと息を吐きながら、また顔を前へと戻した。
あっ。
声にならない声が喉の奥に張り付いた。
やられた……。額に手を当てて項垂れる。
七色先輩の青白い顔に浮かべる、真っ赤な三日月。黒く沈んだ瞳の奥で光るいたずらっ子が発するのと同じ、それ。
「君ならばそう言ってくれると信じていたよ。それでは早速、この本のことはよろしく頼んだよ。トワ君」
口角に人の良い笑みを浮かべ、目を糸のように細くし僕に微笑みかける七色先輩。心底憎らしいその表情。
あぁ、まったくこの人には……
「勝てやしない」
項垂れる僕をしり目に七色先輩が喉を鳴らし、楽しげに笑う喧しい声が鼓膜を揺らす。勝ち誇ったその表情。人を小馬鹿にするようなその表情。それに沸々と腹の底から怒りが込み上げてくる。
もう絶対怪我の治療なんてしてやるもんか。というか、むしろそのまま放置してやる。それで、いつか悪霊に食われちまえ。
心の中で悪態を吐きながら、木の器の中からどら焼きを一つ取り出し、乱暴にその袋を破り捨てた。
七色先輩も坂垣さんも、僕にとっては敵です。嫌になっちゃいます。