哀れみ
一頻り暴力を振るった後の夫は、いつも優しい。
「大丈夫か? 俺も、こんなことしたくないんだよ。 可哀想に・・・ 冷やそうな。」
必死になって、氷嚢を取り出す。
大体、今の時代に氷嚢がある家庭がどれだけあるだろうか?
この家には、いつしか氷嚢がなくてはならない存在となっている。
暴力が始まった頃は、当然暴力をされるぐらいだから、私が絶対的に悪いのだろうと思い込んでいて、ビニールに氷を入れて冷やしてくれたときには、
「ごめんなさい。ありがとう」
と、言っていたが、次第に、自分に否があるのかどうかすら怪しくなり、もう、その言葉を言うのをやめた。
ただ、暴力の後は身体が動かない故に、夫が氷嚢を持ってくるのをただ黙って受け取ることにしている。
何故、こんな状況なのに、私はそれを脱しないのか、自分自身不思議でならない。
もう、この優しさに似た、《イベント》も、優しさではないと判り切っているのに。
それは、きっと、子供のこともあるだろうけど、夫の生い立ちを知っているからだろう。
彼が、普通に生まれ、普通に育ったならば、こんな人にはならなかったろうし、もし、そうだったら、私とこうしていたかもわからない。
彼もまた、犠牲者だと、わかっているからだ。
とはいえ、私はかなり身体が辛い。
心も、もう限界に近い。
いや、限界を逸しているかもしれない。
なのに、私はこの人を、愛などという生ぬるい言葉を逸脱し、哀れみや、苦しみという感情を通じて、彼に共感しているのかもしれない。
だから、こんな過酷な状況を、どうしても脱せないでいるのかもしれない。
そして、彼は、子供を、私の次に、愛しているのを知っているから。