だいたいこいつのせい
鏡にはお化けが映っていた。
私だ。
徹夜明けの無残にやつれた顔。洗っても染み付いた疲れは落ちない。
納期が差し迫る中ギリギリまで手元に届かなかったプロット。届くなり急いで書き上げたテキスト容赦なく入るリテイク。
ここしばらくは嵐のような修羅場だった。
ふらふらする頭を押さえ、眠るか空腹を満たすかどちらにするかと考える。
とりあえずお茶漬けでも胃に入れることにした。
棚に並べられたマグカップから今回は可愛いクロネコが描かれたものを選ぶ。
マグカップにご飯を入れ、お茶漬けふりかけをかけお湯を注ぐ。(本当に女捨ててるなあ)
先日の越してきた隣人の言葉を思い出す。
『寂しい独身男性が…』
残念ながら男性に間違われるのは初めてではない。
私は生まれつき長身で肩幅が女にしては広くなんだかがっちりしている。
しかも顔もなんというか、女性らしい柔らかさがない。良く言えば精悍と表現出来るのかもしれないが…。これらの特徴は母譲りだ。
母はその容姿体格に加えて身体能力も高く運動会の保護者参加競技でも目立つような女だった。
そのたびに同級生には「お前んち母ちゃんも父ちゃんなの?」と難解な言葉でからかわれていた。
当時はそれが嫌で母にゴリラだのサイヤ人だのと当たり散らしていたがまさか自分もそうなってしまうとは思わなかった。
母はその容姿体格を生かして女だてらに運送業など肉体労働に従事していた。そのために更なる筋肉がつきゴリラに拍車をかけているのを見て
私は絶対にインドアな仕事をするのだとこの生業を選んだ。
あまり運動していないので母ほどではないはずだがやっぱり女に見えないらしい。
もう開き直っているのでわざわざ女らしくしようとは思わないがこの一週間の内に、オールマグカップ生活はやめようかと思い始めていた。
やっぱりズボラ過ぎるし…少し違和感を感じるようになっていたからだ。
全ての食器をマグカップで済ませているのだが洗う際、使用時には見かけなかった柄のものが増えている気がしたのだ。
いつ使ったのか覚えの無い赤いマグカップが洗い場に出ている。
おかずを入れたかご飯を入れたか、それとも真っ当にコーヒーを入れたか…疲労のためかどうも思い出せない。
。
普段なら気にも止めない事だが妙に不気味さを感じていた。
先日別れ際の外場の言葉が頭にこびりついているせいだ。
ーあなたの部屋に”誰か”居ますよ。
元々閑散としたこの団地では特に夜など、うっすらと恐怖を感じる事はあった。
窓の外に灯り一つない団地群を見た時。
一瞬街頭の下に佇む人影が見えた時。
誰もいない階下の部屋からかすかな物音が聞こえた時。
どれも漠然とした不安から来るもので隣人の言うような怪異ではないはずだ。
けれどあの言葉を聞いたあとはそれらの背後に“誰か”の気配を感じるようになってしまった。
あの野郎今度会ったら一度ぶん殴ってやりたいくらいだ。
食事の後私は5時間の睡眠をとり、軽くシャワーを浴びて買出しに出かけた。
久しぶりの外出。季節はまだ冬。冷気が肌を刺した。
「いいですよ~その表情!最高ですよ!素晴らしい!」
シャッター音と共に胡散臭いグラビアカメラマンみたいな台詞が聞こえた。
掠れてくたびれているくせに妙にハイテンションな声。外場だ。
早速殴ってやろうと思ったが無視して歩みを進める。やっぱり関わりたくない。
「お元気ですか村上さん!僕は元気です!いやー寒い日の猫ちゃんの可愛さといったら…
寒くない日とあんま変わりありませんね。今日お時間ありますか?何か怖いこと
ありました?ありましたよね?取材させて頂けませんか。」
「そこそこ元気で時間もあるけどお断りします。」
名指しで話しかけられ、つい返事をしてしまった。
見ると例の隣人が車の上に箱座りする猫にシャッターを切っている。
「というか平日こんな昼間から何してるんですか。野良猫を撮るのがお仕事なんですか。」
「いえいえ違いますよ。この団地敷地内に駐車されてる車を調べてたんですよ。そしたら明らかに住人より多いんですよ。ちょっと不気味じゃありません?」
また不吉な発言をする。
「まあ複数車をお持ちの方がいるだけかもしれませんがね。あれから今日まで団地内を観察してたんですけどね。僕どーしても走行中の車に出会えなかったんです。なのに車の駐車位置が変わってるんです。不思議!あ、あと猫はですね。ここの猫って車の下に入らないで皆車の上に乗るんです。車の下に先客でもいるんですかね。猫以外の。ヒー怖い。」
どうしてこいつは人を不安にさせる事ばかり話すのだ。しかも嬉しそうに。
「あのさ、そういうのやめてくれない?聞いてて気分良いものじゃないよ。
もしかして仕事を断ったから嫌がらせ?」
前回に引き続き後を引く不快な台詞に苛つきを覚えた。最近の疲れやマグカップの件を思い出しそれは益々高まっていき思い切りぶつけてやりたくなる。
「あんたが気持ち悪い事言うからね、あれからこっちは寝覚めが悪い毎日を過ごす羽目になったんですよ。」
「え?もしかして何か起こったんですか?」
しまった。付け入る隙を見せてしまったようだ。
まずい。また訳の分からない話を始められそうだ。もう会話を切り上げよう。
急いで外場に背を向け早足でその場を離れる。
「ちょっと!何ですか?気になりますよ。村上さん!もしやアレが何か行動してきたんですか?」
「だからアレとか何か居るの確定みたいなの止めてって!」
「気になる事があったら相談と取材に乗りますよ。」
「絶対後者メインだろ。」
「やっぱり何かあったんですね?アレなんか良くなさそうな奴だなと思ってましたが何か危害を?」
…良くなさそうな奴?
「一回手を出し始めるとね味しめてどんどん嫌な事始めますよあのタイプ。かまってちゃんだから」
また後を引くような事を。寝不足もあり私は思わず言い返す。
「こっちの話ばっかするけどさ、そっちの部屋はどうな訳?あんたこそ気をつけたら?」
「僕の部屋はまだ誰も居ませんでしたよ。だからあそこを選んだんです。」
その言い方だとまるで他の空き部屋には何かが居るみたいじゃないか。
やり返すつもりが数倍不吉な返答が返ってきてしまった。
もう駄目だ。こいつはこういう事しか口にしないんだ。逃げよう。
「もし何かあったら呼んで下さいね。すぐ駆けつけますから。」
奴から逃げ、買い物を済ませ帰宅した。
時刻は夕方になっていた。
階段に西日が差し込み薄汚れた壁面を赤く染めている。
あいつのせいで五階までの空き部屋を過ぎるのも怖くなってしまった。
そして今、自宅の鍵を開けるのに躊躇している。
だから人付き合いは嫌なんだ。他人の言葉は自分の行動に何かと制約を与えてくる。
外場はその中でも段違いだが。なんでよりによってあんな奴が隣人に…。
外場の家からは楽しそうな鼻歌が聞こえた。帰ってきてるらしい。
人をこれだけ不快にさせておいて上機嫌なのに腹が立った。
あんなのに振り回されるなんてバカバカしい。私は意を決して鍵を開け家に入った。
カーテン越しの赤い光に家の中は照らされている。当たり前だが誰もいない。
ふぅと安堵の息を吐き荷物を下ろしなんとはなしに呟いた。
「ただいま」
「おかえり」
返答が、あった。
目の前に、赤黒く腐った足が見えた。