3.血の署名
王宮の地下、堅牢な結界に守られた「契約儀式の間」。
そこには、戦場の最前線にも似た、ひりつくような緊張感が漂っていた。
ノワールが差し出した真っ黒な羊皮紙は、周囲の光を吸い込むような不気味な質感を湛えている。アルバスは迷うことなく、自らの指先を短剣で突き刺した。滲み出した鮮血を、儀式用の万年筆がじわりと吸い上げる。
「……わが魔力を、触媒として…契約」
アルバスが低く唱えると、彼の体内から絞り出された魔力が青い燐光となって契約書に注ぎ込まれた。
血の署名は単なるサインではない。魔法的な「経路」の確立だ。もしアルビオン王国が契約に不履行を犯せば、この署名を起点として、羊皮紙に封じられた「契約の呪い」が王都全域へと伝播する。その呪いは、王都の魔法基盤を強制解体し、一帯を魔力空白地帯へと変える――国家としての死を意味する代償であった。
ペンが紙の上を滑るたび、銀色の魔法文字がチリチリと音を立てて浮かび上がる。
アルバスの視界が、魔力の急激な消費によって一瞬白んだ。だが、その手は微塵も震えていなかった。
バチン、と空間が弾けるような音が響いた。
契約書の中央に、国際保険ギルドの紋章である「天秤と盾」が浮き上がる。次の瞬間、儀式の間全体に重厚な鐘の音が鳴り渡った。
『――契約、承認』
虚空から響いた、感情の欠落した「契約の精霊」の声。それは、国家の運命が一つ、帳簿の上で確定した合図であった。
直後、部屋の隅に置かれた転移用の魔導門が、爆発的な輝きを放った。
「――国際保険ギルド、防衛魔法課。三名、着任した」
光の中から現れたのは、灰色のローブを纏い、巨大な魔導杖を携えた三人の男女だった。彼らは現れるなり、指揮官であるアルバスの前で足を止め、機械的な一礼を捧げた。その瞳に宿るのは英雄的な使命感ではなく、契約を遂行する職人の冷徹さだ。
「保険契約の提携、および監査官ノワールの指示に基づき、当時刻をもってアルビオン王国の指揮下に入る」
リーダー格の女性、ヴァイオレットが事務的な口調で告げる。
「……監理官。直ちに配置の承認を。一分一秒の遅滞が、ギルドの損失に直結する。われわれは『無駄な被害』やその補填のために派遣されたのではない」
傍らでその光景を見ていたアズールが、冷や汗を流しながら一歩前に出た。
「あ、私が案内を……」
「待て、アズール」
アルバスがそれを制した。
「配置の案内は、外で待機している警備隊に任せろ。お前はここに残れ。……まだ、片付けるべき書類と『話』が残っている」
アルバスの言葉に従い、アズールが通信機で外の警備兵を呼び寄せる。ヴァイオレットら結界師たちは、アルバスから渡された防衛予定情報を受け取ると、警備兵に伴われて早足で部屋を去っていった。
ノワールは漆黒の帽子を深く被り直し、冷ややかな一礼を残して、影に溶けるように消え去った。
重厚な石の扉が閉まる音が、儀式の間の中に重く響いた。
残されたのは、静寂と、焼けつくような魔力の残滓、そして一通の「国家の命運を綴った契約書」だけであった。
アルバスは椅子に深く身を沈め、自分の血で汚れたペンを見つめた。
この契約が成った瞬間、アルビオン王国は救われたのではない。
ただ、破滅を回避するための「戦いの場」を、未来の機密と引き換えに買ったに過ぎない。(…まぁ火竜に蹂躙されるよりはやりようはある)
「……さて」
アルバスは、まだ震えの止まらないアズールに視線を向けた。
「不満があるなら聞こう、アズール次官。……ただし、端的にだ」
アルバスの言葉は、まるで鋭いメスのように部屋の空気を切り裂いた。
アズールは喉まで出かかっていた怒号を飲み込み、握りしめた拳を震わせながら絞り出した。
「……禁書庫の閲覧権です。三名もの他国人に、二年間も。あれはわが国の機密、魔法技術の根幹だ。もし国家機密や技術を盗み出されれば、わが国の優位性は失われる。……これでは、竜に焼かれるのと何が違うんですか! 国を売ったのと同じじゃないですか!」
アルバスは椅子に深く身を沈めたまま、血の付いた万年筆を机に置いた。その視線はアズールを貫きながらも、どこか遠い場所を見ているようだった。
「違うな、アズール。竜に焼かれれば、知識も、土地も、人も、すべてが灰になる。だがギルドに売れば、知識の一部は失うが、土地と人は残る。……資産価値の最大化だ。それ以外に考えるべきことがあるか?」
「……あなたは、怖くないんですか」
アズールが一歩、詰め寄る。
「今、議場ではあなたを断罪しようと議員たちが息巻いている。竜を追い払ったところで、あなたを待っているのは『売国奴』としての処刑台かもしれないんですよ!」
アルバスは、ふっと自嘲気味に口角を上げた。その笑みは、アズールが今まで見たどの表情よりも、ひどく疲弊し、それでいて凍りつくほどに冷たかった。
「アズール。……かつて、私は一度だけ『判断』を誤った。魔法災害保険の契約更新時、私は国庫の維持を優先し、辺境領を契約範囲から切り捨てた。その一ヶ月後、その領地は『予期せぬ』魔獣災害に遭い、救助の結界も届かぬまま、数万人が帰らぬ人となった」
アズールが、言葉を失って息を呑む。それは王国の公式記録には魔獣災害が発生して数万人に被害があったとことしか残っていない、アルバス・アンガースタインにとっての消えない傷跡だった。
「あの時、死んだ人々は私を『売国奴』とも呼んでくれなかった。ただ、無言で灰になっただけだ」
アルバスはハンカチをポケットに仕舞い、ゆっくりと立ち上がった。その所作には一点の乱れもなく、いつもの隙のない監理官のそれに戻っていた。
「非難の声が聞こえる場所まで生き残れるなら、それは、私の仕事が成功した証拠だ」
アルバスは机の上の書類をまとめると、出口へと歩き出す。
「行くぞ。議会で不信任案を突きつけてくるであろう連中を、現実という名の槍で刺しに行く。……竜が国境を焼く前に、議会の承認も奪い取らねばならん」
窓の外、遠く北の空が、不気味なほど鮮やかな朱色に染まり始めていた。夕焼けではない。隣国を呑み込み、次なる獲物――このアルビオン王国を狙う火竜たちの吐息だ。
「……二日後、空が燃え尽きる前に、私は今度こそ『盾』の使い方を議会に教え込む。それが今、この国に、残された唯一の生存戦略だ」




