試練の証明4
朝霧がまだ街路をうっすらと覆う頃、ギルド本部の前には人影もまばらだった。
ひんやりとした空気のなか、石畳の上でリュアとグレンが静かに立っていた。空はすでに白み始めており、遠くで鳥の鳴き声が小さく響く。
「……寒くはない?」
リュアがそう声をかけると、グレンは軽く首を横に振った。
「問題ない」
それだけを答えた彼の表情には、まだいくらか硬さが残っている。それでも、昨日よりは少し落ち着いていたように感じる。
しばらくして、ギルドの扉が開き、ディアスが外へと姿を現した。
「さて――来たな」
その声に、二人が視線を向ける。
ディアスの視線の先、まだ朝の影が残る街路の向こうから、ひとりの青年が無駄のない足取りで歩いてくるのが見えた。
男は20代後半ほどだろうか。焦げ茶色の髪を短く刈り込み、整えられた身なりは一切の装飾を排した灰色の外套。腰には最低限の記録装置と、護身用の短剣が下がっている。
灰色の瞳と眼鏡越しの鋭い視線は、どこか無機質な印象を与える。表情にはほとんど感情の色がなく、まるで任務を遂行する機械のような静けさを湛えていた。
その男が、グレンたちの前で立ち止まると、丁寧に一礼をする。
「カイル・ストレイドです。ギルド監査担当として、今回の調査に同行します」
声もまた、落ち着き払っていた。
「リュア・ゼフィラだよ。よろしくね」
「……グレン・ルシェイドだ」
グレンの名乗りに、カイルの灰色の目が僅かに動いた。彼はしばしグレンを見つめたのち、わずかに眉を上げた。
「なるほど……確かにすごい魔力ですが、佇まいは至って普通の人間ですね」
それは感想とも評価ともつかない、淡々とした言葉だった。
「ですが、私は中立を貫きます。命令権はギルド本部にあり、私個人の判断で動くことはありません」
グレンは黙ってその言葉を受け止めていたが、その隣でリュアが一歩前に出た。
「それで大丈夫。私は、グレンが人間だって信じてるから」
自信に満ちた瞳で、まっすぐに言い切る。
「だから、あとはそれを証明するだけ。それだけでいい」
カイルはリュアの言葉に短く頷いた後、灰色の瞳をもう一度ゆっくりと彼女へと向けた。
「あなたの噂は以前から聞いています」
静かな口調で、だが淡々と切り込むように言葉を重ねる。
「世界唯一のSランク冒険者であるあなたを、この国で知らない人はいません」
その一言に、リュアが小さく肩をすくめた。だが、続いた言葉にはさすがに反応せざるを得なかった。
「……そして、ディアス本部長があなたのことで頭を抱えていた痕跡も、業務記録から確認できます。行動報告の末尾には、“やれやれ”といった意味合いの注釈が、たびたび付されていました」
ぴたり。
リュアの動きが止まった。その視線が、鋭く隣の男へと向けられる。
「……ディアス?」
問いかけというより、“確認”のようなその声に、ディアスが明らかに動揺する。
「バ、バカ! カイル、お前は余計なことを……!」
わずかに声が裏返り、目を逸らして額を押さえるディアス。その姿に、リュアがゆっくりと笑みを浮かべた。
笑み――ではあるが、その目はまったく笑っていない。
「……ふーん、そんなに私のこと書いてくれてたんだ」
軽く一歩、ディアスの方へ足を踏み出すと、彼は身を引きつつ、視線の逃げ場を探すように空中を彷徨わせた。
「……あー、その……ほら、報告ってのは大げさになるものでな……」
「へぇ?」
「で、でもだ、ちゃんと実績は認めてるし、俺はお前を信頼して――」
「ふぅん……」
圧を感じてか、ディアスは完全に口を閉じ、そっとグレンの後ろに退く。
その様子を、グレンは無表情のまま見ていた。特に感情を動かした様子もなく、ただ静かに――それこそ“他人の問題”のように。
そんな彼の横で、カイルは眼鏡の縁を指先で持ち上げながら、変わらぬ口調で淡々と続ける。
「いつか直接お会いできたら伝えようと思っていました。…………あなたに関する報告だけ、毎回やたらと長くて注釈も多く、確認作業に余計な時間がかかりましたので」
再び、ぴたりと沈黙が落ちた。
「……ディアスぅ?」
リュアがじわりと目を細めながら低く呼びかける。今度は笑みすら浮かべず、声だけが妙に冷えていた。
「い、いや違うんだ! あれはその……その場の勢いというか、だな……っ!」
