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連れて行かれた先には大邸宅。
それなりにお金のある家だろうとは思っていたが、これほどとは。お城じゃないのこれ。
こういうおうちのご主人様ってどんな人なんだろう。
大丈夫かな。問題なのは仕事内容ではなくて人間関係だ。こういう得体の知れない人間を受け入れてくれるかどうか。
緊張する私をよそに、件の青年は我が物顔で邸に入り、躊躇なく奥へ進む。手首を掴まれているから私もそれに着いて行くのだけれど……人様のおうちじゃないの?いいの?会う人会う人何も言わないけど、いいの?
混乱して何も言えずにいると廊下の向こうから人が近づいてきた。ロマンスグレーという言葉がぴたりと合う、執事っぽい初老の男性だ。
「お帰りなさいませ。お客様ですか?」
「ああ。部屋を用意しろ。侍女として働いてもらうことになった。詳細は後で話す」
「かしこまりました」
「……」
まさか。とは、思いますが。
ご自宅ですか。
只者ではないと思っていたけれど、身分が高い人ですか。
執事っぽい男の人を見送って再び歩き出しながら、ぼんやり考える。魔法使いのおじいさんじゃなくてこの人が責任取ってくれるんだ……ちょっと意外、あの場では一番若かったし。
失礼なことはもちろん口には出さずに、ちらりと見上げてみる。
やたら背が高い。そして分厚い。2メートルは軽くあるんじゃないか。並んだらまるで大人と子どもだ。
「どうした」
「……いえ。あの、ありがとうございます」
「いや」
会話はそれきりで、更に歩くと先ほどの男性が直立して待っている扉があった。
「ここだ。中は自由に使っていい。話は明日しよう、今日はゆっくり休め。セバスチャン、説明を」
セバスチャン!なんて期待を裏切らない名前!
名前を聞いてぎょっとして男性を見ると優しく微笑まれた。
「セバスチャンと申します、お嬢様。よろしくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
青年は去って行き、セバスチャンが部屋の説明をしてくれる。
「夕食の準備をいたしますが、いかがですか?」
問われて、もうそんな時間なんだと気付いたが、正直食欲などない。
「胸がいっぱいで、食べられそうにありません」
「さようでございますか、承知いたしました。お夜食にできるよう、軽く摘まめるものをお持ちしますね」
「ありがとう……」
セバスチャンが部屋から出て行って、とりあえずネグリジェっぽいものに着替えさせてもらう。やたらフリルがついて少女趣味なんだけど、深くは考えない。脱いだワンピースはどうしたら良いかわからなくて、畳んで椅子の上に置いた。
ベッドによじ登って膝を抱え、ぼんやりと外を眺めた。窓の外は夕日で赤く染まっている。
「……ここ、どこなんだろう」
どうしてこんな珍妙なことが起こったのだろう。
ここに来るまでの街の様子も、異世界だと納得せざるを得ないものだった。
車も電柱もない、マンションなんてないし、空も広い。
馬車が通っていたり、木や石の家が多かったり。鎧を付けた人が歩いていたり、魔法使いの杖のようなものを持っている人がいたり。
それだけならまだ、開発が遅れているのだと無理やり納得することもできただろう。
だけど、見たこともない動物が普通に路上を闊歩しているのはだめだ。
あまりに驚いて、鳥ですら見慣れないもので、ここにたどり着くまでずっと現実逃避をしていた。
どうして、という一言だけが頭の中をずっとぐるぐる回っている。どうして。どうして、何が、起こったの。
今日は休みだけど明日は仕事がある。帰れずに無断欠勤が続こうものなら解雇だろう。連絡が取れなければ失踪扱いになるだろうし、賃料を滞納すれば帰る場所もなくなる。
「どう、しよう」
じわじわと、焦燥感が胸を圧迫してくる。
恐怖と、混乱と、戸惑い。
「どうしたらいいの」
膝を抱える手に力を込める。
