沈黙の街27
ベイルはうっすらと口角を歪め、血の滲む唇の端で笑った。
痛みに歪む顔には、不思議な余裕が浮かんでいる。
それは、狂気ではなく――悟った者の諦観のようにも見えた。
「結局、足を引っ張るだけの連中と組んでたら、いずれ自分も死ぬ。ああいうのは、いずれ切り捨てるしかねぇんだよ」
吐き捨てるように言われたその言葉に、リュアの表情がわずかに揺れた。 だがすぐに、その瞳に宿る光が、きっぱりとした冷たさに変わる。
「……そう。やっぱり、キミはそう考えるんだ」
静かに告げながら、リュアは一歩、前へと進む。 ベイルを正面から見据え、その背にいる仲間たちの存在を思い浮かべる。
「アナスタシアは、仲間のために命を懸けられる人だよ。――“不相応”なのは、そういう絆を理解できないキミの方じゃないかな?」
その声は穏やかだったが、芯には怒りが孕まれていた。 彼女の視線が鋭さを増していく。
しかし、ベイルの歪んだ笑み、冷たく言い放たれた言葉。 ――その在り方に、どこか既視感があった。
ふと頭の片隅に、ギルド本部で目にした記録がよぎる。 ――かつて、ギルドは冒険者たちが好き勝手に振る舞い、不正や裏切りが横行していた混沌の時代があった。
その腐敗を正すため、前ギルド本部長と、当時副ギルド長だったディアスが中心となり、大規模な改革が行われた。 それは長い年月をかけた、根本からの組織の立て直しだったと記されていた。
(……もしかして、ベイルは――)
今の自分たちが所属している“ギルド”とは、似て非なるもの。 リュアは、その事実を思い返す。
「まさかとは思うけど……そういうやり方が、“昔のギルドの常識”だったって言うつもり?」
リュアが問いかけると、ベイルは鼻で笑い、嘲るように言い返した。
「今のぬるま湯みてぇなギルドしか知らねぇんだろうな、お前らは。正義だの秩序だの――全部、後から貼られた化粧だ」
その言葉に、リュアの表情は微動だにせず、ただ静かに返す。
「……それでも、信じていたんじゃないかな……ギルドが“正義”であることを」
ベイルの瞳に、一瞬、かすかな揺らぎが宿る。 そして、そのまま低く呟いた。
「信じてたさ。あの時まではな――」
薄く笑ったまま、ベイルの肩がかすかに震える。
その震えが、怒りなのか期待なのか――判然としなかった。
「……俺はな。かつて、ただの冒険者だった。――Cランクの、な」
その声音には、皮肉とも諦めともつかない響きが混じっていた。 リュアは黙って見据える。その表情は崩さないまま、わずかに目を細める。
「“ある任務”に就いたんだ。仲間とともに討伐に出た。だが……そこで待っていたのは、罠だった」
ベイルの口角が歪む。笑っているはずなのに、その奥からは血を吐くような苦みしか滲んでこない。
「同行していたBランクの冒険者たち……いや、“上位”の連中はな、俺たちを“囮”にした。真実の情報は握ったまま、都合のいい“捨て駒”を用意したってわけだ」
リュアの眉がわずかに動く。 彼女は言葉を挟まない。ただ、その声を受け止め、耳を傾ける。
「仲間は、泣き叫びながら喉を裂かれた。足を食いちぎられ……それでも生きようと、必死にもがいていた」
ベイルの声が低く、震える。目は遠くを見ているようで、今なおその惨劇を焼き付けて離せないかのようだった。
「助けを求める声が、今も耳に残ってる……。けど、奴らは言ったんだ。“足手まといはいらない”ってな」
拳がわずかに震え、血の滲んだ唇を噛みしめる。
「そう吐き捨てて、奴らは俺たちを置き去りにしたんだ」
リュアの胸の奥に冷たいものが走る。
彼女の視線は揺れず、ただ一つの答えがその瞳に宿っていた。
(……だから、彼は――)
「……俺も、生き延びた」
ベイルはかすれた笑みを浮かべる。
「腕を引きずり、血まみれのまま、這って戻った。ギルドに報告したさ。事実を、全部。だけど――」
視線を落とし、地面に唾を吐き捨てるように言い放った。
「もみ消された」
短く、重いその言葉に、リュアのまぶたがぴくりと動いた。 ベイルは抑え込んでいた怒りを解き放つように声を荒げる。
「上層部は“作戦は適切だった”と書類をすり替えた! 責任は俺たちに押し付けられ、死んだ仲間は“自己判断の誤り”で処理されたんだ!」
握りしめた拳から血が滴る。 その顔には怒りも、悲しみも、そして何より深い絶望が張り付いていた。
「……そのとき、気づいたんだ。この世界に“正しさ”なんて存在しないって。善も理想も、ただの幻想だってな」
リュアはわずかに息を吐き、ただ静かにベイルを見据え続けた。
「だから、俺は決めた。すべてを、潰すと」
ベイルの目が爛々と光る。
「ギルドも、冒険者も、ランク制度も。どれだけ綺麗事を並べようと、その裏で人を喰いものにする仕組みなら、俺がそれを証明してやると!」
