第1話 琥珀色
「はじめちゃん、まだやってるの? 休憩にしたら。麦茶、ここに置いとくわよ。氷、少なめにしといたから」
蔵の入り口から、圭子おばさんの声が響いた。
「……ああ、あと少しでキリがつくから」
佐藤はじめは、埃で煤けた顔を拭いもせず答えた。
「無理しなくていいのよ。倒れられても困るし……若い頃みたいにはいかないんだから」
冗談めかした口調だったが、言い切り方には妙な現実味があった。
1996年、夏。
三十五歳になったはじめを待っていたのは、輝かしいキャリアではなく、親戚の家の片付けという日銭仕事だった。かつて証券会社のシステム部で、億単位の金を動かすプログラムを管理していた男の成れの果てである。
「悪いわねえ、こんな暑い中。でも、おじいさんも亡くなって、この蔵も一度整理しなきゃと思ってたのよ。バブルの頃のガラクタばっかり出てくるでしょ?」
圭子は入り口の段ボールを覗き込み、懐かしそうに、けれどどこか呆れたように笑った。
「本当に。これ、一九九〇年の新聞ですよ。花瓶を包むのに使われてた」
「ああ、あの頃ね……。みんな頭がおかしかったのよ。うちの主人だって、ゴルフだ何だって浮ついてたけど、今じゃ健康診断の数字ひとつで機嫌が変わるんだから」
圭子が去った後、はじめは再び静寂に包まれた蔵の奥へと視線を戻した。
手元の新聞には『イラク軍、クウェート侵攻』の見出し。
一九九〇年。
二十九歳だった俺は、この新聞が刷られた夜も、地下のサーバー室にいた。
派遣部屋へ行けば、緒方一生に似たベテランの緒方さんが、老眼鏡の奥で「佐藤さん、また徹夜かい」と苦笑いしていた。その隣には、ベティ・ブープのような髪型の彼女がいた。
二十代前半の彼女にとって、三十を目前にして油の匂いをまとった俺は、ただの「疲れた上司世代」の一人でしかなかった。
『ありがとうございます。でも、その日は予定があって』
何度誘っても、彼女の笑顔は防弾ガラスのように硬く、完璧だった。
同期の飲み会では、一番の美人と言われた柏木さんが、二十代半ばの輝きの絶頂でシャンパンを浴びるように飲んでいた。
『三十代って、どんな感じなんですかね? 想像もつかない』
その言葉に、二十九歳の俺は、自分がすでに「終わり始めた世代」なのだと、無理やり自覚させられた。
「……これ、なんだ?」
回想を断ち切るように、はじめは声を漏らした。
整理していた棚の最下段。埃を被った重い木箱の裏に、場違いなほど綺麗な桐の箱が挟まっている。
蓋を開けると、親指ほどの大きさの遮光瓶が入っていた。
ラベルには、古めかしい筆文字で『若返り』とだけ記されている。
「はじめちゃん、何かあった?」
圭子が、空になった麦茶のコップを回収しに戻ってきた。
はじめは咄嗟に、その瓶を背中へ隠す。
「いえ、なんでもないです。ただの古い瓶で」
「そう? 変なもの飲んじゃダメよ」
圭子が蔵を出ていく足音を確認し、はじめは瓶を取り出した。
三十五歳。再就職先も見つからず、社会の歯車からも外れた俺。
そんな男が『若返り』などという言葉を信じるはずもなかった。
だが、遮光瓶の重みと、吸い込まれるような琥珀色の輝きだけは、他のガラクタとは明らかに違っていた。
「……何が入ってるんだ。香水か?」
振ると、瓶の中には三分の一ほどの液体が揺れる。
捨てる前に、中身だけ確かめよう。
そう思ってキャップに指をかけた。
だが、経年劣化で固着していたのか、思った以上に固い。
顔を近づけ、力を込めたその瞬間――
カチッ、と嫌な音がして、内圧が一気に解放された。
「うおっ!?」
琥珀色の液体が勢いよく噴き出す。
反射的に仰け反り、開いた口へと液体が滑り込んだ。
むせ返って吐き出そうとしたが、とろりとしたそれは、驚くほど滑らかに喉を通り、胃の底へ消えていった。
「ゲホッ、ゲホッ……! なんてこった……」
舌の根に、薬草のような苦味と、焼けるような熱が残る。
はじめは蔵の床に膝をつき、最悪の事態を覚悟した。
だが、何も起きなかった。
「……なんだよ。驚かせやがって」
窓ガラスに映る自分は、どこからどう見ても、人生に行き詰まった三十五歳の男のままだ。
「若返りどころか、寿命が縮んだだけか」
圭子おばさんが置いていったペットボトルの水を口に含み、ゆすぐ。
そして飲み込む気になれず、近くの汚れた皿――かつて老犬の餌皿だったもの――へと吐き出した。
蔵の奥には、使われなくなった古い毛布が畳まれたまま置かれている。
その脇で、白内障で目の白く濁った老犬が、影のように横たわっていた。
もう何年も、吠え声を聞いた記憶はない。
圭子おばさんが朝と夕方に水と柔らかくした餌を運び、あとは静かにしておくだけの存在だった。
その時だった。
蔵の隅で、死を待つように横たわっていた老犬が、わずかに身じろぎした。
耳が、動いた。
吠えもしない。立ち上がりもしない。
ただ、呼吸が――深くなった。
はじめは、息を止めてそれを見つめた。
気のせいだ、と言い切るには、蔵は静かすぎた。
床に置いた皿の水は、すでに乾きかけている。
それでも、老犬の胸は、もう一度だけ、確かに上下した。
はじめは何も言わなかった。
言葉にした瞬間、戻れなくなる気がしたからだ。
※本作は、執筆補助としてAIを活用していますが、内容・構成は作者の創作によるものです




