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「――眠れないのか」
低い声が響いて、飛び上がらんばかりに驚いた。
意識が半分飛んでいた。
「ごっ……、閣下」
危うく『ご主人様』と呼びかけるところだった。
慌てて立ち上がって礼をする。
「座っていて良い」
二ヶ月ぶりのご主人様は、室内着の襟元を緩めて気怠げだ。髪も少し乱れていて、というかセットされていなくて、なんというかどうにもこうにも男の色気が酷い有様だ。まさか女性の所に寄った帰りだろうか。ご主人様も適齢期だし、無理もない。
いやしかし、座っていて良いと言われてはいそうですかと再び腰を下ろせるほど私は無遠慮でもないし図太くもない。
それにご主人様が夜の散歩をされるのであれば使用人は立ち去るべきだ。夜の庭園に散歩以外の用事なんてないはずだし……いや、まさか。庭園で逢引でもする予定だろうか、ご主人様も適齢期だし。これはますます早く退散しなくては。
ご主人様の年齢なんか知らないが、アニエスさんがよく嘆いているので刷り込まれてしまった。ご主人様、職務には熱心だけど嫁取りには無関心なんだって。ご主人様の身分があればすぐに相手も見つかるだろうし別に気にすることないんじゃないの、と思っているけど言わない。
「庭に明かりが見えたから様子を見に来ただけだ」
「は、あ」
妄想が酷すぎて聞き逃すところだったが、どうやら不審者扱いされていたらしいと気付く。
「申し訳ありません、以後気を付けます。私、戻りますね」
そりゃそうだ、夜中にうろうろしていたら不審者だ。
身元もわからない人間が人気のない場所を夜にうろうろしていたら疑われるに決まっている。私は招かれたお客さんではないのだ。
「咎めているわけではない」
「え?」
「少し話をしないか」
「あ、はい」
ご主人様はベンチに腰を下ろした。そちらに向き直ると、やっぱり体格が良いだけあって座っていても大きい。ご主人様がとんと座面を叩く。
「座ると良い」
「……失礼します」
深く腰を下ろすと足が地面に届かないので、浅く。やはりベンチもご主人様仕様なのだ。
「ここの生活には慣れたか」
ああ、業務報告か。了解。
「はい。執事長も侍女長も親身になって教えてくださっています。今は主に掃除と洗濯を行っていて」
「そうではない」
「え?」
しまった答を間違ったか。
「何か不自由はないか」
「え、いえ、ありません」
おうちに戻れないことが最大の不自由だけれどここでこの人に言ってもどうしようもない。
「……」
「……」
あ、無言。
「あの、執事長には今文字を教えてもらっていて。その、読めるけれど書くことができないので筆圧のないこどもの字のようになってしまってて」
あははー、と笑い飛ばそうとしたが何か痛々しいものを見るような目で見られてしまった。
「歴史とか、地理とか、一般常識を早く身につけなくては、って、頑張っているところです」
「……そうか。困ったことがあれば相談してくれ。私はここに戻ることが少なく、力になってやれず済まない」
「いえ。ここに置いてくださるだけで感謝しています。連れてきてくださってありがとう。ずっと、お礼を申し上げたかったんです」
「気にしなくていい。巻き込んだのはこちらの方だ。元の生活に早く戻してやりたいとは思っているのだが、中々進んでいなくてな」
元の生活。
そうか。元の生活……二ヶ月も経っていれば解雇になっているだろうし、マンションも強制退去だろうし、失踪扱いにもなっているだろう。親は悲しんでくれているだろうし、友人たちも心配してくれているだろう。恋人と呼ぶべき立場の相手がいなかったのは良かったかもしれない。
「……わた、し」
あまりにも戻るのが遅くなってしまったら再就職が難しいかもしれない。遅くなりすぎて死んだことにされてたりしたら、どう理解してもらえばいいのだろうか。
うわ、ここに根を下ろした方が却って生きやすかったりしない?
