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執事長のセバスチャンさん、侍女長のアニエスさん。
一般常識をセバスチャンさんが、侍女職をアニエスさんが、直々に教えてくれることになった。長がつく役職ってことはトップってことじゃないの。大丈夫なのこんな身元もわからない人間に貴重な戦力費やしちゃって。
いやでもトップってことはそれだけ質の高い教育を受けられるということだし自慢じゃないが親世代の人間には可愛がってもらえることが多いから下手に妙齢のお姉さまとかが教育係でなくて良かったのかもしれない。
二人が時間を割いて心を砕いてくれる。
上司の期待に部下は応えたいと思うものよ、うん。
「両親のように思ってくれて良いのよ」
と言われた時には侍女長を見上げたまま、あれ、なんか小娘扱いっぽい、とか思ったけど気にしないことにした。小娘ならそれはそれでそう思われていた方が好都合。
できないと思っていた子ががんばってできるようになった方が評価が高くなる。
って、私打算だらけだ。
いけない。
どうも、捻くれた考え方ばかりするような大人になってしまっていた。
こういう、一から始めなければならない場面では真っ新であった方が上手くいくのに。
というのも、打算か。
仕方がない。年を重ねるとそういう風にしか始められないのかもしれない。
「ふう……」
ため息をつく。
手にした柔らかい布で、ご主人様の部屋の調度品を磨いているところだ。
侍女職というものはそれぞれ持ち場があるのだと思っていたけれど、どうやら侍女長は全てを教えようとしてくれているらしかった。なんだろう、結婚して出て行く心配がないから幹部育成のつもりとか?まさか。まあ、生涯雇ってくれるなら安泰だろうけれど動けなくなったら追い出されるんだろうからどこかで家庭を持つ必要もあるよなあ。老人ホームがあるとも思えないし、最終的に頼れるのは家族――家族なんて、作れるのかな。一から人間関係を始めて、深めて。今まではそれが普通のことだった、気負うこともなかった、だけどここでは違う。私がここでは異質だから、一歩を踏み出すのが怖い。
「あ、おっと」
掃除用の布で目尻を拭うところだった、危ない危ない。仕事に集中しなくちゃ。
お邸に来て一カ月くらい経った。
私は自分の中の不思議な現象に気づいていた。
わかる。
侍女長の言っていることが、すんなり理解できる。
掃除道具の名前を言われただけで何を使えば良いのかわかる、布地を触ればどう洗濯すれば良いのか干せば良いのかわかる、野菜を見れば蒸したら美味しいとかあの野菜との相性が良いとかがわかる。
わかるってすごい。
知ってるってすごい。
でもどうして私知ってるの。
未知の感覚を怖いと思ったのは一瞬でした、ええ。
ここで生きていくのに役に立つならいくらでも利用する。
異世界人だから結婚できないというのなら侍女職を極めて月給を上げて、来たるべき老後に備えれば良いだけの話!
開き直るしかない。
「アニエスが」
「っはい!」
執事長の声に我に返った。
文字の書き取りをしているんだった、現実逃避してしまっていた。
「侍女の業務は卒なくこなすようになったと。まるで教える前から知っているかのように動いてくれるから非常に助かっていると、評価していましたよ」
「ありがとうございます」
珍しい、執事長に褒められた。
「こちらの勉強もがんばりましょうね」
わー慈愛に満ちた笑顔ー。
「はい、がんばります」
多少ひきつっていることは自覚しながら、笑顔を返す。
そう、家事全般はなぜかできるけれど、一般常識はからきしだった。
文字は読めるけど、書くとなるとぎこちない子供のような文字になる。書き慣れていないと上手くは書けないのだろう。
この国の歴史なども知らないし、地理もさっぱりだ。
家事以外の何もかもができない。
はっきり言ってお金の使い方もわからない。
ますます、生涯を侍女業に捧げるしかない気がしてきている、最近。
この国は、ヴァーツラフといい、王制を布いている。
現在の王は13代のアロイス……フルネームは長いので覚えきれなかった、アロイス様。名前で呼びかけることなんかないからまあいいか。
王都はここ、マトゥラ。
南方には海、東西は国があり、北方は山脈の向こうに別の国がある。名前はもちろん覚えてない。
気候は、たぶん春と冬の繰り返し?
地球の衛星が月であるように、この星にも衛星があるらしかった。夜に空を見上げると、月のように一際大きな天体が三つほど浮かんでいる。当然ながら日によっては一つだったり二つだったりする、三つともある日は地球でいうところの満月のような特別感があるらしい。こちらもそれぞれ名前があるけれど、白く大きな月とそれより小さく黄色い月、一番小さな青い月、という覚え方しかしてない。
あれ私名前の類はほとんど何も覚えてない気がする。
そういえば初日以来ご主人様の顔を見ていない、と、二ヶ月経ってから気づいた。
ま、下っ端だしそういうものかもね。でも会うことができたら、拾ってくれたお礼を言わなければ。
会うこと、できるのかな。
二ヵ月間忙しくて、覚えることで精いっぱいだったけれど、ふっと周囲を見渡す時間ができるとなんだか急に寂しく感じてしまった。
これが刷り込みってやつか。
こういうお邸のご主人様なんだから偉い人だろうし忙しいんだろうし、わざわざ下っ端のことなんて気にすることないんだろうなと思ったら、自分に言い聞かせてるはずなのになんだか寂しさが増した。
だめだだめだ、考える時間があると寂しくなってしまう。切り替えよう。
明日は初めてのお休み。今日は早く上がらせてもらって、いつもよりも早い時間に寝る支度まで済んでしまった。どんだけ楽しみなの私。明日は何しようかと、朝からずっと考えていた。書庫にお邪魔して本を読み漁るのもいいし、習ったばかりの刺繍を進めてみるのもいい。やりたいことはたくさんある。
だけど街に出る許可はもらえない。一人じゃ危なっかしいと二人の先生が頷いてくれなかったから。大人なんだしそこら辺は放り出されてから学ぶもんじゃないのかと思ったけれど、純粋に心配してくれているようだから強くは言えなかった。
許されている行動範囲はお邸の中と、あとはお庭。
ちょっと今から明日の下見に行って見よう。お庭のお散歩も良いよね。
今日は白い月が一つだけ。白い月が一番明るい。月光が、こんなに明るいなんて知らなかった。
敷地内には不審者は入れないようになっていると聞いているから安全だ。魔法って便利。
アニエスさんの娘さんのお下がりという白いワンピースに着替えて、底の柔らかな靴を履く。足音が響かないようにね。
細かく紋様の描かれたランタンを手に持って、静かに部屋から出て、静かに廊下を歩いて、通用口から静かに外に出る。
建物から離れて庭園に入ったところでランタンに明かりを灯した。
魔法のランプ。
仕組みは相変わらずわからないけれど点けたり消したりはできるようになった。こちらでは、電気の代わりのように魔法が使用されている。電気の応用だと思えば自分を納得させやすい。
きれいに整えられた庭園をしばらく歩き、夜でも稼働している小さな噴水の近くのベンチに腰を下ろして明かりを消した。
「……」
二ヶ月、経ったんだなあ。
魔法使いのおじいさんはどうしているだろうか。
また何か呼び出そうとしているのだろうか。だとしたら対象は人ではありませんように。
月を見上げる。白い月は、怖いくらいに大きい。そして明るい。月光は足元に敷き詰められた白い石に僅かに反射している。
ぼんやりと月を見上げて、足元に視線を落とす。
そう、私はその時ぼんやりとしすぎていた。