嗤うような声が夜を震わせる。
「俺は“選別”してきた。無垢な顔をしている若い連中を、あえて危険な任務に送り込んだ。“救い”があると信じてる奴らを、絶望の底に落とす。どうなるかを、この目で見届けるためにな!」
リュアの瞳が鋭さを増す。 彼女は怒りを押し殺し、わずかに唇を引き結んだ。
「英雄気取りで人を救うだ? 正義を語るだ? ――笑わせるな!」
ベイルが睨みつける。その視線には、個人ではなく“冒険者”という象徴そのものへの、底のない憎しみが込められていた。
「お前がその象徴だよ、リュア・ゼフィラ」
嗜虐の笑みを浮かべながら、ベイルが言い放つ。
「光だの理想だのを掲げて、正しい顔をして――お前みたいな奴が、一番、壊れる時にいい顔をするんだ」
その言葉に、リュアは目を細めた。 声に出さずとも、彼女の視線には揺るぎない意志が込められていた。
(……確かに、理不尽で、怒りも、悔しさも、きっと本物だ)
こみ上げる感情が、胸の奥を締めつける。
けれど、それでも。
(――それでも、私は知っている)
(あれほどの理不尽にさらされながらも、憎しみに染まらずに生きようとする人を)
(痛みを抱えたまま、それでも誰かを助けようとする人を……)
リュアは一度、目を伏せた。 そして、すぐにまっすぐベイルを見返す。
ベイルは――笑っていた。 口端には血が滲み、肌は青ざめてなお、目の奥だけが異様な光を放っている。
そして、無言のまま、手にした黒い球体を握り直す。
まるでそれが、自身の全ての怨念を象徴しているかのように。
わずかに震える指先に、痛々しいほどの力がこもる。
「幻想ごと、砕き潰してやるよ」
唇の端に嗤いを浮かべながら、ベイルはその呪具を指先で撫でた。
「俺が喰らった絶望を、今度はお前が味わう番だ」
ベイルの手の中で、黒い球体が静かに脈動する。
それは命を持ったかのように震え、鈍く光を宿したその瞬間――彼は、迷いなくそれを自らの胸元に押し当てた。
「っ……!」
ぬるり、とした音が肌を濡らす。
黒い球体は抵抗もなくベイルの体内に沈み込み、血肉に飲まれていくようにして消えていった。
直後、空気が一変する。
地面を這うような重苦しい圧が、辺り一帯を満たした。
「な……に、この感じ……!」
ミリアが顔をしかめ、思わず後ずさる。サーシャもレイも、咄嗟に顔を覆い、肩をすぼめた。
レグナムの面々もまた、体を強ばらせ、言葉を失う。
アナスタシアもまた、胸元で手を組みながら膝を震わせた。だが、視線だけは逸らさず、必死にベイルの変貌を見据えていた。
それは、目に見えない“呪いの気配”――。 皮膚を刺すような、濁った悪意の奔流だった。
だが、リュアとグレンだけは微動だにしなかった。
まっすぐに、ベイルを見据える。 その変貌の兆しを、一瞬たりとも見逃さないように。
やがて、ベイルの体に異変が起こり始めた。
彼の右腕が、膨張するように肥大化していく。
皮膚の色は濁った灰に変わり、まるで岩と肉が溶け合ったかのような不気味な質感に歪む。
筋肉は過剰に盛り上がり、指先は鉤爪のように鋭く変化し、血管のような黒い紋様が腕全体へ徐々に浮かび上がっていた。
――人の形を保ちながら、何かが内側から“侵食”している。
「……みんな、ベイルを抑えてくれてありがとう」
リュアが、静かに口を開いた。 呪気の中でなお揺るがぬ声が、はっきりと響く。
彼女はミリアたちの方へと目を向け、穏やかに微笑んで見せた。
「ここからは、私たちに任せて」
その笑みに、ミリアは一瞬、言葉を詰まらせる。
「でも……リュアさん……」
不安そうな顔で、ミリアが口を開く。
「私とジークの“呪いの遅延魔法”を使ってるから……他の魔法は、使えないんじゃ……?」
それを受けて、リュアは首を横に振った。
「大丈夫。今はグレンも、アナスタシアもいる」
静かで力強いその声に、ミリアは目を見開く。
「遅延魔法を駆け続けるから、私の目の届く範囲で――安全な位置へ移動して」
その言葉に応えるように、ルセリアとレグナムのメンバーがそれぞれ顔を見合わせ、小さく頷く。
そして、リュアたちから距離を取りつつ、街路の端へと慎重に身を移した。
その間にも、ベイルの変化は止まらない。
肥大化した腕に続いて、肩から背中にかけてまでもが膨れ上がり、異形の瘴気をまとい始める。
黒い紋様が全身に広がり、瞳の色は人間のものではあり得ない、不気味な緋色へと変貌していた。
胸元には、先ほどの黒い球体が肉に呑み込まれるように埋め込まれ、不気味な脈動を放っている。
「始まるな……」
グレンが、静かに呟いた。
リュアもまた、ゆっくりと双剣の柄に手を添える。
その瞳は、決して揺れていない。
かつての“傷”が今、怪物の姿となって現れようとしている。
――戦いの幕が、静かに開かれようとしていた。




