「第一話-皮-」その2
「第一話 -皮- 」
六月。空は青い。しかし、湿度が高いせいかうっすらとぼやけて見える、そんな今日。気温は三十度越え、真夏日だ。
天から降り注ぐ太陽の光が僕の身体を容赦なく焼く。このままでは鳥の丸焼きになってしまいそうだ。チキンなだけに。
「あっちぃ……」
ぽつりと呟きながら顔をしかめ、陽炎が揺らめく道路を睨み付ける。もう待ち合わせ時間から十分近く過ぎているのに、ここにいない七色先輩への恨みも込めて。
そんな僕の前を一人、また一人と遠回りして過ぎ去っていく。何とも酷い光景である。
僕は善良な市民で、心だって一般の人のそれに比べて弱い方だと自負しているにも関わらずに、だ。
例えば、不良に絡まれ「金を出せ」と言われたら、僕は金どころか全裸、果てには臓器まで黙って差し出し、その場を丸く収めたい程の平和主義である。まぁ、冗談だけど。
塀に預けた背中から止め処なく溢れ出す汗。相方としては零点のそれのせいで僕の背中は異常な程蒸していた。
動けば多少はマシになるのだろうけれど、他に恰好がつく人を待つときの姿勢が思いつかないので、僕はこの大勢を続けるしかなかった。
汗でファンデーショーンが水を含んだきな粉のように肌から浮き、湿ったまとまりになっていく。けれども、タオルで顔を盛大に拭うことはできない。そんなことをしてしまった日には、顔に塗りたくった化粧が滲み、ずれ、結果的に化け物と化してしまうから。
それにしても、今日も七色先輩はやっぱり時間通りには来てくれないな。
目の前を行き交う人々をぼんやり眺める。本屋街というぐらいの場所だから、地味な見た目の人やサラリーマンらしき人物が多く見受けられた。それに、休日だからだろうか。町は平日に比べ、沢山の人々で賑やかだった。
そんな中、すれ違う人々が時々訝しげな瞳で僕を見る。その瞳が僕には「なんで、お前みたいなやつがいるんだ」と、訴えかけているように思えた。それは僕にとって、酷く恐ろしいもので、とても居心地が悪かった。
だからと言ってそんな気持ちを表に出すことは出来ない。何故なら、顔を顰めた結果、前科持ちの犯罪者面となった僕を見て、彼等は益々僕に非難を向けてくるだろうから。さらに、恐怖が詰まった淀んだ瞳を向けてくるだろうから。
だから、僕は素知らぬふりをし続ける。
「ねぇ、お母さん。あのおにい……」
唐突に、少し離れたところから母親であろう人物と共に歩いてくる小さな女の子が僕をじっと見つめ、その小さな口を一杯に広げる。まだ小さな歯が、赤い口の中から微かに覗いた。と、同時に、その子の母親であろう人物が女の子の手を強く引き、速足で――勿論遠回りしながら僕の前を通り過ぎていく。
これがかの有名な「しっ、見ちゃだめよ」の光景である。ちなみに、僕はこの光景を勿論当事者は僕で、外出するたびほぼ必ず一度はやられる。だからもう慣れたもんで、今じゃその場ですぐに爆発してしまいたいぐらいしか恥じぬようになった。これぞ修行の成果。
心にぐっさりと刺さったあの女性の行動にげんなりしながら、左右を見回す。七色先輩を探すという名の気晴らしのために。
「トワくーん」
先程、僕の前を通り過ぎて行った親子の少し先で七色先輩が口角を上げ、どこか愉快気に僕へと真っ白な右手を振っていた。笑っている理由はおそらく、先程のやり取りをみていたからなのだろう。忌々しい限りである。
七色先輩が僕の方へと歩みを進める。
半袖の一点のシミもない真っ白なYシャツから伸びる青白い両腕。細い足を覆い隠す、ゆったりとした黒いズボン。頭に被ったレトロなカンカン帽。そして、それが作り出す暗い影のせいで、のっぺらぼうのようになってしまった不気味なその姿。
「今日は十分の遅刻っすよ、七色先輩」
遅刻しているにもかかわらず、のろのろとこちらに歩み寄るその姿に眉をひそめ、嫌味をたっぷりと込めて言う。
「いやぁ……時間より早く着いてはいたのだけれど、とんだ誤算がね」
「また本を見ただけでしょう?」
「ご名答。流石トワ君だね」
まったく悪びれる様子もなく無表情のまま、淡々と答える七色先輩。
予想はしていた。待ちたくはないが、十分ぐらいの遅刻であればまだ許容範囲だ。一時間を越えなければ花丸。そういうことにする。そうじゃなくちゃ、いつまで立っても埒が明かないように思えたから。
「ところで、今日は、いつにも増して暑そうな格好だね。トワ君」
七色先輩の夜空のように冷やかな瞳が、僕を上から下まで値踏みするようにジロリと見回す。今日ばかりは七色先輩にそう言われても、ぐうの音も出ない。目だけ下に向け、チラリと自分の格好を確認する。
真っ黒な野暮ったいズボンに、これまた真っ黒な七分丈のTシャツ。更には、羽織ものまで着ているせいか、たいへん重く、暑苦しいその服装。果てには、小さな露店のアクセサリー店が開けそうなほど沢山の銀色に輝くいかついアクセサリーまでつけている始末だ。
酷く暑そうだ。というか、暑い。とてつもなく暑苦しい。
自分の格好を見つめながらほんの少しだけ眉をひそめる。
