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結局、家までそのまま連れて帰ってもらった。
抱っこしてもらったまま帰って来るとか恥ずかしすぎるし、自分の主にしてもらって良いことじゃないから降ろしてほしいと訴えたけど聞き入れてもらえなかった。
どうもまだ子ども扱いが抜けてないみたいだ。
正直言うと、今はそれが有難いのだけど。
「閣下」
「ああ」
リビングのソファの上のご主人様の膝の上で頭をよしよしされた。
そうじゃなくて。
「あの、閣下」
分厚い胸に押し付けられていた頬を無理やり離してご主人様を見上げる。
「ありがとうございます、迎えに来てくださって」
「……俺の考えが甘かった、こうなることを予測しておくべきだったんだ」
「予測なんて」
使用人が誘拐されるかも、とか、考えるものなの?
それともこっちでは誘拐とかその手の犯罪が横行しているの?
私は外出するときにもっと気を付けておくべきだった?
ご主人様の立場をしっかり理解していなかったからこんなことが起きたのだ。
「申し訳ありません、閣下」
「おまえに何の落ち度がある、謝る必要はない」
「ですが」
「おまえが無事ならそれで良い。怖い思いをさせた」
言われるとまた、刃物の煌きを思い出してしまった。
「……」
だからといってご主人様が罪悪感を持つことはないのだ。
「もう少しだけ、こうしていても良いですか。すぐに仕事に戻ります」
「落ち着くまで傍にいる」
ぎゅう、と抱き込まれた。
この安定感というか安心感というか、すごい。包まれてる。
思わずため息をついてご主人様の胴体に腕を回すと、そっと肩を掴まれた。引き離す仕草だったから、やりすぎたかと思って見上げたけれど違った。
あれ。なんだ。
空気がおかしい。
なんで指先でほっぺを擽られてるんだ。
「リナ……」
うああ、まずい。なんだこれ、まずい。
ご主人様の熱っぽい眼に見つめられて動けない。
「か……っか」
視線も逸らせずにいると、大きな手のひらで頬を包み込まれた。
さっきまで子ども扱いだったのに、なんでこんなことになってるの。
これってどう考えても、色気のある展開だよね。なんで。
硬直しているうちに、ご主人様の吐息まで感じられる距離になってしまった。と思ったらすぐに唇が重なって、ご主人様は厳つい顔してるけどやっぱり唇は柔らかいんだとか、またきつく抱き締められてこの拘束力は嫌いじゃないとか、つらつらと考えていたら終わっていた。
ご主人様とキスしてしまった。
今までのはもしかして全部、子ども扱いじゃなくて女性扱いだったのだろうか。
「……」
何か言いたくて、言葉が出て来ずにいたらご主人様がまた頬を撫でた。
「嫌、だったか」
「……こちらの方は、こうやって慰めてくださるんですか」
嘘でも良いから『そうだ』と答えてくれたらまた何事もなかったように過ごせるんだけど。
「そんなわけないだろう」
では何故、と、聞いてはいけない気がする。
「おまえを大事に思っている」
あまりに真っ直ぐに見つめられて、こういう展開おかしいですよねとか言える雰囲気じゃない。
「私は、使用人です」
「待遇はいくらでも変更できる、そもそもおまえは客人としてもてなされるべき存在だ」
「私は、家に帰りたいんです」
「ああ。それまでは、ここで、俺がおまえを守る」
「すごく唐突に感じます」
「おまえが完全に一線を引いていたからだろう」
ああ確かに、そりゃそうだ。社内恋愛なんて忌避するものだと思っていたから。ビジネスの相手を恋愛の相手と考えたこともない。
「閣下はなぜ」
「何も間に挟まぬ視線でこちらを見てくるだろう」
「え?」
「おまえには何の偏見もない」
「……」
知らないからだ、何も。
閣下と呼ぶのだって他の人に教えられたからだ。日常生活で閣下と呼ぶことなどなかったし、それでいて名前の代わりに役職で呼ぶことは日常的であったから、深く考えることもなかった。敬意なんて含んでいなかったに決まっている。
