怖いのはどっちだ
この魚眼レンズタイプのドアスコープは外から中を見る事は出来ないはずだ。
だが、今ドアを挟み対峙する目は明らかに私の目を凝視している。
直感的に向こう側に居るのが“アレ”だと分かった。
スコープを覗き込んだ姿勢で私の体はガタガタと震えた。
「あ、あ、うわ・・・!」
震える手から印鑑が床に落ちて音を立てる。
「村上さん?」
その音を聞いて外場が部屋から出てきた。
「村上さん、どうしました?」
震えて答えられない私を見て理解したのか、外場は私の両肩を掴みドアから引き離した。
そのままバランスを崩し2人揃って仰向けに倒れこんだ。
「村上さん!」
視界からあの目が消え、私は正気を取り戻す。
「は・・・」
顔を上げると今度は喜色満面の外場と目が合った。蒼白な顔に裂けたような笑顔を浮かべ、こっちはこっちで喉から悲鳴がこみ上げそうだった。
「もしかしてアレが来てくれたんですか?」
外場は即座に立ち上がりドアスコープを覗き込む。
「あ、おいバカ!」
外場は目を見開いた。
「おおお?!わ、わあああ!!!」
外場が上げたのは悲鳴ではなく歓声だった。
外場と“アレ”のドア越しの睨み合いが始まった。
いや、外場は睨んでいるのではなくただ好奇の目でジッと観察しているのだ。
その顔に恐怖はなくむしろ喜んでいるようだ。
「こいつ全く瞬きをしませんね。僕の瞬きと同時にしてるんでしょうか。だとしたら凄まじい反射神経ですよ。本当に瞬きしてない場合はすごい乾燥に強い瞳をしているのかな?しかし瞬きしない事で相手に与えられる恐怖は小さいと思うんですが。」
的外れな点に注目して推測している。
私は食後の暇な時間よりも所在なく立ち尽くしていた。
恐怖はすでに抜けていたが、こういう時一体どうすればいいのだろうか。
「村上さんを家に呼んでよかったなあ!ちゃんとこっちに来てくれるなんて。しかしこいつの芸ってコレだけなんですかね。そろそろ新しいイベントに移行してほしいんですが。飽きてきました。」
するとそれに応えるようにドア下部に付けられている新聞受けからガタンと音が響いた。
「ギャー!」
「バカか!煽るからだ!」
だが外場はやはり怖がってはいなかった。頬を上気させ、笑みを浮かべた口から漏れる息は荒くなってきている。
新聞受けからはガタガタとすさまじい音が鳴り、ドア自体も軋んでいた。
「おお、パワフルですねえ!」
ますます興奮した表情で屈んで新聞受けを覗き込む。
バタンと音がして内から蓋が押し上げられ、赤黒い手が飛び出した。
「キャー!!!」
私は悲鳴をあげて後ずさる。
「やめてその悲鳴怖い!」
私の悲鳴は怖いのか。
赤黒い手は何かを掴もうとしているのか、痙攣するようにバタバタと周囲をまさぐっている。
化膿したような皮膚に血が滲み、その爪はほとんど剥がれかけている醜悪な腕。
ドアにぶつかるたびに腐汁を飛び散らせている。
「うっ・・・」
見ているだけで悪寒と恐怖で吐き気がする。
外場は腕の動きをうかがう様に腰を落として変な構えのポーズを取っていた。何をする気だ。
「よいしょー!」
気の抜けるような掛け声と共に、あろう事か外場は赤黒い手を両手で掴み引っ張り始めた。
「な、何やってんだー!」
「入るのを手伝ってあげようと思いまして。」
こういう場合悲鳴を上げて部屋の奥に逃げ込みガタガタ震えるか、なんとか対策を考えるのがお約束じゃないのか。
ズルズルと引っ張り上げられて腕の続きが出てきた。
「ひぃ!」
腕の先にまた手首が覗き、拳が出てきた。両手を切り落として接合したらこんな形だろうか。
それがまた別の手とがっちりと握手し、続いている。それが2セット程新聞受けから
引きずり出された。まだ途切れない。
「これは斬新ですね。手の鎖って感じですね。」
言い得て妙だが恐怖で萎縮した口からはツッコミも出ない。
「これで地球の周り囲んだら平和感溢れるデザインになりそうだなあ。すっごい助け合い表現してそう。」
血みどろの手の鎖を引っ張る外場の手も血で汚れているが全く気にしていない。
満面の笑顔で容赦なく引きずり出す。
