調律される日常2
出発してから三日目。
この日は、訓練を行わないことに決めていた。
夜営の見張りが二日続くのを避けるためだ。
グレンは「三日ほど眠らなくても問題はない」と淡々と言っていたが、リュアはそれを聞いて即座に首を振った。
不測の事態は、いつ起こるか分からない。 体力も集中力も、余裕があるに越したことはない。
分担できるところは分担する――それが、リュアの判断だった。
街道を外れ、野営地を探しながら歩いていたときのことだ。 リュアは、ふと足を止め――
「……あれ、何だろ」
そう呟くより早く、進行方向から少し外れた道の脇へと歩み寄っていた。 低い草の間に、細い枝が幾本も絡み合うように立っている。
近づいた瞬間、風が吹き抜け――
かさ。
から。
しゃら。
乾いた音と、やわらかな音が、わずかにずれながら重なった。
リュアは思わず目を輝かせる。
「風が通るたび、音が変わるんだ……」
しゃがみ込み、枝の揺れ方を確かめるように眺めるその横顔は、まるで初めて見るものに出会った子どものようだった。
少し遅れて足を止めたグレンは、しばらく黙ってそれを観察し、やがて短く答える。
「……魔力はない。ただ、構造の問題だな」
枝の太さ。
間隔。
しなり方。
風を受ける角度によって、鳴る音が変わる。
それだけの話だ。
「でも、ちょっと楽しいよね」
振り返ってそう言うリュアに、 グレンは否定しなかった。
「……そうだな」
短いやり取りだった。
だが、かつては、こういう小さな発見も、ただ一人で眺めて、胸の内にしまうだけだった。
けれど今は、立ち止まった先に、同じものを見てくれる誰かがいる。
そのことが、リュアには少し――嬉しかった。
その夜。 焚き火のそばで、リュアは一冊の本を開いていた。
《自然魔法応用論》
レーンハルで、グレンが買っていた本を借りたものだ。
だが、ページをめくるたびに、リュアの眉が寄っていく。
「……何、これ……」
思わず、声が漏れた。
理論は複雑で、前提となる知識も多い。 研究者であっても理解に時間を要するだろう内容だ。
リュアは決して頭が悪いわけではない。
冒険者として必要な知識は、どれも難なく身につけてきたし、もし学園に通うような環境にあれば、間違いなく上位――
あるいは首席を狙えるだけの頭脳も持っている。
それでも――これは、難しい。
ふぅ、と小さく息を吐き、ページを閉じる。
視線を上げると、焚き火の向こうで眠るグレンの姿があった。
一日でサブ属性を習得してみせたこと。
この本の内容を、ほとんど迷いなく理解していたこと。
恐ろしいほどに、頭が切れる。
(……この能力が)
胸の奥で、思考が静かに続く。
(たった五歳で村から迫害されて、世界中から命を狙われる――そんな過酷な状況を、生き抜くことができた理由なんだろうな)
理解できてしまうからこそ、耐えられた。
考え続けられたからこそ、折れずにいられた。
そう思うと、尊敬と同時に、別の感情が胸をよぎる。
――自分が、足を引っ張ることはないだろうか。
前を行く存在。 誇らしくて、嬉しくて。
それでも、少しだけ悔しい。
そんな感情を、リュアは小さく振り払うように、もう一度本を開いた。
――追いつけない、なんて思わない。
追いかけると決めたなら、足は止めない。
焚き火の音だけが、静かな夜に響いていた。
***
出発してから、四日目の朝。
街道を進むリュアは、いつもより少しだけ歩調が遅かった。
視線は前を向いているが、どこか遠くを見ているようで、眉間にはうっすらと皺が寄っている。
その隣を歩くグレンは、何度か横目で彼女の様子を窺っていた。 普段と違うことには、気づいている。
だが、どう声をかけるべきかが分からず、しばらくは沈黙を選んだまま歩いていた。
それでも――
このまま黙っているのは、落ち着かなかった。
「……リュア」
呼ばれて、リュアははっとしたように顔を上げる。
「えっ?」
「……険しい顔をしているように見えるのだが」
率直な言葉だった。
責めるでもなく、探るでもない。ただの確認。
リュアは一瞬きょとんとしたあと、慌てて手を顔の前で振った。
「あ、ちがうちがう! ごめんね……! 何かあったってわけじゃないんだ」
少し照れたように笑い
「ただ……《自然魔法応用論》の内容が難しすぎてさ。そのこと、ずっと考えてただけ」
と言って、ははは……と苦笑いを浮かべた。
その答えを聞いて、グレンは足を止めることなく、視線を伏せた。
リュアは、その表情に目を留める。
――久しぶりに見る、グレンが真剣に何かを考えているときの顔だった。
彼が口を開くまで、リュアは何も言わずに待った。
しばらくして、グレンが小さく息を吐く。
「……教え……ようか?」
落ち着いた声だった。
