表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/10

第10話 空白の供給者

裏口のドアを閉めようとした、その時だった。


「――節子さん、ですよね」


 低く、落ち着いた男の声。

 節子は肩越しに振り向いた。


 スーツ姿の男が立っていた。

 派手ではない。だが、安物でもない。

 この店の常連がまとう酒と夜の匂いとは、決定的に違う匂いがした。乾いた、昼の匂い。


「……何か御用ですか」


 言いながら、節子の指は無意識にバッグの口を押さえていた。

 PHSのある場所だ。


「失礼。突然で驚かせましたね」


 男は距離を保ったまま名刺を差し出した。

 梶原誠一。

 肩書きは、都内の建設会社社長。


 節子でも聞いたことのある名だった。

 だから余計に、背筋が冷えた。


「最近、こちらのお店が評判だと聞きまして」


 名刺を受け取る指先が、わずかに湿っているのが分かる。

 節子は笑うべきか迷い、結局、笑えなかった。


「若返った、と」


 喉が、ひくりと鳴った。


「冗談ですよ」


 梶原はすぐに笑った。

 だが、その目は笑っていない。笑いの形だけが顔に貼りついている。


「ただ……興味がありましてね。

 人は、どこで人生を立て直すのか」


 その言葉に、節子の背中を汗が伝った。

 立て直す。――そんな言い方をする人間が、夜の裏口に立つ理由は一つしかない。


「私は、ただのスナックのママです」

「噂なんて――」


「ええ、ええ。承知しています」


 梶原は一歩、距離を詰めた。

 近すぎない。だが、逃げるには狭い。

 裏口の路地は、いつの間にか細く感じた。


「でも、あなたの“お客さん”たち」


 節子は息を飲んだ。

 その単語が、針のように耳に残る。


「皆さん、同じように変わっている」


 脳裏に、未亡人たちの顔が浮かぶ。

 実業家の笑い声。

 そして――数字だけのPHS番号。


「共通点があるんです」


 梶原は柔らかい声で言った。

 柔らかいからこそ、逃げ場が削れていく。


「あなたが、窓口だ」


 一瞬、世界の音が消えた。

 車の遠音も、空調の唸りも。

 節子の心臓の音だけが、大きすぎる。


「……何の話か、分かりません」


「分からなくていい」


 梶原はあっさり言った。

 否定を否定として扱わない。そこに“話し合い”がない。


「私は敵じゃない。

 むしろ、協力したい」


 その言葉に、節子はほんの一瞬、縋りそうになった。

 昼の匂いに、救いを錯覚しかけた。


 だが、次の一言で、それは崩れた。


「あなたの“供給”が止まったら、困る人間が大勢いる」

「あなた自身も、そうでしょう?」


 節子は答えなかった。

 答えられなかった。

 否定すれば嘘になる。肯定すれば終わる。


 梶原は、それを了承と受け取ったらしい。


「連絡先を――いや、もう持っているか」


 彼は、節子のバッグを一瞥した。

 正確に、PHSのある位置を。


 節子の指が、さらに強くバッグの口を押さえる。

 そこに何かを隠しているのではなく、守っているのでもない。

 ただ“そこにある”という事実を、奪われたくないだけだ。


「……安心してください」


 梶原は言う。

 安心という言葉が、脅しに聞こえる。


「最初は、ソフトにいきましょう」


 その夜、梶原はそれ以上、何も言わなかった。

 金も要求しなかった。

 脅しもしなかった。


 ただ、こう言い残した。


「逃げ道があるうちは、人生は交渉できる」

「それが、なくなった時が――本番です」


 数日後。

 店の前に、黒塗りの車が停まるようになった。


 さらに数日後。

 “客”が、節子の意思と無関係に連れてこられるようになった。


 断れない席。

 回せないはずの席。

 知らない顔。

 名刺も出さない男。

 そして、笑わない目。


 そして、PHSが――圏外になった。


 圏外。

 それは機械の都合じゃない。

 世界の都合だ。


 節子は理解した。

 これは交渉ではない。

 引き継ぎでもない。

 奪取だ。


 その夜、彼女は荷物をまとめ、夜明け前に街を出た。

 店の鍵は置いていった。

 通帳も、最低限だけ。

 鏡を見る暇はなかった。見たら、戻れなくなる。


 PHSは、捨てなかった。

 捨てられなかった。


 もう二度と鳴らないと分かっていても。

 鳴らないことが、いちばんの証拠になってしまったとしても

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