閑話②『誰かの前に立つということ』
黒革の応接セットでの書類仕事がひと通り片付いたころ、私はふっと息をついて、背もたれに身を預けた。
テーブルの上に積まれていた書類もようやく片付き、次の予定を頭の中で並べ替え始めた――そのときだった。
向かいの席にいたディアスが、こちらをじっと見つめていることに気づく。
「……なあ、リュア」
「ん?」
返事をしながらも、意識は半分、次の任務の段取りに向いていた。 それを見抜いていたのだろう。ディアスはわずかに息を整えてから、静かに言った。
「弟子を――取ってみる気は、ないか」
――え?
思考が止まり、自然と視線が跳ね上がる。ペンを持ったままの手が空中でぴたりと固まった。
「……は?」
一瞬、言われた意味が理解できず、間の抜けた声が漏れる。 次の瞬間には、小さく息を吐いて答えた。
「……冗談でしょ」
私が、弟子。 誰かに“教える立場”になる――なんて。
頭の中に浮かんだのは、ひとりで戦ってきた記憶ばかりだった。
依頼も、訓練も、判断も、すべて一人。 気がつけば、誰かと並んで戦うより、単独で動く方が当たり前になっていた。
私に、教えられることなんてあるのだろうか。
誰かの隣に立って、同じ目線で戦い続ける――
そんな経験、思い返してもほとんどない。
私が言葉を探しているあいだに、ディアスは静かにこちらを見て、口を開いた。
「それでも、お前はパーティを組んだこともある。連携が取れないわけじゃない」
「なにより……冒険者としての経験は、圧倒的だ」
淡々とした口調だったが、言葉のひとつひとつが、真正面から突きつけられる。
「現場を知っている。失敗も、後悔も、選択の重さも……お前は全部、体で覚えてきた」
「その積み重ねはな、技術以上の価値がある」
思わず視線を伏せた。
私は、ただ自分にできることをしてきただけだ。 誰かを守るために剣を振って、魔法を使って――
それ以上でも、それ以下でもない。
だからこそ、「教える側」なんて言葉は、ひどく遠くに感じた。
「それに……」
ディアスの声が、低くなる。
「お前に頼もうとしている若手の冒険者たちは、本部から資格剥奪を検討されている」
はっとして、顔を上げた。
「……え?」
「このままなら、近いうちにそうなる。公式には“適性不足”という判断だ。お前が引き受けなければ……わかるよな」
言葉の先は、言われなくても分かった。
――冒険者でいられなくなる。
夢も、願いも、その場所ごと閉ざされる。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
顔も知らない相手なのに。 名前も、経歴も、知らないのに。
なのに、放っておけないと、心が勝手に騒ぎ出す。
視界の隅で、ディアスがこちらをじっと見ていた。
……ああもう。
私がどういう人間か、ほんとに計算済みって顔してる。
こんな言い方をされたら―― 断れるわけがないじゃないか。
私は小さく息を吸って、唇を噛む。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「……いきなり弟子は、無理だよ」
ディアスの眉が、わずかに動く。
「でも……」
私は一度だけ視線を落としてから、もう一度、彼を見た。
「会うだけなら、いい……」
それで何かを引き受けると決めたわけじゃない。 約束できるのは――それだけだ。
それでも。
ここで目を逸らすのは、どうしても――できなかった。
ディアスは、ほんの一瞬だけ目を伏せてから、静かに頷いた。
「……それでいい」
その言葉に、胸の奥が少しだけ、ざわりと揺れた。
――たぶん、この選択は、簡単じゃない。 でも。もしかしたら。
この一歩が、誰かの「終わり」じゃなくて、 誰かの「始まり」になるかもしれないのなら。
……会うだけなら。
それくらいなら、きっと――。
数日後。
ディアスに連れられて、私はギルド本部の地下へと降りて訓練場へ向かっていた。
扉が軋む音を立てて開かれ、ひんやりとした空気が肌に触れる。
訓練場の中央には、三人の若い冒険者が並んで立っていた。 男女三人。年の差はそれほどなさそうだが、纏う雰囲気はそれぞれ違う。
悔しさを押し殺したように唇を噛んでいる少女。
視線を伏せ、肩を落としている少年。 今にも泣き出しそうに俯いたままの少女。
共通しているのは――空気の重さだった。
ディアスが、私の隣に立って言う。
「右から――レイ・オルトラム。ミリア・クラウス。サーシャ・フィールズだ。三人とも、別々に活動してきて、今日が初対面になる」
紹介を受けても、三人はほとんど反応を見せなかった。
普通なら、Sランク冒険者が目の前に現れれば、多少なりとも驚くはずだ。
けれど、彼らは顔を上げることすらしない。
まるで――期待する力さえ残っていないかのように。
私は、何も言わずに一歩前に出て、三人を順に見渡した。
訓練も、依頼も、実戦も。
