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第2話  琥珀色のリライト

数分待っても、体に異常は起きなかった。


 はじめは、安堵した。

 同時に、胸の奥に残っていた微かな期待が、砂の城みたいに崩れていくのも感じた。


 蔵の片付けを切り上げる。


「圭子さん、今日はこのくらいにしておきます」


「あら、お疲れさま。助かったわ。はい、これ日当ね」


 三枚の一万円札。

 一九九〇年なら、一晩の飲み代で消える額だ。けれど今のはじめにとっては、一か月をつなぐための太いロープだった。


 埃まみれの軽自動車を走らせる。郊外の道を五十分。築三十年のアパートに戻るころには、空が少しだけ薄くなっていた。


 狭いユニットバスで煤を洗い流し、鏡を見る。

 そこにいるのは、三十五歳の、疲れ切った男だ。変化はない。皺も、弛みも、生活の匂いも。


「若返り、か……馬鹿馬鹿しい」


 琥珀色の液体の苦味も、喉に残った焼けるような熱さも、時間といっしょに「不快な記憶」に沈み始めていた。


 ――異変が起きたのは、その三日後。


 昼過ぎ。部屋の空気が眠気を含み始める時間。

 テーブルの上のPHSが、いきなり震えた。


 ブブッ、ブブッ。


 短いバイブの振動が、安っぽいテーブル板を鳴らす。続けて、電子音の着メロが鳴り出した。軽い。薄い。音程だけが妙に明るい。


 はじめは一瞬、体が固まった。

 この部屋で鳴る音に、いい知らせが紛れていた記憶がない。


 小さな単色液晶が点く。緑がかったバックライト。

 ドットの粗い文字が、じわっと浮かび上がる。


『ケイコ』


 名前だけ。苗字も、番号も出ない。登録の仕方が雑なのは、相手が圭子だからだ。


 通話ボタンを押す。カチ、と小さくプラスチックが鳴った。耳に当てると、回線が繋がる前の電子的な沈黙が一拍あり、すぐに声が飛び込んでくる。


『はじめちゃん! 大変なのよ!』


 圭子おばさんの声は、普段の落ち着きを完全に失っていた。

 言葉が先に走って、息が追いついていない。


「落ち着いてください。泥棒でも入ったんですか?」


『違うのよ……ジョンよ! うちのジョン!』


 その名前で、はじめの脳裏に一枚の映像が貼りつく。

 蔵の隅。影のように横たわっていた老犬。呼吸だけが細く残っていた。圭子が何度も「もうだめかもしれない」と言ってきた存在。


『今朝起きたらね、あの子、庭を走り回ってるのよ』


 一瞬、冗談だと思った。

 だが圭子おばさんの声は、冗談の熱ではない。恐怖と喜びが混ざって、壊れかけた音だった。


『白内障で、もう目も見えてなかったでしょう? それがね、黒々として、ちゃんとこっちを見るの。吠える声まで若い頃みたいで』


 受話器越しに、圭子おばさんが息を吸う音が聞こえた。


『慌ててお医者様に連れて行ったら、「五、六歳の成犬の体です」って。毛艶も、一九九〇年に飼い始めた頃みたいにツヤツヤで……』


 笑っているのか、泣いているのか分からない。

 しかし興奮だけは、はっきり伝わってくる。


『先生ね、「奇跡だ」って言ってたわよ。あの先生が、腰を抜かして』


 はじめの掌が、じっとり濡れていく。

 耳元のPHSは軽いのに、そこから入る情報だけが重かった。


 頭の中に浮かぶ。


 桐箱。遮光瓶。琥珀色の液体。

 そして――蔵の隅で、皿の水を舐めていたジョン。


 背筋に、冷たい棒を差し込まれたような感覚が走った。


 もし、あれが原因だとしたら。


 はじめは自分の頬に触れた。

 皺はある。弛みもある。俺は変わっていない。


 なのに、ジョンが変わった。


「……待てよ」


 声が漏れた。部屋の空気に吸われ、乾いて消える。


「俺が飲んで、俺が吐き出した水を……あいつが舐めたんだ」


 はじめはキッチンへ行く。

 コップに水を注ぐ。手が震れて、水面が細かく波打つ。


 理屈が、勝手に動き出す。止められない。

 原因と結果。条件と再現。偶然の排除。


 結論だけが、妙に整った形で、頭の中心に座った。


 あの薬は、飲んだ本人を若返らせるものではない。

 飲んだ人間を――他者を若返らせるための媒介に変える。


 言うなれば、若返りを生成して供給する装置。

 製造機。サーバー。


 はじめは、圭子おばさんの声にできるだけ平静を装って返事をした。

 病院に連れて行くこと。無理に走らせないこと。水を飲ませること。そういう「常識」の指示で会話を終える。


 終話ボタンを押す。カチ、とまたプラスチックが鳴る。

 液晶の明かりが数秒残って、やがて消えた。部屋が元の薄暗さに戻る。


 それでも掌の中の振動だけが、まだ残っている気がした。


 はじめは窓の外へ視線を投げる。

 狭いベランダの隅に、枯れた鉢植えがある。


 ずっと前から死んでいるはずの、パキラ。


 ――試すなら、まずはあれだ。

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