いやいや、戻らなくちゃ。いつになっても。生きてるって、せめてそれだけは伝えないといけない。
「戻れますか」
「わからない」
ご主人様は正直者でしたっ。
ええもうそりゃそうでしょうそう答えるしかないでしょうけど。
いたたまれなくて視線を落とし足をぶらぶらさせていると肩に手を置かれた。
しまった、使用人にあるまじき振る舞いだった。
「戻る方法は調べている。老師も諦めてはいない」
目を向けるとご主人様が真面目な顔をしてそう言った。
「慣れぬ環境で心細いだろう。困ったことがあったら何でも言ってくれ」
ええええ、なんなのご主人様。
頭、よしよしされてる。
え、そういうキャラなんですか。
厳つい顔して、優しいの?
ギャップ?
えーもーやめてくんないかなそういうの。
「泣くな」
泣けてくるじゃない、そんなに、心配そうな顔をして、不意打ちで優しさ見せてさ。二ヶ月音沙汰なかったのに。
「泣いて、ないです」
素直に人前で泣けません。そんな可愛げないです。
二ヶ月前のアレは、一人だと思っていたからこその失態なのでノーカウントです。
「泣きません」
「泣いても良いぞ」
矛盾してますご主人様。
前言撤回が早すぎる。
思わず笑ってしまったらご主人様が目を細めた。
「ああ、笑っていた方が良いな」
アニエスさん絶対心配いらないと思う、ほっぺ撫でられた。
女っ気がないなんて嘘だ、慣れてる絶対。
じっと見つめていたら、ご主人様が急にびくりと指を引っ込めた。
「すまない」
「いえ」
体を離して視線を逸らし座り直して正面を見つめるご主人様。
「明日は休みだと聞いた」
「はい。お庭をお散歩して、本を読んで、刺繍をします」
「そうか。付き合えたら良いんだが」
「とんでもない」
ご主人様を休みの日に付き合わせるとか使用人に許されるわけないじゃないですか。
お気遣いはありがたいですが部下としては息が詰まります。
「他にしたいことはあるか」
話が戻ったな。
掃除と洗濯以外、ということ?
「うーん……厨房に入ってみたいですね」
「厨房?」
「こちらの料理はとってもおいしいです、でもやっぱり私が知っているものとは違っているから。こちらのものを作れるようにもなりたいし、私が知っているものを召し上がってもいただきたいなあって」
甘えてみよう。
ご主人様が私の作ったものを気に入ってくだされば私は慣れ親しんだ味を大手を振って作って食べられるようになるってもんです。自分の為です。よろしくお願いします。
あれ、可愛い女子の仕草ってなんだっけ上目遣いだっけそれこの年齢でやっても罪にはならないでしょうかやってみるけどっていうかご主人様大きすぎてどうやったって上目遣いになるけど。
ご主人様からここでOKが出れば一番手っ取り早い。そうでなければアニエスさんの信頼を勝ち得てから時間をかけて、ってことになるだろうから早い方が良いのだけれど。主の食を管理する場所だから当然軽々しく出入りはできないよね。
「伝えておこう。アニエスが傍にいれば問題ない」
「え」
「俺も興味がある、おまえが作るものを食べてみたい」
え、やだなにその笑顔。
思い切り期待してる笑顔じゃないかそんな過度の期待に応えられると思えないんだけど。
まあでも許可が出たからお手伝いをして、慣れたら何か作らせてもらって。楽しみになってきた。
美味しいんだけれどちょっと私の舌には濃いものが多いから、薄味で作りたいな。
煮物も懐かしいよね、ああ、和食が懐かしい。
思い出すと、あれもこれも食べたくなる。なんて切ないの。
食文化って大切なんだな。
「がんばって、いろいろ作れるようになります」
決意を新たにした真夜中。
拳を握って、レシピの充実を胸に誓った。
和食食べたら元気になる気がするんだ!