沈黙の街22
しかし――そこには、何も書かれていなかった。
「……白紙じゃない。これは何かの“仕掛け”だね」
小さくつぶやきながら、リュアは紙の端に視線を移す。何気なく触れた指先に、わずかな違和感が伝わった。
「……この折り目……?」
慎重に紙を持ち直し、明かりの下で角度を変える。
ほんの僅かに、斜め方向に複数の折り線が走っているのが分かった。
折り目は整然と交差しており、意図的なもののようにも見える。
「グレン、これ……」
隣にいるグレンに視線を向けると、彼は軽く頷いて手を差し出した。
「貸してみろ」
リュアが紙を渡すと、グレンは無言のまま広げ、そして一度、ふわりと手元で紙を持ち上げた。
「折り線の配置が、規則的だ。……これは、“図形”になるように計算されている」
彼は素早く指を動かし、紙を二、三度折り返す。やがて、折り込まれた線が交差し、ひとつの簡素な矢印のような形が浮かび上がった。
リュアがその形に目を凝らす。
「……これは、棚の配置図?」
「おそらくな。――この形は、部屋の奥の棚列と一致する。……そして、ここにだけ印がついている」
グレンが指差したのは、折り込まれた端にできた小さな三角の出っ張り。
全体が矢印を形作るようになっており、その先端が棚の一つを示しているように見える。
「……あの棚、だね」
リュアが示された方向に視線をやると、そこには他と同じように見える棚があった。
ただ、その表面にだけ、わずかに埃の薄い箇所が見受けられる。
「行こう」
グレンの一言に、リュアは頷き、ふたりは無言でその棚へと向かった。
棚には、他と変わらぬ体裁で帳簿や報告書が収められている。
リュアが一冊を取り出して確認するが、内容はごく普通の予算報告書だった。
しかし――
リュアは棚の奥に手を伸ばし、底を軽く叩いた。
「……感触が違う」
彼女は奥の板に指をかけ、そのまま静かに引いた。
――カコン。
奥の板がわずかに浮き、隙間ができた。
中には、通常の帳簿よりも一回り小さな革張りの記録帳が収められている。
埃一つないその表紙には、タイトルも日付も記されていなかった。
リュアは慎重にそれを手に取り、そっと胸元へと引き寄せた。
その様子を見届けていたグレンが、低くつぶやいた。
「……隠し棚、か」
「間違いない。ベイル本人が、ここに隠したんだ」
リュアの声は低く、確信に満ちていた。
そして、手にした記録帳をそっと開いた。
革張りの表紙は静かな軋みを立て、重みを孕んだ中身が姿を現す。
グレンも無言のまま、隣から視線を落とし、記録帳の中身を静かに読み取っていく。
リュアが指先で慎重にページをめくるたび、過去の記録が露わになっていく。
「これは……」
リュアの声に、わずかに震えが混じった。
帳簿には、表の記録とは明らかに異なる内容が記されていた。
例えば、支部長室でベイルに渡されたクエストの記録で、「死傷者ゼロ」と報告されていたにもかかわらず、この帳簿には――
《クエスト:魔獣掃討(街道沿い)/参加者12名/生存者5名》
と、生々しい数字が残されていた。しかも、日付とクエスト名は一致している。
これはつまり、表の記録が改ざんされていることを意味していた。
「……こっちも見て」
リュアが次のページを開くと、今度は報酬に関する内部のやりとりが綴られていた。
《納品:高等回復薬×14 → 支払:Cランク基準(通常単価の80%に抑制)》
《理由:精神面において不安定と判断/“選別対象”に移行》
「……選別、対象……」
思わずつぶやいたリュアの声に、グレンが視線を向ける。
リュアの目は細くなり、その表情にかすかな怒りの色が浮かびはじめていた。
さらに読み進めていくと、こうした報酬操作の理由や方針が、ベイルの言葉で明確に記されていた。
《装備不備や補給不足によって任務遂行に支障を来す者は“適応力不足”とみなすべし。淘汰の一環》
《不満を表明した者=精神耐性に難/報酬記録から除外対象とする》
「……まるで、実験か何かみたいに……」
リュアの手が、ページを捲る動きを止める。その拳がわずかに震えていた。
さらに奥の数ページには、別の記録が挟まれていた。そこには、ある職員に関する記述があった。
《K職員:報酬整合性に関する疑念を本部へ報告する旨の発言あり》
《翌週、黒衣の男と接触済。口封じ完了》
リュアは記録帳を閉じ、静かに息を吐いた。
グレンも思わず目を細める。表情に乏しい彼ですら、その顔にわずかな険しさを浮かべていた。
「ギルド内のやりとりで、矛盾が出ないように記録は残していると思ってたけど……これは、想像以上だね」
その声には、感情を抑えきれない怒気が滲んでいた。
グレンが彼女と視線を交わすと、リュアはまっすぐに言った。
「……とにかく、この帳簿があれば、ベイルを捕まえることができる」
その決意のこもった声に、グレンも静かに頷いた。
そのとき――リュアの魔導印が微かに震えた。
小さな光が浮かび、緊急通信の符号が表示される。発信者は――レイ。
《緊急:ベイルがギルドを爆破する意図あり。黒フードの男から魔道具を受け取った。会話の詳細をレグナムが確認》
「……っ!」