そもそもご主人様が偉い人だとか高貴な人だとか、実感すらしなかった。
「傍にいると安心できる」
それは私もだ。頼り切って良いという気にさせてくれる。
「毎日おまえの元に帰って来ることが楽しみになっているんだ、おまえと食事をし会話をし、ゆっくりと時間が過ぎるのが心地好い」
わー……、これなんだか逃げられなくなってきてる気がする。断ったら追い出されるのかな。それは避けたいな。
「リナ」
「あの、私の行動は全部打算です。評価を頂けるのは嬉しいのですが、そういう、その、好意を受けるのには相応しくない、です」
いたたまれなくなって俯く。
ご主人様の手のひらが頬から滑り、首筋に触れた。
「浅薄だった」
苦笑交じりのご主人様の声。
「え?」
「頼る者が他にいないと知っていてこういうことを言うのは卑怯だったな」
ああ、もう、この人。
思わず顔を上げちゃったじゃないか。
そんな優しい目で見ないでよ。
「帰る手立てが見つかるまで、ここにいてくれないか」
「それは……こちらからお願いしたいことです。私には他に行く場所もありませんから」
「責任は持つ」
「私はやっぱりこの世界の常識を知りません。身分制度も元の世界にはなく、こうして無遠慮なことばかりしてしまうと思います。礼儀のない振る舞いが目に余るようでしたら」
「おまえは今のままで良い、そのままで良い」
最後まで言わせてもらえなかった。
物珍しいだけでしょう、と、伝わってしまったのかもしれない。
「知らぬままで良い」
髪を撫でた大きな手のひらが、そのまま頭を抱き寄せた。
ああ、安心とか癒しとかを求められているのなら、私は愛人ポジションということか。本気なら、無知なままで良いとか言わないはず。身分も教養も追いつけないのだから、磨く必要があるはずだ。それをしなくて良いと言うのならほんの一時安らぎたいというだけなんだろう。元の世界でも、『男が風俗に行くのは安らぎを得るためだ』とか、嘯いてるのがいたっけ。
でも愛人になるのに私のメリットが一つもない。継承権のない王子様の愛人だった女、とか、嫁の貰い手がなさそう。
「私愛人はお断りさせていただきたいです、そういうの無理です」
「愛人?」
ぐいと引き離されて、ご主人様が眉間に深い皺を寄せてこちらを見ている。
「そういうのは、若くてふわふわしている然るべき身分の女の子と結婚なされば解決すると思います」
「何を、急に」
「私は何も持っていませんから。……放してください」
胸を押したが、直後にきつく抱き締められた。うん、締め上げられた。
「い、いたい、」
「誰が愛人になれと言った」
「……」
ちょ、ご主人様、背中も腰も痛い、捻ってるんだから!そして苦しい!顔潰れてます!
息ができません!
渾身の力で暴れると、ようやくご主人様が気づいて力を緩めてくれた。
ひゅっと息を吸って、直後にむせる。
げほげほしていると背中を撫でてくれた。
「し、絞め殺すつもりですか……」
「勘違いをするな、俺は本気だ」
「……本気ってなんですか」
「元の世界になど戻るな」
「……」
思わずご主人様を見上げた。
怖いくらい、痛いくらいの眼差しに射竦められる。
「私、帰りたい」
「そう思わなくなるようにしてやる」
いつからだった?
いつから、この人はこんな目をするようになっていた?
何故気づかなかったんだろう。気づきたくなかったという深層心理は働いていたのだろうけれど。
だけどもう、味方ではないのだろう。戻す気がないというのなら、魔法使いのおじいさんにそうやって手を回すことも可能だ。
「諦めろと、仰るのですか」
「戻る手立てが見つかる前に、ここに残りたいと思わせる」
「意味が分かりません」
分かりたくありません。
なんで今、そんなことを言うの。
もぞりと身じろいで、膝から降りる。今度は引き留められなかった。




