1.その「安心」は、金貨幾枚の価値があるか
建国二三〇年アルビオン王国の王宮、その円卓議場には、重苦しい沈黙ではなく、苛立ちを含んだ怒号が響いていた。
「アルバス契約監理官! 説明したまえ。この『対・広域魔導災害保険』の更新費用、金貨五千枚に魔石五十個……この巨額の予算が、なぜ毎年必要なのだ!」
机を叩いたのは、保険予算の削減を掲げる保守派の貴族だった。それに同調するように、周囲の議員たちからも賛同の声が上がる。
議場の中心、山のように積まれた書類の背後で、アルバス・アンガースタインは冷徹な眼差しを崩さずにいた。彼は手元の万年筆を置くと、積まれた書類から一つの資料を(バジル卿の領地の昨年の決算書)持ち上げ、静かに口を開いた。
「バジル卿。昨年、貴領で発生した『小規模な』落雷による森林火災。その際、保険ギルドから速やかに支払われた三千枚の金貨がなければ、穀倉地帯の復旧費用の捻出が遅れ、種まきに間に合わず、収穫が見込めなかった。それこそ貴卿の領地の予算計画だと今も灰のままだった可能性もあるのでは?」
「それは……それとこれとは話が別だ!自領の『災害保険』の話ではなく、今回は『広域魔道災害』、つまりドラゴンや天変地異の類だろう。そんなもの、ここ数十年起きておらん。実体のないリスクに、貴重な国費を投じるのは国富の流出だ。隣国の魔導公国オステアを見たまえ。彼らは自力の魔導師団で防衛を完結させ、保険などという『無駄金』は一切払っていないぞ」
その言葉に、玉座に座る国王アルフレッド三世も、心なしか頷いた。王にとって、目に見えない「契約」よりも、目に見える「兵力」に金をかけたいのが本音だった。
「アルバスよ。余も、バジル卿の意見には一理あると思う。更新が必要な保険契約がこれだけというわけでもない。わが国の魔石貯蔵量も限りがある。この予算案、少し見直せぬか?」
若き次官アズールが、隣で「やはりそうなりますよね……」と泣きそうな顔でアルバスを見る。
アルバスは眼鏡のブリッジを押し上げ、冷ややかに告げた。
「陛下。オステア公国の国家予算は我が国の半額ほどですが、魔道師団の維持費用は我が国の騎士団の維持費用とほぼ同程度の費用がかかっております。そもそも保険とは『何も起きなかったこと』に金を払うのではなく、『何かが起きた時に被害の回避または復旧支援費用の保障をうける』ための――」
その時だった。
議場の重厚な扉が、警備兵の制止を振り切って乱暴に開かれた。
「――緊急速報! 緊急速報です!」
駆け込んできたのは、通信局の青年だった。顔は土気色に染まり、握りしめた魔法伝令の羊皮紙は震えている。
「何事だ、審議の最中であるぞ!」
バジル卿の叱責を無視し、通信士は絶叫した。
「北のオステア公国が、たった今、火竜に強襲されました!オステア公国防衛魔法陣は崩壊!王城もブレスの余波に巻き込まれ崩落、王都の三分の二が焼失し、現在も延焼中。」
議場が凍り付く。
「……何だと? オステアには竜種にも対応できる魔導師団があったはずだ」
「火竜三体の同時ブレスにより全滅です!暫定の被害推計額は……金貨二百万枚を超えるもようです!そもそも王族の生存も確認出来ておりません!」
二百万。その数字に、議員たちの顔から血の気が引いた。二百万枚といえば、アルビオン王国の約2年分の国家予算に匹敵する。
「さらに……」通信士は声を絞り出した。「火竜の群れはオステアで獲物を食い尽くし、南下を開始。予想進路は――我が国国境! 早ければ二日後には王都上空にも到達する見込みです!」
…沈黙。そして、直後爆発したようなパニックが議場を包んだ。
「騎士団を出せ!」「そうだ、騎士団には竜の鱗も貫ける魔法剣が納品されているはずだ!」
「防衛陣を最大出力で張れ!」「いやまて、我が国の防衛陣はオステアよりも出力が低かったはずだ!」
「逃げる準備をしろ!」「どこに逃げるというのだ!国を捨てる気か!国民はどうなる!」
阿鼻叫喚の渦の中、アルバスだけが、ただ一人、手元の計算盤を弾いていた。パチパチという乾いた音だけが、彼の周囲に奇妙な静寂を作っている。
「……アズール次官、計算しろ」
「え、えっ!?」
「王都が半壊したとしておよそ二百万金貨の損害。さらに竜の炎による地脈の汚染。浄化費用を含めれば、わが国の生産性は今後十年にわたって五十%は低下する。これを『自力』で防いだ場合、騎士団の損失を含めた期待損失額は、現在庫の国庫の金貨、全魔石を全て投じても賄いきれないだろう。」
アルバスは立ち上がり、椅子を引く。その音は、パニックに陥った議員たちの耳に鋭く届いた。
「陛下、および議員諸君。騎士団の新しい魔道剣で、火竜に攻撃が届きブレスも跳ね返せると思うなら、今すぐ出陣の準備を。……ですが、この国を灰にしたくないと願うなら、私に幾ばくか時間を頂きたい」
アルバスは、バジル卿が「無駄金」と切り捨てた予算案の書類を、高く掲げた。
「幸い、竜の到達まで二日の猶予がある。今から国際保険ギルドと契約済みの『対・広域魔導災害保険』にある『緊急災害救済特約』の交渉に入ります。駆け込みの契約ゆえ、保険料は当初の五倍……いえ、十倍近くは請求されるでしょう。ですが、国が滅びるよりは安い」
単純に考えても発生がほぼ確実な現状から新しく保険に入ることなどまずできない。であれば、既存契約に対応可能なオプションを有効化する交渉をした方が勝率は高い。たとえ一時的に多額の支払いが発生したとしても、被害が抑えられるなら。(あのガメツイ交渉人はきっとこっちが出せるギリギリを詰めてくるはずだ。。。)
王は震える声で尋ねた。
「……アルバスよ。その『契約』で、本当にオステア公国を崩壊させるような火竜から国が護れるのか?」
アルバスは不敵に、だがどこか悲しげに口角を上げた。
「私が扱うのは、常に『この国を護るための契約』です。……アズール、行くぞ。地獄の交渉人を呼び出せ。わが国の命運を懸けた、帳簿の上の戦争を始める」
アルバスは翻した外套をなびかせ、混乱する議場を後にした。
二日後、王都の空が赤く染まる時。そこに展開されるのが魔法の壁か、それとも絶望の灰か。
すべては、この男のペン先と交渉力に委ねられた。