僕だって家だったら、適当なタンクトップに涼しげな色の短パンという、今時小学生もびっくりするような酷く涼しげな格好をしていたりする。そして、出来るならそういう格好で終日過ごしていたい。何故なら暑いから。しかし、ここは外で学校の人や元同級生達に会う可能性は無いとは言い切れない。だから気が抜けない。
目を瞑りため息を吐く。
「トワ君はまるでエリマキトカゲのようだね」
だらしなく七三分けしている、顔を覆い尽くすほど長く伸びた前髪の両端が、軽く摘み上げられる感触にそっと目を開く。
僕よりも頭半分程高い七色先輩の薄っぺらい身体が、僕の目の前にそびえ立つ。七色先輩が無表情のまま、親指と人差し指で摘まんだ髪を扇のように上へと開き上げる。
これじゃあ、本当にエリマキトカゲのようだ。
「弱い自分を隠す盾で埋もれてしまっては勿体無いよ。特に君はね」
何がとは聞かない。憐れみが込められたその言葉に嫌な気持ちも湧いてこない。ただ、僕の心が悲痛な叫び声を上げのたうち回る。
しかし、僕はそれを知らんぷりする。
これは僕が生きていくために必要な仮面。だから、外すことなんて決してできやしない。
頭を垂れ、軽く左右に振りながら、片手で七色先輩の細く白い手を払う。それから、顔を上げてニコリと微笑んでやる。そして、完璧な拒絶の意を伝える。
「俺のことは別にいいっすよ。それより、今日はどこに行くんすか?」
微かに七色先輩の顔が曇る。その酷く残念そうな顔を見なかったふりをする。こればっかりは、七色先輩の言うことを聞くことは出来ないから。心の奥底に深く突き刺さった碇。それが僕をどこへも行かせようとはしてくれないのだ。
心臓を抉る罪悪感。自己嫌悪。自傷癖。僕は貴方のようにはなれません。
握りしめた右手の拳に力が入り、爪が薄い皮膚に突き刺さる。そこから溢れ出すじわりと温かな痛みと、微かな痺れ。
七色先輩の表情が崩れたのは本当に一瞬のことで、すぐにまたいつも通り冷たい能面のような顔に戻る。そして「あぁ、いつもの所だよ」といつも通り短く答えてくれた。
おそらく機嫌は損ねてはいるのだろうけれど、それもいつものことだ。気にしない。
七色先輩はいくら無理だと伝えても、何度でも僕の仮面を剥ごうとする。有難いけれど、今の僕にはまだ出来ない。だから、お互い分かっているから特に何の変化もない。ただ、いつも通りが続くだけ。
ごめんなさい。と心の中で懺悔しながら「やっぱりあそこっすか」と独り言のように呟く。
「あの店以外に他に行くところでも?」
「ないっすね」
「だろう?」
薄らと開いた薔薇のように真っ赤な薄い唇。そこから覗く底の見えぬ闇から発せられる風のように軽やかで、魂を攫う死神のように恐ろしい響きを持つその声に背中が粟立つ。
七色先輩は僕がもう何も言わないことを確認してから、回れ右をして歩き出した。もう、伝えたいことは全て伝え合った。これ以上ここにいる必要はない。もう、先へ行こう。そう言いたげな華奢な背中。七色先輩は振り返ることもなく、次に目指す目的地へ向けただ黙々と歩み続ける。
そんな先輩の背中をぼんやりと眺めながら、ズボンの右側のポケットに手を突っ込む。そうして、そこに入れた手触りの良い小さな木のお札の表面を指先でそっと撫でた。
今日はバイトで来ることが出来ない葉子先輩が、今日の為にわざわざ作ってくれた物だ。
葉子先輩が一体どういう経緯で、こんなものを作ることが出来るようになったかはさて置き、葉子先輩が作る魔除けの道具はとにかく良く効く。僕自身、それに何度も助けられたことがあるし、葉子先輩のバイト先である神社でも人気の商品らしい。
そして、そんな価値のある物を僕は毎回タダで受け取っている。まぁ、その度に巻き込まれる厄介事を運んでくるのが当の本人か、その相棒である七色先輩だから、タダで助けられて当然なのだが……。
お札が壊れないように、ポケットの中でそっと握りしめる。葉子先輩が僕にこれを渡したということは、今回も何かしらの厄介事に巻き込まれるのだろう。だから、今回この守りは魔除けというより、僕にとってはただの疫病神でしかなかった。だからと言ってこれを投げ捨てることもできない。もし、この守りがなければ僕は生きて帰ってくることさえ難しいのだろうから。全く困ったものだ。
憎らしいほど晴れた空を見上げ、ここにはいない葉子先輩を思いため息を吐く。
どうか、今日こそは葉子先輩のあの鋭すぎる勘が外れますように。外れなかったとしても、このお札でどうにかできる程度の軽い奴にしてください。僕、昨日の夜に母の肩を揉んだり、父とお喋りしたり、今時大学生にしては珍しいほど良くできた親孝行な息子っぷりを発揮したんで、そこを考慮して……どうか、どうか、お願いします。
心の中でまったく信じていない神様に祈りを捧げる。
そうして、握ったお札からパッと手を離し、歩き出す。服と木が擦れて何とも言えない異物感が肌をくすぐる。
先輩のすぐ斜め後ろを、置いて行かれないように、七色先輩に倣って黙々と歩み続ける。
そうして、毎月のように先輩に連れられ通い詰めている、あの古ぼけた薄気味悪い古本屋を目指して。
七色先輩はいつでも自分勝手で困り者です。
次回からようやく物語の本編に入るかもです。