きっと、うまくいった記憶なんてほとんどないのだろう。
自信がない。 自分を信じられない。
そんな空気が、ひしひしと伝わってくる。
だからこそ、私ははっきりと言った。
「誰かを守りたくても、救いたくても―― 実力が伴わなければ、それはただの幻想だよ」
静かな声だったと思う。
けれどその言葉に、三人はわずかに反応した。
顔が上がる。暗い表情のまま。
でも、その目は――死んでいなかった。
最初に声を絞り出したのは、中央にいた少女だった。
「……大切な人を、守れないなんて……もう、嫌だ……」
唇を強く噛みしめながら、震える声で言う。
次に、左端に立っていた少年が、目を伏せたまま低く呟いた。
「……目の前で、誰かが危険な目に遭ってるのに……放っておけるような人間には、なりたくない……」
そして、最後に残った少女。
泣くのを必死に堪えながら、震える両手を握りしめて――
「……怖い、けど……でも……」
言葉はそこで途切れた。 それでも彼女は、目を逸らさなかった。
ディアスが、私の方を静かに見つめる。 ――返事を、待っている。
(……目だけは……死んでいない)
そう心の中で呟きながら、いったん目を閉じた。
脳裏に浮かんだのは――自分の子ども時代。
五歳のころ、光属性が発現した日のこと。 両親はすぐに、訓練を始めた。
最初は楽しかった。 できることが増えていくのが嬉しくてたまらなかった。
けれど――実戦は、怖かった。
足がすくみ、声も出なくなって。 頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。
それでも、両親は急かさなかった。
手を貸しすぎることはなく、けれど突き放すこともなく。 一つずつ、段階を踏んで、丁寧に教えてくれた。
そのおかげで、できなかったことが、少しずつ――できるようになっていった。
だから、思う。
(……この子たちも……きっと、ほんのきっかけが足りないだけなんだ)
私に、誰かを「教える」資格なんてあるのかは……正直、自信はない。 ただ、自分がやってきたことを、そのまま伝えればいいなんて、簡単に思えるほど器用でもない。
……でも。
最初から、確信なんて持てる人はいないのかもしれない。
それに―― この三人と関わることで、私自身も、 今までとは違う何かが見えてくるかもしれない。
私は、目を開く。
三人を、まっすぐに見つめた。
「――じゃあ」
声に、迷いはなかった。
「その気持ちをずっと持ち続けて、正しい力の使い方を、忘れないって……約束できるなら」
一拍、置いて。
「――私が、鍛えてあげる」
訓練場の空気が、わずかに揺れた。
三人の表情が、驚きに変わる。
そして、戸惑いの奥に――
ほんの小さな、光が宿る。
私は、その変化を見て、ふと口元を緩めていた。
今度は、はっきりと微笑んで。
それを見て、隣のディアスも、静かに笑っていた。
三人の訓練が始まって、まだそれほど日が経っていない頃だった。
最初に目に見える変化が現れたのは、――ミリアだった。
荒野の一角。訓練用として設置された木製人形を相手に、彼女は相変わらず勢いよく剣を振り込んでいた。
「たあああっ!」
振り下ろされた剣は、正確に人形の急所を捉える。
――悪くない。むしろ、素直に言えば上出来だ。
けれど、その直後。
背後の人形が、間合いに入る。 ミリアは気づくのが遅れた。
反射的に振り返ろうとして、体勢を崩し――転げる。
「……っ!」
受け身も取りきれず、地面に膝と手をついた彼女は、悔しそうに歯を食いしばった。
私はすぐに歩み寄って、手を差し伸べる。
ミリアは一瞬ためらってから、けれど素直に、その手を取った。
「ミリア。勢いはいいけど……突っ込み過ぎだよ」
「うぅ……でも、攻めないと勝てないし!」
顔を上げた彼女の目は、どこか必死だった。
その奥に――ほんの、僅かな怯え。
それを、私は見逃さなかった。
いまの彼女は、「攻めなければいけない」と思い込んでいる。 そうしないと、また――失う気がしている。
私は、握っていた手を離さずに、静かに言った。
「無理して突っ込んでも、誰かが困るだけだよ」
ミリアが、きょとんとした顔で私を見る。
「ちゃんと引く勇気も、“守る力”」
彼女は、すぐには何も言わなかった。 でも――その視線は、確かに揺れていた。
その揺れを見て、私は思う。
怖いんだ。
だからこそ、前に出る。
――その気持ちは、痛いほど、分かる。
次に目についたのは、レイだった。
射撃場で、一人黙々と的に向かっている。
矢は、決して的外れではない。 けれど――わずかに、狂う。
「……また、外した……!」
小さく舌打ちする彼の背中は、硬かった。
私は、後ろから静かに声をかける。
「レイ。……感情に振り回されてる」
びくりと肩が揺れて、彼は振り返った。
「……わかってる、つもりなんだけど……」
消え入りそうな声だった。
私は、的の中心と、刺さった矢を順に見る。
