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第3話 最初の被験者

一九九六年、秋。

 まずは身近な人間で、かつ「万が一失敗しても、自分の生活に影響が出ない距離」の相手でテストをする。


 ターゲットは、配送倉庫の事務所で事務をしている野村さん(四十二歳)に決めた。

 彼女は、どこにでもいる控えめな女性だった。バブルの頃も、きっと派手に遊び回るタイプではなく、堅実に働き、結婚し、そして時代の波に押されて今の生活に辿り着いたのだろう。


 ただ、最近の彼女はいつも疲れた顔をして、事務机の隅に置いた家庭用サイズの大きな胃薬の瓶を、手放せずにいた。


「野村さん、体調悪いんですか?」


「ああ、佐藤くん……ええ、なんだか最近、疲れが抜けなくてね。顔に出てるでしょ。もう歳かなって、嫌になっちゃうわ」


 彼女は自嘲気味に笑い、湯呑みの白湯で薬を流し込んだ。


 はじめは、その光景を冷徹に観察していた。

 彼女が求めているのは「劇的な美貌」ではない。ただの「健やかな明日」だ。

 そのささやかな願いに、自分の「呪い」がどう作用するかを試す。


 チャンスはすぐに訪れた。

 野村さんが来客の対応で席を外した、わずか一分間。


 はじめは、彼女がいつも白湯を淹れるために使っている、共用の給湯ポットの横に置かれた「彼女専用のマグカップ」を手に取った。


 あらかじめ口の中で「調整」しておいた水を、スポイトで底に数滴落とす。

 無色透明、無味無臭。

 システムに「隠しコマンド」を仕込むのと、何ら変わりはない。


 その日から、はじめは毎朝、誰よりも早く出勤し、彼女のカップに「ソース」を仕込み続けた。


 ――一週間後のシフト。


 事務所に入ったはじめは、自分の耳を疑った。


「野村さん、最近なんだか……すごく若々しくなったわね。お肌、何か始めたの?」


 同僚の女性たちの、羨望と困惑の混じった声。


「ええ? 自分じゃよく分からないんだけど……。でも、そういえば最近、朝すっきり起きられるのよ。胃の調子も良くて、薬も飲まなくなったし。なんだか、十年前の自分に戻ったみたいに体が軽いの」


 横目で確認した野村さんは、確かに変貌していた。

 華やかになったわけではない。

 だが、肌のくすみが消え、目尻の細いシワが内側から押し上げられるように消滅している。


 四十二歳の彼女から、「生活の疲れ」という名の重石が取り除かれ、三十代前半――人生で最も健康だった頃の輝きが、不自然なほど鮮明に蘇っていた。


 はじめは、配送伝票を整理するふりをしながら、心の中でログを更新した。


(経口摂取による修復効果を確認。タイムラグは四日。

――思った以上だ。劇的な容姿の変化よりも先に、細胞レベルの活性化が始まっている)


 野村さんは、鏡を見ることもなく、ただ「健康になった」と喜んでいる。

 その無邪気な喜びが、はじめには滑稽であり、同時に恐ろしかった。


 彼女は気づいていない。

 自分が今、一人の男が吐き出した「得体の知れないプログラム」によって、無理やり過去へ引き戻されていることに。



―――


(野村さんの視点)


 きっかけは、十一歳になる娘・美咲の、何気ない一言だった。


「お母さん、なんか最近……魔法使いみたい」


 夕食のカレーを口に運んでいた野村さんは、手を止めて顔を上げた。


 一九九六年、秋。

 車ディーラーの営業をしている夫は、不況の煽りを受け、帰宅は毎晩十一時を過ぎる。

 いつものように、娘と二人きりの食卓。テレビからは、証券会社の破綻だの、暗いニュースばかりが流れていた。


「魔法って、何よそれ。変なこと言わないで」


「だって、お肌がピカピカだもん。前はここらへん、もっと……お疲れ様って感じだったのに」


 美咲が自分の目尻を指さして笑う。


 野村さんは、洗面所に駆け込み、鏡を見た。


 ――驚いた。

 四十二歳の自分が、そこにいなかった。


 肌のくすみは消え、頬には二十代の頃のような柔らかな赤み。

 それは記憶の中ほど無防備ではなく、四十代の輪郭を残したままの若さだった。


 何より、万年悩まされていた胃の重苦しさが嘘のように消え、体中から力が湧いてくる。


(どうしたのかしら……最近、職場で淹れるお茶が美味しいとは思ったけれど……)


 美咲が寝静まった後、野村貴子は一人、ドレッサーの前で自分の顔を凝視していた。


 鏡の中にいるのは、まぎれもなく「あの頃」の自分だった。

 指先で頬を押す。吸い付くような弾力。

 四十二歳の現実を象徴していた、あの薄暗い影がどこにもない。


(どうして? 何が起きてるの?)


 恐怖よりも先に、抑えきれない高揚感が胸を突いた。


 横のベッドでは、夫が口を開けていびきをかいている。

 不況で営業成績が上がらず、家では愚痴をこぼすか眠るだけの男。

 かつては彼だって、もっとスマートで頼もしかったはずなのに。


 貴子は、クローゼットの奥に隠していた古い布製のアドレス帳を取り出した。


 一九九〇年。

 ページをめくれば、バブルの残光が目に染みる。

 金曜の夜の待ち合わせ、スキー旅行、そして――最後まで結婚を迷った相手、久志。


 彼の電話番号を見つめたまま、貴子は一時間以上も動けなかった。


(馬鹿なことはやめなさい。あなたには美咲がいるし、家庭があるのよ)


 理性が囁く。

 だが、若返った細胞がそれを撥ねのけた。


 今の私なら、彼を驚かせられる。

 今の私なら、あの輝いていた時間を「本当のこと」にできる。


 深夜一時。

 暗いリビングで、彼女はついにダイヤルを回した。


 指が震えていたのは、怖かったからではない。

 これから始まる「人生の再起動」に、全神経が昂ぶっていたからだ。


「……もしもし、久志君?」


 数回のコールの後、眠たげで、けれど聞き覚えのある低い声が響く。


 その瞬間、貴子の心は、一九九六年の閉塞感から解き放たれ、

 狂騒の一九九〇年へと、一気にタイムスリップした。

再会の場所に指定されたのは、当時の若者たちが背伸びをして通った、少し気取ったバーだった。


現れた久志は、白髪の混じった、すっかり「枯れた」男になっていた。

彼は入り口に立つ貴子を見て、まるで幽霊でも見たかのように目を見開いた。


「……貴子? 信じられない、嘘だろ。お前、全然変わってないじゃないか」


その驚愕の表情。

それが、貴子にとっては何よりの栄養だった。


食事の間も、久志の視線はかつてのように彼女に釘付けだった。

夫との生活ではもう二度と得られない、熱を帯びた、一人の「女」として値踏みされる視線。


「俺だけが、取り残されたみたいだ……」


帰り際、タクシーを待つ街灯の下で、久志が震える声で呟いた。

彼は吸い寄せられるように貴子の肩を抱き、唇を重ねた。


久志の唇からは、加齢による微かな匂いと、自分より若い存在への焦りが伝わってきた。


貴子は目を閉じながら、確信した。

世界が老いていく中で、自分だけが逆行している。


この圧倒的な優越感。


彼女はまだ気づいていない。

自分が享受しているその「若さ」という奇跡が、配送倉庫で黙々と伝票を整理している、

あの地味な男――佐藤はじめから、一滴ずつ供給されている

**「設計された罠」**であることに。


※本作は、執筆補助としてAIを活用していますが、内容・構成は作者の創作によるものです。

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