第12話 女王の帰還
鏡を見ることが、こんなにも甘美な行為だったことを、私は忘れていた。
店の控室。
無機質な蛍光灯の白い光の下で、私は自分の顔をじっと見つめる。
――戻っている。
目尻に貼り付いていた薄い影は霧のように散り、頬の曲線は、焼き物の肌のようになめらかだ。
ファンデーションを薄く伸ばすだけで、肌が吸い付くように応える。余計な手間がいらない。
三十二歳。
昨日まで、その数字は抗いようのない澱だった。
だが、今は違う。
「……よし」
紅を引き、私は椅子から立ち上がる。
鏡の前で迷う時間は、もう必要ない。
フロアに出た瞬間、空気がわずかに震えた。
視線が集まる。露骨な欲も、無意識の羨望も、言葉になる前に私へ向かって収束する。
――ああ、知っている。
この感覚。
一九九〇年。
証券会社に入ったばかりの頃。
システム部門の男たちがサーバー室に籠もり、脂汗を流して数字を追っていた、そのすぐ外側で。
私は、ただ微笑んでいるだけで、世界の中心にいた。
あの頃と、同じだ。
「瑞穂さん、今日……すごいですね」
若いホステスの一人が、引きつった笑みで言う。
「そう?」
私は軽く受け流す。
笑顔に力を入れる必要がない。その余裕こそが、周囲をいちばん残酷に黙らせる。
指名が、途切れない。
以前なら三十分で時計を気にしていた客が、縋るように延長を求める。
若い子を指名していた常連が、私の前でグラスを止める。
「……柏木さん、久しぶりだな」
かつて私を「盛りを過ぎた」と鼻で笑っていた男。
「覚えていらしたんですか?」
小首を傾げて微笑むと、男は一瞬、呼吸を忘れたように黙り込んだ。
「……いや。変わらないな。いや、むしろ……」
嘘だ。
彼は、はっきりと見ている。私の肌に宿る、暴力的なまでの若さを。
私は、それを訂正しない。
閉店前、売上表を見たマネージャーが、困惑と驚愕の混じった声を上げた。
「瑞穂、今月……お前、トップだぞ」
一瞬、フロアの喧騒が引く。
若い子たちの視線が、刺すようにこちらへ集まる。
私は、ただ一言だけ返す。
「ありがとうございます」
弁解も、謙遜も、いらない。
ここは、数字だけが唯一の福音になる場所だ。
閉店後。
ロッカールームでヒールを脱いでも、脚は羽のように軽い。
以前なら、この時間には鉛のような倦怠感が全身を支配していたはずなのに。
(……続いている)
佐藤さんが渡してきた、あの小さな茶色い瓶。
毎晩、決められた儀式のように。
疑問は、湧かなかった。
結果が、何よりも雄弁に正しさを証明している。
バッグの底で眠るピッチに、そっと指先で触れる。
連絡は、まだない。
けれど、不安はなかった。
――私は、選ばれている。
対価など、後でいくらでも払えばいい。
自宅に戻り、シャワーの熱い湯を浴びる。
曇った鏡の向こうに、瑞々しい輪郭を保った自分の身体が映る。
鋭い鎖骨。
しなやかな背中の線。
二十代の頃よりも冴えた、腰のくびれ。
「……もう一度、行ける」
湿った空気に、独り言が溶ける。
それは誰への宣言でもない。自分自身に与える、再生の許可だ。
ベッドに横になり、闇に沈む天井を見つめる。
脳裏をよぎる、かつての証券会社のフロア。
男たちの熱狂。乱舞する注文票。
あの頃、私はすべてを「持っていた」。
そして今――
再び、世界は私の手の中にある。
私はまだ、知らない。
この若さが、
誰かの焦燥と、
誰かの失踪と、
誰かの崩壊という犠牲の上に、
危うく成立していることを。
ただ一つ、確かなのは――
今夜、
この世界は、
再び私を主役に選んだ。