それから、落ち着いた声で伝える。
「ミスは……ちゃんと減ってきてる」
一拍、置いて。
「焦らなくていい。冷静な分析力が――キミのいちばんの強みだよ」
レイは、反論しなかった。
ただ、わずかに唇を引き結んで、 深く、息を吐いた。
それから何も言わずに―― 弓を持ち直し、もう一度構える。
その背中は、さっきよりほんの少しだけ、落ち着いて見えた。
最後は、サーシャだった。
模擬戦の最中。 仲間たちが動き出した中で――彼女だけが、動けずにいた。
足が、止まっている。
視線だけが、泳いでいる。
「……ごめんなさい。私……」
消えそうな声。俯いた顔。
私は、隣に立って――
そっと、視線を合わせるために、しゃがんだ。
「完璧じゃなくていい」
サーシャが、涙をためた目で私を見る。
「一歩だけ、前に出てみよう」
小さく、頷く彼女の指先が、震えていた。
「失敗しない人なんて、いないよ」
私は、静かに背中を撫でる。
「……大丈夫」
その一言に、サーシャは―― ぎゅっと、目を閉じて。
そして、ぎこちなく。
でも、確かに――一歩、前に出た。
それからの訓練は、少しずつ――変わっていった。
ミリアは、突っ込みすぎなくなった。 無理に前に出るのではなく、仲間の位置を見るようになった。
レイの援護は、静かで、正確になった。
矢は、必要な場所に、必要なときに届くようになった。
サーシャは、支援の判断が速くなった。迷う時間が、確実に減っていった。
三人はまだ、未熟だ。
でも――
確実に、変わり始めている。
足取りは小さいけれど、それは――前に進む足音だった。
私は、その様子を遠くから見つめながら、そっと、息を吐いた。
――大丈夫。この子たちは、きっと。
教えるたびに、なぜか、自分のことを思い出す。
剣を振るいながら、 魔法を教えながら、戦い方を伝えながら―― いつも、過去の自分が、心のどこかに浮かんでくる。
これまで私は、ずっと思ってきた。
――自分は「誰かを守らなければならない側」なんだ、と。
強いから。戦えるから。 だから、私が前に立つべきだと、疑いもしなかった。
でも、三人と向き合ううちに、ふと――別の考えが、胸に落ちてきた。
私は、ずっと一人で立ってきたつもりでいた。
けれど本当は、ここに来るまでに、何度も、何度も――誰かに、支えられてきたのだ。
ディアスの背中。
両親の言葉。 名前も知らない、誰かの祈り。
自分が気づかないところで、私はずっと、手を引かれて立っていた。
……そう思ったとき、胸の奥が、静かに、熱を持った。
誰かを救うことには、慣れていた。
でも――誰かの「人生」に踏み込むことには、慣れていなかった。
彼女たちが、彼らが、どんな未来を歩くことになるのか。
その一部に、 私の言葉が、私の判断が、私の背中が、関わってしまうかもしれないという事実に――
初めて、私は、足がすくむような感覚を覚えた。
伝えた言葉ひとつで、 誰かの心が変わるかもしれない。
教えた戦い方ひとつで、 誰かの明日が、決まってしまうかもしれない。
それは、魔物と向き合うより、ずっと、重たかった。
……だけど。だからこそ、私は、目を逸らしたくなかった。
「強いだけじゃ、足りない」
どこかで聞いたその言葉が、
胸の奥で、静かに形を持ちはじめる。
「人に何かを伝えるなら――自分も、まっすぐでいなきゃいけない」
誰かの前に立つということは、ただ手本を見せることじゃない。
自分自身の在り方ごと、さらして立つことなのだと――
今なら、分かる。
たぶん私は、教えているつもりでいて――
いつの間にか、「立ち方」を、教えられていたのだ。
誰かの前に立つたびに、私は、少しずつ、怖くなる。
そして、少しずつ、ちゃんと――強くなっていく。
それからの一年は、決して平坦とは言えなかった。
何度も転び、悩み、立ち止まりながら――それでも、三人は歩くことをやめなかった。
失敗して、泣いて、 それでもまた立ち上がる姿を――私は、何度も見てきた。
完璧には、ほど遠い。 けれど、あのとき地下訓練場に立っていた三人とは、もう同じではない。
……ここまで、よく来た。
そう思えた。
私は、静かに、口を開く。
「――もう、大丈夫」
短い言葉だったけれど、 迷いはなかった。
次に、はっきりと告げる。
「このパーティのリーダーは、ミリア」
一瞬、時間が止まったように感じた。
「えっ!?」
ミリアが、目を見開いて声を上げる。
「わ、私!? 一番年下で……一番……ドジだし!!」
慌てたように、両手をぶんぶんと振る。
その隣で、レイが――ほんの少しだけ視線を逸らしながら、くすっと小さく笑った。
「……俺も、ミリアが適任だと思うよ」
驚きと戸惑いに揺れるミリアの横で、 サーシャが、にこやかに頷く。
その様子を見て、私は小さく息を吐いた。
ああ。
到達したんだ――と。
三人は、もう、“教えられる側”じゃない。
この場所から、自分たちの足で、進んでいける。




