もうずっと人少なすぎ
また一つの家族が去っていった。
今年に入って五つ目。老朽化が進むこの
矢倉団地からは年々居住者が減っていくばかりだ。
これで今住んでいる2ー9棟の住人は301号室の平田さんと501号室の私だけになってしまった。
かつては子育てをする家族も多く空き部屋も無い賑やかな団地だったという。だが今はその面影もない。
建物内外に人の気配は無く塗装の禿げた外壁には茶色いヒビが縦横に走っていた。
「どんどん寂しくなるねえ。」二階の踊場で出くわした平田さんはそう呟いた。
住人の減ったこの頃、私達はこうして会話をすることが増えた。
人が居ない方が近所付き合いは増えるとは皮肉なものだ。
「静かでいいじゃないですか。」
平田さんは画家、私はライター。共に静かさがありがたい職種のはずだ。
「私はここに長く居たからね。昔は近所の子を集めておえかき教室なんかもやったものだから…。」
「そうだったんですか。そういう頃を知っていると確かに寂しく感じるかもしれませんね…。」
喧騒を避け住人が減少しつつあるのを狙って入居した私と彼女の心境は大きく違うようだ。
「しかし今更ここに越してくる人はそういういないでしょう。」
昼はまだ閑静な団地で通るが夜は明かりがついている窓も僅か。
交通の便も悪く近くには寂れた小さな商店街しかない。
こんな場所に今から来る奴は私みたいな人嫌いか余程の物好きだろう。
そんな風に考えていた三日後だった。
向かいの502号室に“奴”が越してきたのは。
夜中の二時にドアチャイムが鳴った。
まだ仕事で起きてはいた私は思わずギャーと叫びそうになった。
二人しか入居者の居ない2-9棟。その最上階の五階までこんな時間に尋ねてくる者。こんな時刻に宅配業者が来るわけもない。
反射的にホラーな来訪者を想像するのは自然だと思う。
だが一呼吸して私は考え直した。
「平田さん?」
近くの別棟に現在入居者はいない。平田さんに何かあってここに助けを求めにきたのかもしれない。
最近自分自身夜道に不安を覚え始めたこともあって私はそう直感した。
古い団地にインターホンなどない。
「すみません。すぐ開けます。」
一応チェーンはかけたままで私はドアを開けた。
目の前に、鯨幕があった。いや色彩からそう錯覚したのだ。
薄暗い蛍光灯の明かりの下に黒いスーツの男が立っていた。
黒いスーツに白いワイシャツ、まではいい。
紙のように白い肌。この白さを私は知っている。これは死体の肌の色だ。そして髪。艶がまるで無い立体感がないほど黒い髪。痛んでいるのか不規則な方向に伸びている。トドメに落ち窪み濃いクマに縁取られた死んだ魚のような瞳。
それがドアにひたりと貼り付くような位置に立っていた。
「村上さん?夜分にすみません。」
「ギャーッ」
本当にそんな模範的な悲鳴を上げ私は即座にドアを閉め…ようとした瞬間そいつは慌ててドアの隙間に手を差し入れた。
「ギャーッ」
ドアに手を挟まれ今度はそいつが模範的な悲鳴を上げた。
玄関に死人の手が侵入しパニックになった私はまたギャーッと悲鳴を上げ無理矢理ドアを引く。
すると奴も手を挟まれた痛みから再度ギャーッと叫ぶ。
必死になってギャーとドアを引き外からもギャーと悲鳴が上がる。
それを何度か繰り返し死人の悲鳴が泣き声に変わった辺りで私はやっと相手が人間だと認識した。
まだドアを押さえる力は緩めず尋ねる。 「だ…誰…?」
隙間から覗く目はすっかり涙目だった。 「む…向かいに越してきたソトバです」挟まれていない方の手には引っ越し挨拶の品か、洗剤の箱を携えていた。
「そ…そとば?墓の?」
「お外の外に役場の場です。」
しばしの気まずい沈黙の後私は呟いた。
「…こんな時間にそんな外見で来るのが悪い。」
「申し訳ありませ…が、外見?」
洗剤の箱を受け取りさっさとドアを閉めた。
人間だったのには安心したがこんな非常識な奴がわざわざ私の向かいに越してきた事に、私は違う意味て背筋が寒くなった。
しばらくして階下から平田さんの悲鳴が聞こえた。