表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
若返りの琥珀色   作者: 杜人
19/26

第19話 白椿の口紅

1996年10月13日 山口


選挙事務所の喧騒が、嘘のように引いていく。


五回目の当選。


山口の乾いた風が、万歳三唱の熱気をどこかへ運び去った後の、午後の静寂だった。


大森敦子は、応接室のソファに深く腰を下ろし、秘書が淹れた茶をすすった。


壁には「必勝」の文字。

その横に、地元の婦人会のメンバーと笑い合う自分の写真が貼られている。


写真の中の敦子は、近所の主婦と変わらぬ「気さくな奥様」の顔をしていた。

――それが、いちばん強い。


「失礼します」


入ってきたのは、東京から呼び寄せた柏木瑞穂だった。

派手なスーツは脱ぎ捨て、地味なネイビーのアンサンブルに身を包んでいる。

この土地で「浮かない」ための、彼女なりの武装だ。


「瑞穂さん、わざわざ遠くまで」


「ご当選、おめでとうございます。敦子さん」


瑞穂は深く頭を下ろす。

敦子は「先生なんてやめてよ」と、いつもの柔らかな微笑みでそれを制した。


その“きやすさ”こそが、

敦子が白椿会を束ねてきた最大の武器だと、二人は知っている。


「納地会の祝賀会まで、あと十日ね」


敦子は、机の上に置かれた小さな紙袋を指先でなぞった。


「あちらの奥様方も、きっと『最高の状態』で現れるわ。

選挙疲れなんて一ミリも見せない顔で」


愚痴の形をした、明確な号令だった。


「瑞穂さん。あの“手順”、お願い」


瑞穂は頷き、バッグから遮光瓶を取り出す。

だが、それを敦子に渡さない。


代わりに、敦子のハンドバッグから

愛用のシャネルのリップクリームを取り出させる。


「白椿会の皆さんには、これで十分です」


瑞穂はスポイトを傾け、

琥珀色の液体を、ほんの一滴、

リップの表面に落とした。


混ぜない。

増やさない。

“効かせる余地”だけを残す。


一見すれば、

保湿成分を足しただけにしか見えない。


「……これで、“整う”のね」


敦子はリップを見つめた。

若さという言葉は使わない。

必要なのは、写真に耐えることだけだ。


白椿会は、秘密組織ではない。

「美容と健康の情報を共有する会」――

それ以上でも以下でもない。


だが、敦子は知っている。


誰に、

いつ、

どの程度まで“整えさせるか”。


それを決めるだけで、

女たちは自然と並ぶ。


「石井さんの奥様、最近少し疲れて見えるでしょう?」


敦子は、世話を焼くような口調で言った。


「会の写真で、あの方だけ影が出るのは困るわ。

白椿会の名前に傷がつくもの」


命令ではない。

配慮だ。


だが、その“配慮”を受けられるかどうかが、

序列になる。


「次の会合、議題は美容と……そうね、立ち居振る舞い。

あまり派手なことは控えましょうって、みんなで確認したいわ」


敦子は笑う。


敦子が指示するのではない。

敦子が整え、

敦子が共感し、

敦子が“正しさ”を示す。


そうすることで、

党内の妻たちは自ら彼女の後ろに並ぶ。


「十日後の祝賀会。集合写真が楽しみだわ」


敦子は、薬の染み込んだリップを唇に引いた。


誰が選ばれ、

誰が整えられ、

誰が置いていかれたか。


その差は、言葉より雄弁に

派閥内の空気を決める。


白椿会は、

ただの仲良しグループではない。


敦子を中心とした、

静かで、美しく、そして恐ろしく忠実な

**「妻たちの運用組織」**へと、形を変え始めていた。


秋の午後の光の中で、

敦子の肌は、

写真に耐えるだけの、確かな艶を取り戻していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