沈黙の街26
呪いの奔流が、術士の二人――ノエルとサーシャを直撃せんと迫る。
空気が震え、全身の肌が粟立つような凶悪な気配に、二人は咄嗟に魔法を構えかけた。
だが、明らかに――間に合わない。
「っ……!」
ノエルが目を見開いたその瞬間――
「……ノエル!」
ジークが横から飛び込み、ノエルの前に割り込む。
放たれた呪いの奔流が、彼の肩口を掠めるように通り過ぎた。
「ミリア!? ダメっ、危ない……!」
サーシャの視界には、己を庇って飛び込んできたミリアの背中があった。
その背に、黒い靄の一部が絡みつく。
「ジーク……!!」
「ミリア!!」
ノエルとサーシャが、それぞれ庇った仲間の名を叫び、駆け寄ろうとする。
だが――
「……二人とも、すぐにライナの援護にまわれ!」
レイの鋭い声が、状況を切り裂くように響いた。
はっと息を呑むノエルとサーシャ。
「……っ、わかった……!」
「いくよ、サーシャ!」
「うん……っ!」
思考を切り替えた二人は、すぐさまライナの方に魔法を放つ。
彼女の周囲にも、呪具から放たれた靄が這い寄ろうとしていた。
「“遮陣”!」
「“氷壁”!」
ノエルとサーシャは、それぞれの感情が胸の内で渦巻いていた。
焦り、怒り、心配――だが、それを振り払うように目の前の靄に魔力を叩きつける。
いまは戦場。彼らの心は、再び前線へと引き戻された。
その間に、ノエルとサーシャを庇った二人も立ち上がる。
肩を押さえながら、ジークが低く呟いた。
「呪いは……すぐに死ぬわけじゃない。今は、それでいい……」
「うん、体は……重たいけど……まだ、動ける……っ」
ミリアは片膝をつきながらも、気力で笑みを作った。
「早くベイルを倒しちゃおう!」
庇った判断は、決して無駄ではなかった。
いまこの場で、呪いに対抗できる術士二人が落ちること――
それこそが、最悪の事態だった。
だからこそ、ミリアもジークも迷わなかったのだ。
「さて……どこまで、耐えられるかな?」
ベイルが、余裕の笑みを浮かべる。
その手に握られた呪具から、黒い靄がなおも蠢き、空気を蝕み続けている。
「この魔道具が生み出す呪い……お前たちの限界、試してやるよ」
その声に、誰もが苛立ちを覚えた――だが、打つ手は未だ見えない。
戦闘が続く中、後方で弓を構えていたレイが、一人冷静に状況を見極めていた。
風のような呼吸をしながら、心の中で自分に言い聞かせる。
(落ち着け……焦るな。今は冷静さが必要なんだ)
ふと、脳裏に浮かぶのは、あの人物の言葉。
『冷静な分析力が、キミのいちばんの強みだよ』
(……リュアさん……)
リュアさんがここに来てくれる可能性を考えるのは甘えだ。
今、この瞬間を打破できるのは――自分たち自身しかいない。
(……この戦力で、今のベイルをどう止める?)
