父親の気持ち
「初めまして。弁護士の市川と申します。」
「初めまして。わざわざ、お越しいただいて、申し訳ない。」
シャンと背筋を伸ばして正座していたその背中を丸め、畳に額が付くぐらい深々と頭を下げた。
頭を下げたのは、田上唯の父親だ。
「この度は、娘さんが大変なことに・・・」
「いや、全て娘の責任です。仕方ない。」
「今回、お邪魔したのは、娘さんの離婚についてなのですが・・・」
「離婚は許しません。一度、自分で決めた結婚です。子も設けています。簡単に離婚などできるわけないですから。」
「・・・・・・。娘さんがおっしゃっていた通りですね。因みに、お父様は、娘さんがもし離婚されたら、こちらに引き取られますか?お孫さんと一緒に。」
「いや、それもできません。結婚するときに、二度とウチの敷居は跨がせない。お前の帰る場所は、夫のいる家だけだと約束してますから。」
「それも、娘さんがおっしゃった通りの答えです。娘さんは、お父様を良くご理解なさってる。」
「そうですか。そう躾けてきましたから。ずっと。」
「でも、お父様は、哀しくないですか?辛くないですか? お父様の娘さんですよ。その娘さんが、顔は腫れあがり、内臓まで損傷しているのに、それでも何ともないんですか?」
「・・・・・弁護士さんは、お子さんはいますか?」
「はい、ちょうど、お父様のお孫さんと同じぐらいの歳の女の子です。」
「もし、弁護士さんのお子さんが、うちの娘と同じようなことになったら、どう思います?」
「相手の男を、私が殴り殺してやりたいと思います。 ただ・・・本当にそうはしないと思いますが。」
「同じですよ。私だって、娘が可愛い。ずっと、そういう感情を抑えて育ててきましたが、子供を可愛くない親なんて、きっとそういないでしょう? 私も、娘の夫を殴り殺してやりたいぐらい憎いと思ったことはあります。」
市川は、ほっとしていた。 親御さんも、普通の親なのだ、と。
「でも・・・・」
その安堵感を払拭するかのように、父親は話しを続けた。
「娘の夫は、可哀想な子なんですよ。好きでああなったわけではない。あの子の生い立ちは、とても想像にも及ばないぐらい、酷いものだった。」
「はあ・・・」
「あの子には、愛情が足らないんですよ。 生き方がわからないんです。生きたくて、愛されたくて仕方ないんですよ。 そのことを、自分自身わかっていない。」
「でも、そのことに、娘さんがいつまでも犠牲になる必要はあるんでしょうか?」
「・・・・・・」
そのまま、父親は、タバコに火を点けては二、三回吸ってもみ消し、それを何度か繰り返し、しばらく考え込んでいるようだった。
「お父さん。」
父親は、返事をせずに、市川の顔を見た。
「私は、娘さんに刑事事件にしましょうと、提案しました。診断書もありますし、警察もそうした方がいいと、いや、警察だけではなく、誰が聞いてもそうした方がいいと思うはずです。」
「それはできません。」
「何故ですか?」
「あの子が・・・孫が、犯罪者の子になってしまう。あまりにも可哀想だ。それに、娘の夫も、犯罪者のレッテルが付いてしまったら、あの子の人生も悲惨なものになってしまう。」
「本当に・・・・・親子で、どこまで・・・・」
市川は、やっぱりか、という思いと、ここまで来ると、気持ちの良さまで感じていた。
「お父さん、それも娘さんと同じことを言われましたよ。」
父親は、びっくりした顔をして、その後、タバコに火を点け、席を立った。
遠くから、声を押し殺して嗚咽する声が聞こえてきた。
20分ぐらいしてから、父親が戻ってきた。
「弁護士さん、どうしたら、みんなが極力傷つかずに離婚できますかね。」
「お父さん・・・」
市川は、人事にも関わらず、弁護士という立場も忘れて、何故だか涙が出た。
「お父さん、みんな幸せに、なるべく幸せになるように、頑張りましょう。きっと、きっといい案があるはずです。」
「どうか、宜しくお願いします。」
また、父親は、畳に額を擦り付けるように深々と頭を下げた。