だが、どこか慎重で、相手の反応を窺うような間があった。
「え?」
思わず、気の抜けた声が出る。
リュアは目を瞬かせ、グレンの方を見た。
「確かに、小難しい本ではある」
グレンは歩調を保ったまま、淡々と続ける。
「だが――あの精度で風の術式を扱えるお前なら、俺が整理した考え方をなぞるだけで、十分理解できるだろう」
評価は冷静で、過不足がない。 無理だとも、背伸びだとも言わない。
ただ、できると判断している――それだけだ。
リュアは数秒、言葉を失ったままグレンを見つめ、やがてぱちぱちと瞬きをしてから、ふっと表情を緩めた。
「……そっか」
そして、少しだけ嬉しそうに笑う。
「じゃあ、お願いしようかな」
その答えに、グレンは短く頷いた。
***
その日も、ある程度の距離を進んだところで足を止め、訓練に入る。
水属性。 昨日と同じ理論。
だが、昨夜から今朝にかけて、頭の中で何度も整理し直した感覚がある。
魔力を巡らせ、基調を弱める。
揺らぎを捉え、その隙間へ、波長を通す。
「……っ」
惜しいところまでは、いった。
だが、最後の固定がわずかに甘かった。
一気に、冷えが体を包む。 指先が強張り、足元がふらつく。
「うぅ……寒い……」
リュアはその場に座り込み、肩をすくめる。
「惜しかったな……」
すぐそばで、グレンが静かに告げた。
否定ではなく、事実の確認。
それだけの言葉だったが、リュアはそれを受け取って、歯を食いしばる。
「……次こそは、成功させる……!」
震える声だったが、視線は前を向いている。
グレンは何も言わず、ただその様子を見守った。 その姿勢が、今のリュアには何より心強かった。
***
五日目の夜。
焚き火を囲み、二人は並んで腰を下ろしていた。
昼の移動を終え、辺りには夜の静けさが満ちている。
リュアは膝の上に一冊の本を開いていた。
ページの端を指で押さえながら、視線を行き来させる。
その横で、グレンは同じページを覗き込み、ときおり言葉を添えていた。
「……ここは、前提の考え方が飛んでいる。先に、この部分をこう捉えた方がいい」
淡々とした口調だが、説明は驚くほど整理されている。
難解な数式や抽象的な概念も、順を追って噛み砕かれ、自然と頭に入ってくる。
リュアはページを追いながら、思わず声を漏らした。
「すごく……わかりやすい……」
感心したようにそう言うと、グレンはわずかに眉を動かした。
「俺が、理解したときの流れをそのまま伝えているだけだが……」
少しだけ困惑したような声音だった。
リュアは本から顔を上げ、グレンの方を見る。
「ミリアたちを訓練したときもそうだったけどさ。グレンって、人に教えるの、すごく上手だよ」
穏やかな笑みを向けて、そう伝える。
「……そう……なのか?」
グレンはどこか半信半疑のまま、問い返した。
リュアは深く頷く。
「うん。少なくとも、私はすごく助かってる」
その返事に、グレンはそれ以上何も言わず、焚き火へと視線を戻した。
リュアも再び本へ目を落とす。 ページをめくりながら、ふと首を傾げた。
「……でもさ」
指先で行をなぞりながら、ぽつりと呟く。
「これだけ筋が通ってる理論なのに、どうしてあんまり広まってないんだろう?」
問いかけるようなその言葉に、グレンは少し考える間を置いてから答えた。
「俺も……これほどの理論を組み立てた人物が無名に近く、その内容が広まっていないというのは、意外だった」
それを聞いて、リュアは「ね」と小さく相槌を打つ。 そして、視線を焚き火の向こう、暗闇の奥へと向けた。
「……会ってみたいなぁ」
独り言のような呟きだった。
「会う……?」
グレンが、わずかに首を傾ける。
リュアは彼の方を向き、楽しそうに言った。
「うん。実際に会って、どうやってこの理論を作ったのか聞いてみたい」
その言葉に、グレンは少し目を伏せる。
「人に……会いたいと思っていいのか……」
低く、確かめるような呟き。
リュアはその声に、はっとしたように息を吸い、すぐに力を抜いた柔らかな笑みを浮かべた。
「グレン」
穏やかに名を呼ぶ。
「キミのことを、理不尽に恐れる人は、もういないんだ」
焚き火の揺らぎが、二人の間を照らす。
「だからさ。誰かと会ってみたいとか、話してみたいって思うのも、自由なんだよ」
グレンはゆっくりと顔を上げ、リュアの方を見た。
リュアはいたずらっぽく、にっと笑う。
「グレンも、この理論がどうやって作られたのか、聞いてみたくない?」
問いかけられ、グレンは小さく頷いた。
「……興味はある」
表情はいつも通り大きくは変わらない。
だが、その目には、確かに好奇心の色が宿っていた。
「だよね!」
リュアは嬉しそうに声を弾ませる。
焚き火の音が、ぱちりと小さく弾ける。
夜は、まだ静かに続いていた。