矢を番えながら、結界の挙動に注意を向ける。
風を斬る矢は、先ほど完全に防がれた。だが――
(……いや。完全に、ではなかった……)
レイの眉がわずかに動く。
思考が回り始める。
自動展開される防御結界の“挙動の揺らぎ”――そこに、何かがある。
まだ確信ではない。だが、光明は見え始めていた。
風の気配が静かに揺れる中、レイが弓を引いたまま呟いた。
「……結界の反応に、偏りがある。強い魔力には即応してるが、弱い魔法には……一拍、遅れる」
その言葉に、ジークが目を細めて頷く。
「なるほどな……。なら、俺が派手に動く。ノエル、サーシャ――“抑えた魔力”で、呪具を狙ってくれ」
「……OK。合わせるよ」
ノエルが短く返し、杖に力を込める。
「私も……いく」
サーシャも頷き、静かに冷気を纏わせる。
ジークが風を纏い、走り出す。
「“旋斬風刃”!」
魔力の奔流が生み出した鋭い風刃が、一直線にベイルへ向かって放たれる。
それに反応し、呪具から結界が再展開された――瞬間。
「今だ……!」
ノエルとサーシャが同時に魔力を放つ。
「“穿岩の槍”!」
「“氷柱弾”!」
控えめな魔力量だが、高密度で圧縮され放たれたそれらは、音もなく呪具へと迫る。
結界が再展開された直後の“わずかな隙”――
その刹那を突いた攻撃が、呪具へと直撃した。
「……当たった!? ……ヒビが……入った……!」
ミリアが目を見開いて声を上げる。
「よっしゃ、今だ、畳みかけろ!」
ライナが叫ぶ。
その声に応えるように、レイが放った矢が風を裂き、呪具へ――
すでにヒビの入った表層を、鋭く貫いた。そしてそのヒビはわずかに広がる。
「通った……!」
ジークが声を漏らす。
「これなら……!」
サーシャの声にも、希望が滲んでいた。
だが――
「……ふむ。ようやく、“興味深く”なってきたな」
ベイルが小さく笑い、呪具を掲げる。
その瞬間、紫黒の靄が溢れ出し、地を這い、空気を歪ませていく。
「……靄が、濃くなっていく……? こんな密度、ありえない……!」
ノエルの声が震える。
「……止まらない。……何か、変だ……!」
レイが矢を構え直しながら、鋭い眼差しを向ける。
靄は渦を巻きながら拡がっていく。
ただの結界や攻撃ではない――
空間そのものが、呪いに侵されていくかのようだった。
「っ……この濃さ……もう、防げない……!」
サーシャが息を呑み、後退しかける。
「来る……! 全部を呑み込む気だ……!」
ミリアの声が焦りを帯びる。
ベイルの周囲から放たれた黒い靄が、まるで爆ぜるように一気に拡がる。
四方へと跳ねるように広がった呪いの奔流が、視界のすべてを塗り潰す。
それは、ただの魔法でも、呪いでもなかった。
異常な密度を持った黒い靄が、空間ごと蝕むように広がり、全員を包み込もうとしていた。
四方から押し寄せる黒い靄が、地を這い、空を染め、空間そのものを呪いで染め上げていく。
魔法も、障壁も、風さえも呑み込みながら、視界が黒一色に染まり始めていた。
「……これ……本当に、止められるの……?」
ノエルが呟く。
声は、震えていた。
自分の放つ魔法の力が、まるで無力のように思えた。
「体が……動かない……」
ミリアが膝をつき、呼吸を乱しながら呟く。
ジークもまた、肩を押さえ、力を振り絞るように踏みとどまっていた。
「……くる……!」
サーシャの声が上ずる。
靄の奔流が、まるで意思を持つかのように、中心にいる全員を飲み込もうと押し寄せてくる。
レイは唇を噛みながら、弓を握る手に力を込めた。
まだ……打つ手は……。
そのとき――
靄が、止まった。
いや、それだけではない。
全身にまとわりついていた重さが、ふっと――
「……体が、軽い……?」
ジークが肩を回しながら、呟く。
「私も……! さっきまで、まるで身体が鉛みたいだったのに……」
ミリアが目を瞬かせた。
その瞬間、“何か”が地を蹴って走り抜けた。
「……っ!?」
誰もがその残影すら捉えきれぬまま、ベイルの目の前に――
「が……はっ!!」
鈍い衝撃音とともに、ベイルの身体が吹き飛んだ。
