忘れていた涙
「田上さん」
「はい」
私は、ある日上司に呼ばれ、振り向いた。
そこには、心配そうな顔をした上司が立っていた。
「どうされました?」
「田上さん、寒がり?」
「え?」
「真夏でも半袖着ないでしょう?あと、いつもパンツスタイルでしょう?」
「あ、はい・・・・」
「もし、寒かったら、エアコンの温度上げようか?」
「あ、いえ、おかまいなく。」
「本当は・・・」
「はい?」
「何か、心配事があるんじゃないの?」
一瞬ドキッとした。 また、何かを見透かされているのではないだろうか、と。
「いいえ、何もありません。 私、仕事で何かご迷惑をおかけしましたでしょうか?」
恐る恐る尋ねた。
「何も、仕事は良くしてもらってるよ。 田上さんと組めて、本当に良かった。 僕達は、ある意味、パートナーでしょう?」
「あ、ありがとうございます。」
「だから・・・言ってもらえるとありがたいかな。 田上さんが、とても辛そうに見えるんだ。」
「え? 辛そう?」
「うん。 DVなんじゃないの? ご主人?」
びっくりした。 バレていたのだろうか。 しっかり隠していたつもりが。
「他の部署の人たちとは、あまり会うこともないけど、僕と田上さんは同じ部屋で二人きりで仕事をしてるでしょう? だから、打ち合わせをするときとか、否応なしに顔を近くで見るよね。 そしたら、どれだけ田上さんがメイクで隠しても、青あざは見えてしまうよ。 それに・・・普段かけない眼鏡をしている日は、決まってメイクをしている。ずっと、大丈夫かな?って思っていたんだ。」
「大丈夫です。 なんでもありません。 そそっかしいので、ぶつけてしまうんです。」
「ふう・・・。田上さんがそう言うのに、無理やり聞こうとは思ってないんだ。 だけど、もしDVならば、犯罪だからね。 ほってはおけないでしょう。」
「本当に、何でも・・・」
私は、感情とは裏腹に、涙を流していた。
知られてまずいと思うのと同時に、知られてほっとしているようにも感じていたのだ。
「僕は正直、何もできないけど、話しを聞いたり、相談に乗ったり、それにいろいろ調べることはできるからね。」
「・・・・・」
言葉を発しようとしても、言葉が出なかった。
いつの間にか、私は、しゃくりあげて泣いていた。 子供のように。
いつ以来だろう。 もう、喜怒哀楽を忘れていたのかもしれない。
「それでさ、今日は、帰ったらいいよ。 家で、ゆっくりしたほうがいい。 そういう日があってもいいでしょう?」
言葉が出ない。 だから、いらないコピー用紙の裏に、
『でも、最終の画像処理が終わっていません。』
そう書いて、上司に渡した。
上司は、優しく笑いながら、
「そんなの、明日でも田上さんならすぐできるでしょ? 窓から海を眺める時間をちょっと削ろう。」
それもバレていたのね。
『すみません。では、帰ります。』
鼻水でぐちゃぐちゃの鼻をハンカチで押さえて、上司にもう一枚のコピー用紙の裏に書いたものを渡した。
「お疲れ様。明日ね。」
そう言うと、またデスクに向かい仕事を始めた。
その日は、感情が昂ぶっていたので、すぐに部屋を出たが、車を運転しながら穏やかな海の表情を見ながら、改めて感謝した。
知っていてくれる人がいることへの感謝。
上司の思いやり。
久しぶりに感じた、人の温かみだった。