ディアスが両手を振って必死に弁解するも、その額にはじっとりと冷や汗がにじむ。
冷えた空気の中で、リュアはしばらくディアスを睨みつけた後、軽くため息をついた。
「――そろそろ、行く準備しよっか」
その言葉に、ディアスが少し気怠そうに片手を上げて応じる。
「馬車は今こっちに回してるところだ。もうすぐ着くはずだぞ。……こっちはせいぜい、“上”を丸め込む準備でもしとくさ」
言いながら、ディアスは手をひらひらと振って三人を見送る。冗談めかした軽さの裏に、確かな信頼の色がのぞいていた。
グレンとリュア、そしてカイルの三人はギルドの玄関先で待機しながら、静かに歩を進める馬車の音に耳を澄ませる。
まもなく、石畳を軋ませる音とともに、一台の馬車が建物の前へと姿を現した。
外装は重厚な木製で、扉にはギルドの剣を組み合わせた紋章が刻まれている。戦地への派遣にも耐えられる構造で、装飾は一切ないが、武骨な実用性に満ちていた。
扉が開かれ、三人は順に乗り込む。内部も質素な造りで、向かい合う木製のベンチに最低限の緩衝材が敷かれているだけだった。
リュアとグレンが横に並んで腰を下ろし、正面にカイルが無言のまま座る。
ふと窓の外を見やると、ディアスがひとり手を振りながら、じっとこちらを見送っていた。
出発を告げる鞭の音が遠くで響いたかと思うと、馬車がぎしりと軋み、ゆっくりと動き出した。
車輪の振動が足元から伝わり、扉の隙間から流れ込む風が、試練の始まりを告げる。
***
グレンは窓の外に視線を向けたまま、ずっと黙っていた。
街を離れ、田畑や並木が流れていく風景を、まるで初めて見るもののように、じっと見つめている。
その横顔を見ながら、リュアは少しだけ頬をゆるめた。
(……なんだか、初めて乗り物に乗った子どもみたい)
言葉にはしないが、思わずそんな印象を抱いてしまうほど、彼の眼差しは真剣で、どこか幼さを感じさせるものだった。
ふと、正面に座るカイルへと目を向ける。
さきほどまであれほど淡々と喋っていた男は、今は一言も発していない。表情は相変わらず無機質で、ただ手元の記録装置の調整に集中しているだけだった。
しばらくの揺れの中、リュアはそっと鞄に手を伸ばし、革製の水筒を取り出した。
中には、今朝汲んだばかりの冷たい川の水が入っている。
「……少し、飲む?」
穏やかな声でそう言いながら、リュアは水筒をグレンの方へ差し出した。
グレンは一度だけ瞬きをして、視線を彼女の手元に落とす。
ほんの小さく頷くと、水筒を両手で丁寧に受け取った。
唇をつけ、一口だけ含んで喉を潤す。 そして、再び無言のまま、水筒を返した。
その手つきには、言葉にしない礼が込められていた。
リュアは小さく笑みを浮かべ、黙って水筒をしまう。
ふと、視線をグレンに向けたまま、問いかける。
「もしかして、馬車に乗るの、初めて?」
グレンはちら、とリュアの方を見たあと、またひとつ頷いた。
「……乗り物は、人に姿を見られる危険があったからな」
ぽつりと、抑えた声で告げられたその言葉に、リュアはほんの少しだけ目を伏せた。
「そっか……」
返した声はやわらかかったが、その胸の奥には、言葉にできない小さな痛みが確かに残った。
しばらく沈黙が落ちる。
だが、その沈黙は重くはなく、互いの存在を静かに受け止め合うような静けさだった。
やがて、リュアがそっと顔を上げる。
まっすぐにグレンを見て、言葉を紡いだ。
「……それなら、これから一緒に冒険していく中で、今までできなかったこと、たくさんやっていこっか!」
その声には、明るさと強さ、そして優しさがあった。
グレンはしばし彼女を見つめたまま、何も言わずに聞いていた。
やがて、ほんのわずかに目を細めて、短く答える。
「……あぁ」
短い返答だった。だがその声には、確かな意志が宿っていた。
無表情の奥に、言葉の重みを受け止めた気配が微かににじんでいた。
馬車はゆっくりと街道を進んでいく。
車輪がきしみ、揺れが足元から伝わる。
グレンは再び、窓の外へと視線を向けた。
遠く広がる大地、流れる雲、風に揺れる木々――そのすべてが、彼にとっては“初めて”の風景だった。
リュアは隣に座ったまま、何も言わず、ただ静かにその横顔を見つめていた。
それだけで、今は十分だった。