口に出してみると、現実感が増す。
もう、帰れないのかもしれない。
あの魔法使いのおじいさんが帰り方を調べてくれるとは言ったけれど、だが彼には彼の仕事があるだろう。それを蔑にしてまで調べてくれることが可能だとは思えない。数日、数か月のうちに帰れる可能性はきっとゼロだ。
「……ぅ」
歯を食いしばる。
今まで麻痺していた回路が急激に動き出すような、そんな感触で一気に鼻の奥がつんとして視界が歪む。
「……うぅ」
だめだ、堪え切れない。
額を膝に押し付けて、頭を抱え込む。
その日私は、大人になってから初めて、泣き疲れて眠るという失態を犯してしまった。
ふっと目が覚めると明るかった。もぞりと体勢を変えて窓の外に目をやると、闇。
部屋の明かりが灯されたままだ。
照明のリモコンなどあるはずもないが、あの明かりはどうやったら消せるのだろう。普通は扉の付近にスイッチがあると思うのだけど、壁に目を走らせてもそれらしいものは見当たらない。
ろうそくの炎のように揺らめいたりしていないから、人工の光なのだろうけれど、つけたままでも大丈夫だろうか。
つらつらと考えては見るものの、気怠い体は動かない。
泣き疲れて寝たんだ、と状況分析をして、だから頭が痛いのかと納得する。
もう帰れないのかもしれないと、考えていたんだ。覚悟もなく、準備もなく、予備知識もなく、こういうことになってしまったから悲しいのだ。
「どうなっちゃうの、私」
不安で仕方がない。
明日が不安だ、その先も不安だ。
熱い涙がまた溢れてきて、ぎゅっと目を閉じる。
そしてまたそのまま眠ってしまったらしかった。
もう一度、今度目が覚めると真っ暗だった。ああ、明かりが消えている。よかった。そう、確か、夢の中でも念じていたのだ。明かりを消して、と。
「……」
頭に何か触れている。ゆっくりと、ゆったりと、温度を持ったそれが動いている。
「……」
ああ、誰かが、頭を撫でてくれているのか。
心地好いリズムで、優しい力加減で、包み込むように。
思わずその手のひらに頭を寄せると動きが止まった。
「起こしたか」
「……」
ああ、これはあの人の声。このお邸のご主人様。
でももっと。起きてないからもっと撫でて。
「……」
上から軽い溜息が降ってきて、そして手の動きが続行された。
年甲斐もなく撫でて欲しくて狸寝入りしていたら本気で眠り込んでしまっていました。
肌寒くて目を覚ますと毛布の上に寝ていました。
いい年して泣きながら寝るってどういうこと、頭撫でられて安心しちゃうってなんなの、寝乱れたネグリジェ姿見られちゃったんじゃないの、ご主人様も毛布くらいかけてってくれれば良かったのに、ていうかそもそもご主人様ってばなんで女子の寝室に入り込んで来ちゃったりしちゃってんの。
「……ぅあ……」
羞恥心でいたたまれない。
慌てて毛布に潜り込んで体を丸めて頭を抱える。
なんて恥ずかしいことをしてしまったんだ私。
一頻りぐるぐると脳内で反省会を開いたところで、ゆっくりと頭を持ち上げる。
起きないと。
働いて、勉強して、生きていけるようにならないと。
もう戻れないのかもしれないのだから。
「……」
こみ上げそうになる涙を堪える。
もう泣かない、昨夜十分泣いた。
わけのわからない状況でも、こうして衣食住は確保できたのだから大丈夫。
遠い過去の新人研修で話があった『可愛がられる新人像』を思い出してみる。
いつも笑顔で元気良く返事をし、挨拶をきちんとし、素直に話を聞き、失敗してもへこたれない。
前向きに取り組んで、わからなければ質問し、もちろん自分からも貪欲に学んでく。
「……過去が遠すぎて初心が思い出せない」
まあとにかく謙虚に慎ましくにこやかに、だ。
笑顔でいれば大抵の人間には疎ましく思われないはず。
上の人間に適度に甘えて頼って信頼には応えるように努めて。人間同士であるのだから、どこの世界でも変わらないだろう。と思いたい。
最終的に長いものに巻かれていれば死ぬことはないだろうし。