試練の証明7
村長ヴァンの案内で、リュアたちは宿へとたどり着いた。
小ぢんまりとした木造の宿屋の前で、ヴァンは深く頭を下げる。
「本日はありがとうございました。どうか、ゆっくり休まれてください」
丁寧なその言葉とともに、彼はその場を辞した。 残されたのは、リュア、グレン、カイルの三人。
夜風が、わずかに冷たさを帯びて頬を撫でる。
村のざわめきは遠く、空気にはまだ、先ほどまでの緊張がかすかに残っていた。
リュアが、ふと夜空を仰ぎ見ながら口を開いた。
「……魔物のこと、やっぱり気になる。念のため、今夜は交代で見張ってた方がいいかもね」
視線をカイルへ向ける。
「カイルはグレンの記録もあるし、ふたりで行動した方がいいかな」
カイルは静かに頷いた。
「そうしましょう。村が寝静まってるときに魔物が来たら、被害は少なくないはずですから」
リュアも軽く頷き返す。
「私が先に見張る。時間になったら、ふたりを呼びに行くね」
「了解です」
カイルは簡潔にそう答えると、リュアとグレンに一言だけ残して宿の扉へと向かった。
「……お二人とも、お疲れさまでした」
扉が静かに閉まる音が、夜の静寂に溶け込む。
残されたふたりの間に、しばしの沈黙が訪れる。
グレンはその場に立ったまま、何か思案しているような面持ちだった。
リュアはそんな彼をそっと横目で見つめ、やがて言葉を選びながら声をかける。
「……グレン」
呼ばれた名に、グレンはゆっくりと顔を向ける。
けれど、何も言わず――ただ、話を待つような静かな瞳。
リュアは、ほんの少し笑みを浮かべた。
「困ったこととか、疑問とか、もしあったら遠慮しないで話してね。少しずつでいいからさ」
軽く片手を上げて、肩の力を抜いたような仕草で続ける。
「まずは、私で“試す”感じでいいから」
柔らかく、けれどどこか本気のこもった声だった。
集会舎に向かうとき、グレンが一度だけ村のはずれに視線を向けていたとき
――あの一瞬、彼は何かを伝えるか悩んだように見えた。
けれど、結局何も言わずに歩き出した。それが、彼女の中にひっかかっていた。
だから今は、言葉にしてほしいと思った。
胸の内にしまわずに、少しでもいいから――と。
グレンはしばらく黙っていた。
目を伏せたまま、何かを考えるように、静かに呼吸を整えている。
その姿は、ただ言葉を選んでいるようにも見えたが――
何か迷っているようにも見えて、リュアはそっとその様子を見守った。
彼の中で、いくつもの思考と感情が、静かに交錯していた。
“誰かに頼る”という在り方は、これまで彼の世界には存在しなかった。
他人に何かを委ねるという発想そのものが、最初から欠落していた。
それは、誰かに近づけば傷つくと、本能のように感じ取っていたからだ。
頼る前に、拒まれる。
求める前に、断たれる。
だから彼は、常に自分一人で判断し、動き、そして黙って傷を背負ってきた。
けれど。
リュアは違った。
強さを持ちながら、それを誇示することなく、まっすぐに手を差し伸べてきた。
その眼差しに、恐れも疑いもなかった。
魔王と伝えられてきた存在を前にして、ただ真正面から接してくる人間がいるとは――思っていなかった。
それが、グレンにとっては、あまりに異質で。
……だからこそ、知りたくなった。
やがて、その唇が、わずかに開かれた。
「……お前には、不得意なこととか……あるのか?」
不意に落とされたその問いに、リュアは「えっ?」と驚いたように声を漏らす。
しばらく目を瞬かせたあと、考えるように視線を空へと向けた。
「うーん……」
そして、少し照れたように頬をかきながら笑う。
「村の人たちにあんなふうに言ったけどさ……実は、私も“誰かに頼る”のって、ちょっと苦手かもしれない」
グレンが、わずかに目を細めた。
リュアは続ける。
「どうしても、“自分でやらなきゃ”って思っちゃうんだよね。小さい頃からそうだったし……なんていうか、そういうの、癖になってるっていうか」
照れ隠しのように笑いながらも、どこか誠実な声色だった。
その言葉に、グレンは少しだけ意外そうな表情を浮かべ――そして、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「……そうか」
その短い返事に込められたのは、納得とも、理解とも、あるいは少しの共感とも取れる、静かな温度だった。
同時に――グレンの胸の奥に、ひとつの感情が芽吹いていた。