リュアは息を呑み、顔を上げた。そして、すぐに隣のグレンを振り返る。
「ベイルがこのギルドを爆破するって! レイから……!」
グレンの目つきが鋭くなり、すぐに扉の方へと視線を移した。
だがその瞬間――
空気の流れが変わった。
「……結界の反応……?」
リュアの視線が宙を彷徨う。彼女の魔力感知が、ギルド全体を覆うような大規模な結界の存在を捉えていた。
「広範囲……この建物全体を包んでる……!」
すぐにグレンが記録室の出入り口に向かい、慎重に扉を開いた。
「……廊下にも結界が何か所も貼られてるみたいだ」
その言葉と同時に、ふたりの体を異変が襲う。
リュアの眉がぴくりと動いた。
「……これは……」
「魔力が……結界に奪われてる」
グレンが低く告げたその言葉に、リュアはすぐさま頷いた。
「しかも、かなりの量……。これだけの広さに結界を張って、内部の魔力を吸収してるってことは――」
言葉を継がずとも、ふたりに同じ予感が走る。
これは、ただの封鎖ではない。
「広間に急ごう!」
リュアは風の魔力を集中させ、扉を塞ぐ結界へ向けて鋭く放つ。強い風の一撃が結界を一瞬で貫き、扉の向こうへと風が駆け抜けた。
それを合図に、ふたりは記録室を飛び出した。
広間には、多くの冒険者が――何も知らぬまま、取り残されている。
***
――同時刻、ギルド広間。
そこは冒険者たちの歓談と笑い声に包まれていた。
盛り上がりはすでに最高潮に達し、酒杯が次々と交わされるたび、騒がしさも熱気も増していく。
卓の上には豪華な料理が並び、演奏者の奏でる軽快な旋律が広間の空気を一層賑やかにしていた。
その一角――壁際に陣取ったフローネの面々だけは、浮かれた雰囲気から距離を置いていた。
「……支部長、祝賀会には参加しないつもりか……?」
ロイが低く呟き、グラスを軽く揺らす。
彼の視線は、広間を見渡すように動きながらも、出入り口の方へとたびたび戻っていた。
「緊急の呼び出しが入ってるわけでもないのに、まだ姿を見せないって……」
シルフィは落ち着かない様子で細く息を吐く。
「一体……何を企んでるんだろう……」
「……祝賀会だって、奴の企画だっただろ」
エイドの声には、かすかな警戒が混じっていた。
壁にもたれたまま腕を組み、彼は周囲の喧騒とは無関係に、空気の微細な変化を探るように目を細めている。
アナスタシアは、じっと広間を見渡していた。
冒険者たちの笑顔。職員の談笑。そこに不自然さはない――けれど、彼女の表情には冴えない影が差していた。
その時――
ふと、空気が微かにざわめいた。
アナスタシアの瞳が、はっと大きく開かれる。
「……っ、これは……!」
彼女の中に宿る聖属性の魔力が、異質な気配を捉えていた。
その直後、泥酔した様子の冒険者が、ふらりと扉の方へと歩いていく。
「あぁー……ちょっと、外の空気でも……」
よろよろとした足取りのまま、扉に手をかけて開けようとした瞬間――
「いてっ!!」
突然、彼の額が“何か”にぶつかった。
ぐしゃっと額を押さえながら、その場でふらつく。
「な、なんだ……? 今の……?」
冒険者は扉の向こうに手を伸ばし、そのまま戸惑いながら押し当てる。
そこには、透明な壁のような“何か”が存在していた。
彼は酔ったまま、押したり叩いたりしてみるが、それは動く気配すらなかった。
「……聖属性の大規模結界……!?」
アナスタシアが声を震わせる。
広間の外側に、強い聖属性の結界が展開されていたのだ。
その強度、範囲、精度――すべてが異常だった。ギルドという大規模な建築全体を覆うには、並の術者では到底扱えない魔力量が必要だ。
彼女は急いで扉に駆け寄ろうとしたが、そのとき――
「……あれ……?」
「う、動け……な……い……?」
広間の至る所で、異変が始まっていた。
立ち上がろうとした冒険者がふらつき、椅子に手をついたまま崩れ落ちる。
別の者は、その場に座り込んで荒い息を吐いていた。
ひとり、またひとり――広間の冒険者たちが、次々と力を失っていく。
「なっ……?!」
アナスタシアは立ち止まり、周囲を見渡した。
ロイがかろうじて立っていたが、苦しげに額を押さえている。
エイドは片膝をつき、シルフィは机に手をついて、必死に倒れまいとしていた。
「魔力が……吸われてる……!」
ロイの声がかすれた。彼の体からも、確かに魔力の流出が起きていた。
それはまるで、広間そのものが魔力を吸収しているかのような、異様な感覚だった。
冒険者たちの中には、床に倒れたまま苦しげに呻く者もいる。
職員の一部は、すでに意識を失っていた。
「魔力を奪って、結界で俺らを閉じ込めて……」
エイドが歯を食いしばりながら言う。
「一体、何をする気だ……」
「もし……魔力が切れたら……」
シルフィが、顔を上げてアナスタシアを見た。
「何か起こっても……どうしようもないよ……!」
豪華に飾られた祝賀会の広間。
その景色は今や、悪夢のように沈黙し、荒れ果てた空気へと塗り替えられていた。
アナスタシアは唇を噛み、そして――怒りを滲ませた声でつぶやいた。
「ベイル……どうしてこんなことを……!」
その瞬間――
――ズンッ!!
視界が白く染まり、広間は激しい閃光と衝撃に包まれた。