「ああもう、本体まだですか?ダレてきた!疲れるしテンション落ちるでしょうが!これで本体無かったら本当に興醒めなんですけどそろそろ真打ちが出てほし…」
ガゴンと外でドアに何か大きなものがぶつかる音がした。
同時に外場の手の動きも止まる。引っ張っているがそれ以上引きずり出せないらしい。
おそらく腕よりも太く、大きいものが受け取り口につかえているのだ。
「本体来たあああああ!!!」
外場はドアに片足をつき体重をかけて手を引っ張り始めた。
必死の形相になっているが腕はそれ以上全く出てこない。
ドアの外からは背筋の凍るような唸り声が聞こえてくる。
「村上さん手伝ってえええ!!!」
「はああ?!!」
「早く!逃げちゃうかもしれないでしょう!!」
逃げてくれた方がいいんじゃないかと思ったが、外場の気迫に流され、私は外場を抱え込んで引っ張る。
「よいしょー!」
『ギェエエエエエ』
「どっこいしょー!」
『ゴェエエエエエ』
私達の掛け声と向こう側の悲鳴が交互に響く。
今の状況に私は「おおきなカブ」という絵本を思い出していた。
「こいつ何したかったんでしょうね。通れないんならこんな所に手なんか突っ込まなきゃ良かったのに。」
確かにそうだが向こうだってまさか逆に手を引っ張りこまれるなんて考えてなかっただろう。
いや、化け物の行動原理なんか分からないが。
しかし2人がかりで引いても流石に本体は引っ張り込めないようだ。
むしろ外場の細い体が私の力で折れてしまいそうでさっきから怖い。
「作戦変更です。村上さんちょっと一瞬代って。」
「え、ええ?!」
いきなり身を翻し私に奴の腕を掴ませ外場は部屋に引き返していく。
「え?おい!ちょっと!!」
直に腐った手の鎖を握らされ泡を食う。一瞬力が弱まったので戻ろうとする
腕を咄嗟にまた引き戻す。いや、引き戻してどうする。
外場はすぐに玄関に戻ってきた。手に柳葉包丁を持って。
「このままじゃ体力尽きてまるごと逃しそうですから、部分だけでも確実にゲットしときましょう。」
まさか。
「そんだけ手が長いんですから頂いていいですよね。貴重な実体あるタイプの怪異です。絶対入手しておかないと。」
外場はニタリと笑って包丁の刃に舌を這わせる。
怪異と外場、どっちが怖いのか私にはもう分からなかった。
外場は容赦なく包丁を赤黒い腕に振り下ろした。なかなか切れず何度も切っ先をつき立て、鋸のようにギコギコと引いてみたりする。返り血が私にも飛び散り私は意識消失寸前になるが「離さないで!」という外場の叱咤でそれも出来ない。
ドアの向こうで絶叫が聞こえる。
「不思議ですね。人を怖がらせるのが本分の怪異がなぜ痛みを感じるんでしょう。なぜダメージを負う余地を持っているのか。無敵ならもっと怖いのに不思議です。実体がある時と無い時があるのは何故です。幽霊なんですか?生き物なんですか?僕らの錯覚なんですか?一体あんた達は何なんでしょうねえ。」
ブツブツ呟きながら外場は作業を続ける。
ブツン、と音がして手が切り落とされた。
ビュルルと本体側に残った分が凄い勢いで新聞受けから出て行く。
ビタンビタンと水音の絡む打撃音がした後、突然外は静かになった。
「…いなく、なった?」
ドアの向こうには何の気配も感じない。
「そうみたいですね。」
外場が沈んだ声で答える。
振り返るとしょんぼりとした外場が手をヒラヒラとさせていた。
「収穫もいなくなりましたよ。」
見ると先ほどまで包丁にべったりと付着していた血や肉も、私にかかっていた筈の返り血も消えていた。
外場は泣きそうな顔をしていた。
「とりあえずコーヒーでも淹れましょうか。」
「……。」
外場はフラフラと立ち上がった。
何もかも消えてしまったが私の手の震えはまだ残っていた。
先ほどの出来事は幻でない事は明らかだった。手に感触がじっとりと残り心臓もまだ早鐘のように脈打っている。
震える手でコーヒーを一口して外場を見る。私とは対照的に恐怖の痕跡もなくただ残念そうにしているだけだった。
そして一言呟いた。
「ドア開けてぶった切れば本体が手に入りましたね。」
なんとなく外場のコレクションが何もしなくなる理由が分かった。