第14話 夜の検証(瑞穂)
鏡の前に立ったのは、深夜だった。
クラブから歩いて十分もかからない場所に、このマンションがある。
近い。だからこそ助かる。ヒールのまま帰っても足がもつ。タクシーを捕まえられない夜でも、帰り道に焦らなくていい。
なのに、この建物は不思議なほど静かだ。
昼間でも騒がしくならない。車の音も、生活の音も、ここまで届かない。
朝――いや、昼前。
日が高くなってからでも、遮光カーテンを引けば夜のまま眠れる。
人が働く時間に眠るために作られたみたいな部屋。
玄関で鍵を閉め、チェーンもかける。
バッグを床に置き、ヒールを脱ぐ。足裏が床に触れた瞬間、身体の力が抜ける。
メイクを落とし、髪をほどく。
肌の上から、笑顔も声色も、役割も剥がしていく。
この時間だけが、本当の意味で「私」になれる。
瑞穂は洗面台ではなく、寝室の鏡台の前に座った。
蛍光灯はつけない。間接照明だけを点ける。
輪郭だけを拾う、弱い橙色の光。
この暗さがいい。
残酷すぎないのに、嘘は混ざらない。
部屋は静かだった。
エアコンの低い唸り。冷蔵庫の小さな作動音。
遠くで、車が一台だけ通り過ぎる音。
それ以外には、何もない。
鏡の中にいるのは、私だけだ。
鏡台のガラス天板の上に、小さな遮光瓶が置いてある。
ガラス越しの液体は無色で、頼りないほど静かだ。
残量は、もう半分もない。
指で転がすと、ひやりとした冷たさが伝わってくる。
それが骨にまで染みるような錯覚を、私は好きになりかけていた。
「……遅いわね」
次がいつ届くのかは、曖昧なままだ。
連絡は取れる。けれど、確約はない。
私はもう理解している。
この“商品”がどういう性質を持っているか。
希少であること。
揺らぎを残すこと。
人を待たせること。
それ自体が価値になる。そういう世界だ。
私がいる世界と同じ。
無駄に使う理由は、なかった。
飲めば効く。
即座に、分かりやすく。
でも、それは“全身”に効くやり方だ。
気分まで引っ張られ、体温まで変わる。
そして何より、引き返せなくなる。
私は遮光瓶を傾け、指先にほんの一滴だけ取った。
液体は丸く、指の腹に張りつく。
匂いはない。薬品臭さもない。
なのに、不思議と「生き物」に近い感触があった。
触れたもののほうが変わる。
そういう性質を持つもの。
鏡の中の目尻に視線を落とす。
昨日までなかった、薄い線。
笑ったあと、戻りが遅くなった場所。
仕事で笑う回数は数え切れない。
それでも、これまでは――戻っていた。
「……ここね」
その一点にだけ液体を置く。
伸ばさない。
混ぜない。
なじませない。
クリームみたいに扱う気はない。
ただ、触れさせるだけ。
点を置くというより、印を打つ。
数秒。
何も起きない。
ピリつきも、熱も、香りもない。
それでいい、と私は思った。
即効性は期待していない。
即効性は、安い。
私は確かめるとき、必ず呼吸を止める癖がある。
自分の体の雑音を消すために。
数分後。
鏡を覗き込んだ瞬間、私は瞬きをした。
影が、薄くなっている。
消えてはいない。
でも、戻りかけていた線が途中で止まっている。
“止まる”という変化が、目で分かる。
「……なるほど」
声は静かだった。
裏返らない。弾まない。
これは検証だ。
感情は、あとでいくらでも足せる。
反対側の目尻にも、同じ量を使う。
位置、角度、指の圧を揃える。
結果は、同じだった。
私は遮光瓶を鏡台に戻し、キャップを閉めた。
小さな音が、部屋の静けさを強調する。
ガラスの中に残った液体は、まだ半分。
半分しかない、とも言える。
半分もある、とも言える。
飲めば、効く。
それは分かっている。
だが、今は違う。
これは、量を管理できる。
場所を選べる。
誰に、どう効かせるかを選べる。
飲むやり方は“与える”。
塗るやり方は“指定する”。
効かせる場所。
目的。
意図。
それを握るのは、私だ。
私は鏡の中の自分を見つめた。
目の奥には、まだ薄い疲れが残っている。
それでも輪郭は崩れていない。
怖さは、もうなかった。
代わりに、形のはっきりした考えがある。
――これは、私が使うものだ。
遮光瓶を引き出しの奥にしまう。
布の下、箱の陰、手が迷う位置。
すぐには取り出せない。
でも、忘れない場所。
この部屋は静かだ。
昼でも眠れる。朝を遅く迎えられる。
だから私は、焦らずにいられる。
焦らずに、次を選べる。
次に使う場所も、
次に見せる相手も、
もう、決まっていた