しばしの静寂がふたりの間に流れたあと、リュアがふっと微笑み、手を腰にあてて言う。
「そしたらさ、明日に備えてしっかり休もうか。今日は、いろいろあったしね」
グレンも無言で頷く。
そしてふたりは、ゆっくりと宿の扉をくぐっていく。
木の扉が閉じられ、夜の静寂が再びその場を包み込んだ。
空には、雲間から星がひとつだけ、淡く瞬いていた。
***
夜が更け、宿の中は静けさに包まれていた。
物音ひとつない室内。外からわずかに風の気配が聞こえるだけで、まるで世界が眠っているようだった。
グレンは、与えられた寝台で横にはならず、部屋の片隅――壁に背を預けるように、床へ腰を下ろしていた。
木造の床板はわずかに冷たく、硬い。だがそれでも、彼にとってはそのほうが“落ち着く”感覚だった。
布団のかかった柔らかな寝台は、どうしても、「自分の場所」だと思えなかった。 昔の記憶が、ふと脳裏をかすめる。
あてもなく旅をしていた日々。野営地で眠るとき、背中はいつも石や土に預けていた。
眠るときでさえ、背中を守るのが当たり前だった。
安全など、保証されていなかった。
目を閉じると、ここ数日の出来事が自然と思い出されていく。
封印の奥から目覚めた自分に、最初に言葉をくれた彼女――リュア。
恐れも拒絶もなく、ただ真正面から、「人間」として接してきた存在。
ギルドで言われたあの言葉――
『大丈夫、グレン。何があっても私がなんとかするよ』
そのとき、胸の奥が不思議と静まったのを覚えている。
馬車の中での言葉も思い出す。
『これから一緒に冒険していく中で、今までできなかったこと、たくさんやっていこ?』
――その言葉に、不意に視界がひらけたような感覚を覚えた。
人と歩む未来など思い描いたこともなかった自分にも、
“これから”を望むことは許されるのかもしれない――そう思えた気がして。
そして、つい先ほどの会話。
『困ったこととか、疑問とか、もしあったら遠慮しないで話してね。少しずつでいいからさ』
……あのとき、自分もまた問いかけていた。
『お前には……不得意なこととかあるのか?』
理由は、自分でもはっきりとは分からなかった。
ただ――あまりに異質に思えたその在り方が、妙に引っかかっていた。
すべてを受け入れ、平然と向き合ってくるその強さに、現実味が感じられなかった。
……本当に、そんなふうに在れるのか?
自分と同じように、弱さや迷いを抱えているのではないか?
それを確かめることで――自分にも、少しは“分かる”何かが掴める気がして。
返ってきたのは、少し照れたような微笑みだった。
『私も、誰かに頼るのって、ちょっと苦手かもしれない』
その言葉に、グレンはふと息を止めた。
問いに、彼女はあっけないほど正直に、言葉を返してきた。
意外ではあったが、それでも、どこかで納得していた。
頼ることに不器用でも、それでも“自分の足で立ち続けようとする意志”が、彼女にはある。
グレンは、その一端を――自分に向けられた言葉や態度の中に、確かに感じ取っていた。
もしかしたら、それこそが、彼女の“強さ”なのかもしれない。
飾らず、自然体で、力を誇示することもなく。
ただ、自分を“人間”として見てくれた彼女の姿が、いくつもの言葉と共に、胸の奥に残っている。
だからこそ――リュアの言葉は、自分の心に届いたのだろう。
彼女の姿勢が、わずかにだが、理解できた気がした。
それは確かに、自分の中に静かに残っていく感覚だった。
(……少しは、変われるだろうか)
心の奥で、静かに呟く。
かつての自分には、誰かの言葉が届く関係すらなかった。
ただ、黙って耐え、孤独に生き抜いてきただけだった。
今もなお、人と関わることには、どこか怖さがある。
だけど――リュアについていくと決めたのは、自分自身。
拒むこともできた。でも、拒まなかった。
ならば、自分のやり方で進むしかない。
これまでと同じように―― 知識を使い、考え、試し、必要なら修正する。
ただ、今度は“生き延びるため”じゃない。
“誰かと生きるため”に。
そう思ったとき、グレンの赤い瞳が、ふとわずかに細められた。
窓の外を、風がわずかにすり抜けていく。
その気配はどこか穏やかで、彼の胸に芽生えた決意を、そっと包み込んでいた。
彼は壁に預けていた背をわずかに起こし、ひとつ、深く息を吐く。
目は閉じない。明日を見据えるように、ただ前を見ていた。
思考は澄んでいき、心もまた、静寂の中に溶けていく。
そうして――夜は、少しずつ深まっていった。