「……うーん、これでまだ意識があるってことは、何かまだ隠してるっぽい、かな」
軽やかな声が響く。
黒い靄が晴れ、ようやく視界が開けていく。
そして全員の目に飛び込んできたのは――
闇を切り裂くように立つ、金髪の女性の姿。
「リュア……ゼフィラ……!」
ノエルが信じられないものを見るように呟く。
その少し後方。
闇の魔力を纏い、大剣を背にした青年――グレン。
そして、その隣には、白い術衣に身を包んだ少女――アナスタシアが並んでいた。
「……全身に隠蔽された魔力の結界が貼られているな」
グレンが低く、呟く。
ベイルは地面を転がりながらも、ゆらりと立ち上がった。
その脇腹を手で押さえ、顔をしかめる。
「リュア・ゼフィラ……。まさか、あの状態のギルドから脱出できるとはな……」
苦悶の表情に、どこか余裕の笑みが混じる。
「結界は、ちょっと厄介だったけどね」
リュアが肩をすくめ、わずかに笑みを浮かべる。
「アナスタシアのおかげで、私たちは抜け出せたよ。もちろん、冒険者もギルドの職員も、全員無事」
その挑発めいた言葉に、ベイルの目が鋭く光る。
そして視線を横に逸らし、アナスタシアを見下ろすように言い放った。
「……あのCランクパーティの中で、一人だけ突出した力を持つ小娘か。――不相応な仲間の中に身を置いて、何を企んでいたことやら」
「なっ……!」
アナスタシアが思わず一歩前に出かける。
しかし、グレンが手を伸ばし彼女の肩に軽く手を添える。
そして首を横に振り、静かな瞳で制した。
――乗るな、という無言の意志。
アナスタシアは唇を噛み、ぐっと感情を飲み込む。
そのまま、ベイルを強く睨み返した。
――そして、彼女の脳裏に、あのときの記憶がよみがえる。
ギルド脱出後。
リュアが冒険者やギルド職員たちに避難を指示し、イレーネに本部への連絡を託したあの場面。
その中で、リュアとグレンは仲間を助けに向かおうとしていた。
そんな二人の背に、アナスタシアは強く呼びかけた。
『私も……ベイルのもとへ、行かせてください!』
立ち止まったリュアが、少し振り返って問いかける。
『……迷宮での結界維持に、さっきの解呪……アナスタシア、魔力はもう残ってないんじゃないかな?』
アナスタシアは小さく頷き――それでも、言葉を紡いだ。
『はい。でも……もしベイルの呪具が相手なら、私の聖属性の解呪が役に立つかもしれません。……一発なら、まだ――いけます!』
リュアは静かに見つめてから、やわらかく微笑んだ。
『……わかった。一緒に行こう。でも、無理は禁物だよ』
すると、すぐ横から、別の声がした。
『アナスタシア、これを使って』
差し出されたのは、黄色く光る液体の入った小瓶。
それを持っていたのは、フローネの仲間――シルフィだった。
『これは……』
『魔力回復用のポーション。あまり出回ってないけど、効果はそこそこあると思う』
シルフィは微笑み、アナスタシアの手にそれを握らせる。
『……みんな……』
振り返れば、ロイとエイドもまた、力強く頷いていた。
『俺らはもう、魔力も体力も残ってない。ここから先は足手まといになるだけだ』
ロイが静かに言う。
『でも……お前なら、きっと役に立てる』
エイドが力強く背を押した。
『一緒に行けないのは悔しいけど、今回はアナスタシアに託すよ!』
シルフィの言葉には、“次こそは共に戦いたい”という思いが込められていた。
アナスタシアは、仲間たち一人ひとりの顔を見て、しっかりと頷いた。
そして、リュアが一言。
『――そしたら、急ごう』
リュア、グレン、アナスタシア。
三人は、夜の街を駆けてこの場所へとたどり着いたのだった。
アナスタシアの視線が、再びベイルの手に握られた呪具へと注がれる。
(あの魔道具の力は、桁違い……リュアさんたちなら、魔力で破壊することもできるかもしれないけど……)
(でもリュアさんは、私の聖属性の“解呪”の魔力を残すために――ミリアさんとジークさんに、進行遅延の魔法をかけてくれた……)
(なら、私は――)
(確実に、“壊すタイミング”を見極めないと……!)
その瞳に、強い決意が宿っていた。




