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若返りの琥珀色   作者: 杜人
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第11話 空白の供給者

 裏口のドアを閉めようとした、その時だった。


「――節子さん、ですよね」


 低く、落ち着いた男の声。


 節子は肩越しに振り向いた。


 スーツ姿の男が立っていた。派手ではない。だが安物でもない。

 この店の常連がまとっている、酒と夜の匂いとは決定的に違う匂いがした。乾いた、昼の匂い。


「……何か御用ですか」


 言いながら、節子の指は無意識にバッグの口を押さえていた。

 PHSのある位置だ。番号のメモが挟んである。あの“更新”の入口。


「失礼。突然で驚かせましたね」


 男は距離を保ったまま名刺を差し出した。


 久我 恒一。

 久我探偵事務所。


 節子は、名刺の文字を見た瞬間に背筋が冷えた。

 探偵。つまり――誰かが“調べた”。


「最近、こちらのお店が評判だと聞きまして」


 名刺を受け取る指先が、わずかに湿っているのが自分でも分かる。

 節子は笑うべきか迷い、結局、笑えなかった。


「評判……?」


「ええ。いろいろと」


 久我は言葉を濁した。濁し方が、逆に的確だった。

 言い切らないのは、相手に想像させるためだ。想像した分、足が止まる。


「噂って、ありますよね。夜の店には」


 節子は喉が鳴るのを抑えた。


「……私は、ただのスナックのママです」


「承知してます」


 久我はあっさり頷いた。否定を、否定として扱わない。

 そこに話し合いはない。“確認”だけがある。


「ただ、共通点があるんです」


 言葉が針みたいに刺さった。


「あなたのお客さん。ここ数ヶ月で、妙に元気になってる方がいる」


 節子の脳裏に、顔が浮かぶ。

 未亡人たち。実業家の笑い声。

 そして――番号だけのPHS。


「もちろん、病院に通ったとか、サプリを変えたとか、そういう説明はいくらでもできる」


 久我は柔らかい声で続けた。柔らかいからこそ、逃げ場が削れていく。


「でも、皆さんの話には“入口”がある。あなたです」


 裏口の路地が、急に細く感じた。

 車の遠音も、店の空調の唸りも消えて、心臓の音だけが大きすぎる。


「……何の話か、分かりません」


「分からなくていいですよ」


 久我はあっさり言った。

 節子の否定を、材料として使わない。材料がもう足りている。


「節子さん。あなたに“お願い”をしに来た」


「お願い……?」


「あなたの背後にいる方と、話がしたい」


 節子の喉が乾いた。


 背後。

 その言葉だけで、世界が傾く。


「私は知らない」


 絞り出す。


「知らないんです。私は――」


「ええ。そういうことにしておきましょう」


 久我は、そこで初めて笑った。

 笑っているのに、目が笑っていない。


「でも、止まったら困る人が大勢いる」


 節子の肩が微かに震えた。

 困る人――それは、若さを買った客だけじゃない。節子自身も、同じ側にいる。


 久我は節子のバッグを一瞥した。

 正確に、PHSのある位置を。


 節子の指が、さらに強くバッグの口を押さえる。

 隠しているんじゃない。守っているわけでもない。

 ただ“そこにある”という事実を、奪われたくないだけだ。


「安心してください」


 久我は言った。


 安心という言葉が、脅しに聞こえる。


「最初は、ソフトにいきましょう。

あなたが困らない形で、こちらも困らない形で」


 交渉の形をしている。

 だが節子は気づいていた。交渉じゃない。これは“枠”の提示だ。枠の外には出られない。


 久我は一歩引いて、最後にこう言い残した。


「逃げ道があるうちは、人生は交渉できます。

それがなくなった時が――本番です」


 数日後。


 店の前に、黒塗りの車が停まるようになった。

 客でもない。常連でもない。中から降りてくるのは、名刺を出さない男たちだ。


 さらに数日後。


 “客”が、節子の意思と無関係に連れてこられるようになった。


 断れない席。

 回せないはずの席。

 知らない顔。笑わない目。


 店の空気が変わった。

 夜の遊びじゃない。昼の圧が混ざった。


 そして――PHSが鳴らなくなった。


 圏外じゃない。電波の問題じゃない。

 呼び出し音がしない。留守電ランプも点かない。

 生きているはずの小さな機械が、“沈黙”そのものになった。


 節子は理解した。


 これは交渉じゃない。引き継ぎでもない。

 奪取だ。


 供給の入口を、握られた。


 その夜、節子は荷物をまとめた。夜明け前に街を出る。

 店の鍵は置いていった。通帳も最低限だけ。鏡を見る暇はなかった。見たら、戻れなくなる。


 PHSは捨てなかった。

 捨てられなかった。


 もう二度と鳴らないと分かっていても。

 鳴らないことこそが、いちばんの証拠になってしまったとしても。

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