もう少しで……
カッコー、カッコー……。
横断歩道に設置された歩行者用信号機の音が、夜の街に響いている。どうしてこの辺りの住民は、誰も苦情を入れないのだろう。俺は睡眠不足で痛む頭を押さえた。
「それで、またあいつに呼び出されそうになって……」
「本当にムカつくよなあ」
うるさいのは信号機の音だけじゃない。俺は前を歩く集団をぐったりしながら眺めた。
どう見ても、こいつらは高校生くらいだ。それなのにこんな時間に出歩くなんて、何を考えているんだか。不良どもめ。
「あははは!」
何がおかしいのかグループのリーダ格らしい男子が大笑いして、俺はイライラした。
それとも、俺も十年前はあんなふうだったんだろうか。当時を思い出そうとしたものの、疲労した頭では上手くいかなかった。
まあいい。この高校生たちも、どうせ社会に出たら俺みたいになるんだ。
ネチネチ文句を言う上司と、無茶なことばかりいう取引先に、片づけても片づけても終わらない仕事。休日出勤が当たり前になっているせいで、日付や曜日の感覚もすっかり狂ってしまう。
こいつらも、そんな過酷な環境で俺みたいに心身共に消耗してしまえばいいんだ。
カッコー……。
もうすぐ横断歩道だっていうのに、誘導音が鳴り止んだ。今日はツイてない日だ。信号の色が変わって、止まっていた何台かの自動車が走り出す。この道路は、時間帯に関係なく交通量が多いのだ。
うんざりしながら、俺は高校生たちと一緒に横断歩道の手前で足を止めた。
深々とため息を吐いて、うなだれるようにして視線を地面に向ける。ひどく体が重かった。どうやら今日も、帰ったら食事をする暇もなく寝ることになりそうだ。この間みたいに、床で眠ってしまわないように気をつけないと。
まあ、どうせ今から帰ったって、取れる睡眠時間はたかが知れているが。床で寝たところで、体が痛くなったりはしないだろう。はははは……。
自分で考えておいて虚しくなった。
今の俺は、働くために生きているも同然だ。この先の人生もずっとこんなふうなのだろうか。生き甲斐も楽しみもなく、ただ労働だけが生活の大部分を占めている――。
ああ、いっそ死んでしまいたい。
死んだらもう会社に行かなくてすむ。それに、あの世にはきっと残業なんてないはずだ。素晴らしい世界じゃないか。そんなところで暮らせたらどれほどいいだろう。
カッコー、カッコー……。
信号機が鳴り出し、バカげた物思いは中断する。俺は足を引きずるようにして、一歩踏み出そうとした。
その瞬間にぐいっと腕をつかまれ、俺は危うく尻もちをつきそうになる。何事かと思えば、高校生グループの一人が、目を見開きながら俺の肘の辺りを握っていた。
「何やってんすか。信号、まだ赤ですよ」
……え?
ポカンとする俺の鼻先を、自動車が猛スピードで駆け抜けていった。腕を引かれなかったら、もろに衝突していただろう。下手したら即死していたかもしれない。
俺はごくりと息を呑む。次に発した声は、自分でも分かるくらいに震えていた。
「で、でも、誘導音が……」
俺は言葉を切った。耳を澄ましても、聞こえてくるのは行き交う車のエンジン音だけだ。確かに「カッコー」と鳴っていたはずの歩行者用の信号機は、赤のまま沈黙している。
「お兄さん、大丈夫っすか?」
「顔色悪いですよ。水飲みます? 俺、まだ開けてないペットボトル持ってるんで」
「その制服、ひょっとして隣町の会社の……? あそこブラックって噂ですよねえ。さっさと辞めたほうがいいんじゃないですか?」
高校生たちから思いやりのある言葉を次々にかけられ、不覚にも泣きそうになる。彼らのことをうっとうしがっていた自分の心の狭さを心底恥じた。
俺は高校生たちに礼を言おうと口を開きかける。
ある囁き声が聞こえてきたのは、その時のことだった。
「惜しかったな。もう少しで……」
耳の奥に絡みつくような恨めしげな声に、俺の背筋は凍りつく。けれど、振り向いてもそこにあるのは歩行者用信号機だけだった。
「お兄さん?」
高校生たちが心配そうな顔をする。どうやら、彼らには先ほどの声は聞こえなかったらしい。
カッコー、カッコー……。
辺りに誘導音が鳴り響いた。歩行者用信号機が青になっている。俺は鳥肌を立てながら、「何でもないよ」と首を横に振り、高校生グループと一緒に横断歩道を渡った。
……帰ったら、寝る前に辞表でも書くか。
寒々しいほどに単調な「カッコー」という音を聞きながら、俺はそう決心した。




