第8話 過去の花
一九九七年、初夏。
佐藤はじめは、港区のタワーマンション二十三階で目を覚ました。
郵便受けに、差出人不明のダイレクトメールが混じり始めたことを、彼はまだ「偶然」だと思っていた。
床から天井までのガラス窓越しに、東京タワーが朝日を浴びて輝いている。
かつて郊外の築三十年アパートで、黴臭い六畳間に押し込められていた男と、今ここにいる男が、同一人物だとは思えなかった。
「……これが、俺の場所だ」
はじめは寝室を出て、リビングへ向かった。
大理石調のカウンターキッチン。輸入物の革張りソファ。壁には意味も分からず買った現代アートが飾られている。
窓際には、二週間前に現金で購入したベンツC200が、地下駐車場で眠っている。
一九九〇年、あの輝かしい時代に手に入れられなかったすべてが、今、手の中にあった。
通帳の残高は、すでに八百万を超えている。
節子、田所、笹川、梶原――四人の定期契約に加え、最近は口コミで新規の依頼が月に二件は入ってくる。
「もっと拡大できる……」
はじめはエスプレッソマシンでコーヒーを淹れながら、次のターゲットを考えた。
問題は供給能力だ。
自分の唾液や体液には限りがある。一日に生成できる量を考えれば、現状の四人が限界に近い。
だが、単価を上げれば――。
そして、より「価値のある顧客」を見つければ――。
*
その夜、はじめは銀座の高級クラブ『ル・シエル』の扉を開けた。
バブル期の残滓が、まだかろうじて残っている店だ。
内装は豪華だが、客の入りは明らかに減っている。不況の波が、こういう場所から確実に侵食していた。
「いらっしゃいませ。本日、初めてのご来店ですか?」
黒服のボーイが、慇懃に頭を下げる。
「ああ。適当に席を」
はじめは奥の個室ブースへ案内され、シャンパンを頼んだ。
三十五歳。少し前まで配送倉庫で伝票整理をしていた男が、今では一晩に十万を使うことに何の痛痒も感じなくなっていた。
「失礼いたします」
ドアが開き、ホステスが入ってきた。
はじめは、グラスを持つ手を止めた。
「……柏木、さん?」
その女性は一瞬、目を丸くした後、営業用の笑顔を浮かべた。
「あら……もしかして、佐藤さん? 証券会社の」
柏木瑞穂。
一九九〇年、証券会社の同期入社で、社内一の美人と言われた女性だった。
当時、彼女は二十三歳。
煌めくシャンパンゴールドのワンピースを着こなし、男性社員たちの視線を一身に集めていた。
はじめも、遠くから彼女を眺めることしかできなかった一人だった。
だが、今、目の前にいる柏木瑞穂は――。
かつての輝きは、確かにまだ残っている。
整った顔立ち、しなやかな体のライン。
しかし、目尻の細かいシワ、ファンデーションで隠しきれない肌のくすみ、そして何より、三十二歳という年齢が、この世界では致命的な「賞味期限切れ」を意味していた。
「お久しぶりです。まさか、こんなところで……」
瑞穂は、ぎこちなく笑った。
「証券会社、辞められたんですか?」
「ああ。バブルが弾けて、システム部ごとリストラされた。あなたは?」
「私も……九三年に辞めました。それから、色々あって」
彼女は言葉を濁した。
はじめは、その「色々」が何を意味するか、容易に想像できた。
「でも、佐藤さん、すごく……なんだか、雰囲気変わりましたね」
瑞穂は、はじめの高級スーツと、テーブルに置かれた高級シャンパンを見た。
「少しね。運が良かっただけだよ」
会話が進むにつれ、はじめは確信していった。
柏木瑞穂は、今、崖っぷちにいる。
三十二歳という年齢は、この業界では「終わり」を意味する。
若い子が次々と入ってくる中で、彼女の席はもうすぐなくなる。
そして、彼女自身もそれに気づいている。
焦燥。不安。未来への恐怖。
それらすべてが、営業スマイルの裏に透けて見えた。
「……柏木さん、今度、昼間にでも食事しませんか」
「え……ええ、いいですけど」
「懐かしい話でもしたいし。それに……」
はじめは、グラスを傾けた。
「あなたに、いい話があるんです」
*
一週間後。
銀座の高級イタリアンレストラン。
白昼の光の下で見る彼女は、夜の照明よりもさらに老いが目立った。
「佐藤さん、お仕事って、今何を?」
「……コンサルタント、みたいなものかな。富裕層向けの、特殊なサービスを提供してる」
はじめは、小さなアンプルを瑞穂の前に置いた。
「これを、一週間試してみてほしい」
「……これ、何ですか?」
「サプリメントだよ。海外の最先端技術で作られた、アンチエイジング用の液体」
嘘だった。
だが、瑞穂の目には、すでに「信じたい」という光が宿っていた。
「柏木さん。あなたは、まだ終わっていない。俺が保証する」
*
その夜。
はじめは自宅のソファに深く沈み込んだ。
柏木瑞穂。
かつて、手の届かなかった花。
だが今は違う。
彼女は今、自分の「製品」を必要としている。
「……予備の供給源、確保」
だが、心のどこかで、かすかな違和感があった。
これは、ビジネスなのか。
それとも、ただの――復讐なのか。
一九九〇年、若く輝いていた彼女に見向きもされなかった、あの屈辱への。
はじめは、その答えを出さないまま、目を閉じた。
※本作の執筆にあたり、文章作成補助としてAIを使用しています。




