表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
若返りの琥珀色   作者: 杜人
26/26

立っていないだけで、前にいる  第二章:白椿 終章

―― 大森 太郎


 拍手が収まり、会場の空気がほどけ始めた頃。

 太郎は上条と並んで歩いていた。


「いい会だったな」


 太郎が言うと、上条は曖昧に笑った。


「……なあ、大森」


 呼び方が、名字だった。

 それだけで、太郎は足を止めた。


「お前、気づいてるか?」


「何を?」


 上条は、声を落とした。


「奥さんだよ」


 太郎は一瞬、言葉に詰まった。


「敦子がどうかしたのか?」


 上条は、少し考えてから言った。

 考えた、というより――選んだ。


「お前の奥さんさ……

 “おしとやか”に見えてるだろ?」


 太郎は、反射的に頷きかけて、止まった。


「でもな」


 上条は、妻たちの席だった方向を、顎で示す。


「あれはな、

 立ってないだけで、前にいる女だ」


 太郎の胸の奥で、何かが音を立てた。


 上条は、それ以上は言わなかった。

 言わなくても、十分だった。


 太郎は、もう一度だけ、妻たちの席を見た。


 敦子は、相変わらず静かに微笑んでいる。

 誰よりも動かず、

 誰よりも、場を動かして。


(……おしとやか、じゃない)


 その言葉が、

 ようやく太郎の中で、形になり始めていた。


 人がばらけ始めた会場は、

 さっきまでの熱が嘘のように静かだった。


 皿が下げられ、グラスが片づけられ、

 拍手の代わりに靴音が戻ってくる。


 政治の夜は、いつもこうして終わる。

 最後に残るのは、成果と、勘違いと、後悔だけだ。


 太郎は歩きながら、

 上条の言葉を何度も反芻していた。


 ――立ってないだけで、前にいる女。


 それは非難でも、賛辞でもない。

 ただの事実の言い換えだった。


 もう一度、妻たちの席を見る。

 そこに敦子はいない。


 気づけば席は崩れ始めている。

 だが、完全には崩れていない。

 何人かの女たちは、

 まだ同じ方向を見ていた。


(……終わってないのか)


 祝賀会は終わった。

 だが、敦子の場は終わっていない。


 それに気づいた瞬間、

 太郎は自分の常識が、少し遅れていたことを悟った。


 政治は、選挙で一区切りつく。

 だが、人の関係は違う。

 勝った夜ほど、次の準備が始まる。


 それを、太郎は

 男の世界の理屈でしか考えてこなかった。


 妻の世界にも、

 同じだけの「次」がある。

 しかもそこでは、

 誰が勝ったかより、

 誰が整っているかのほうが重要なのだ。


 太郎は無意識に、ネクタイの結び目を直した。

 姿勢を整えたつもりだった。


 だが、整えるべきものが、

 もう一段、別のところにある気がしてならない。


(……どこで、誰が、何を回している?)


 その問いは、

 まだ政治の言葉になっていない。

 だから、誰にも相談できない。


 会場の外に出ると、夜風が冷たい。

 フラッシュの光が遠ざかり、

 政治の顔が、一枚ずつ剥がれていく。


 太郎は内ポケットに手を入れ、

 支給されたPHSに触れかけて、やめた。


 今、呼ぶ相手はいない。

 この違和感は、

 電話で片づけていい種類のものじゃない。


 歩道の向こうで、

 公衆電話の白い明かりが浮いている。


 だが、そこへ向かう理由も、

 言葉も、まだ見つからない。


 敦子に聞くのは、

 いちばん遅くて、いちばん危険だ。


 太郎は、まだ知らない。


 その夜、

 妻が向かう先が、

 この祝賀会よりずっと正直で、

 ずっと金の匂いがして、

 ずっと若さに残酷な場所だということを。


 政治の舞台は、

 ここで一度、幕を下ろす。


 だが――

 権力が本当に流れている場所は、

 まだ、灯りの下にある。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