沈黙の街15
リュアはすぐさま駆け寄り、膝をついて青年の傷に目を走らせた。
腕から胸にかけて深い裂傷が走り、土と血にまみれた服が濡れていた。
だが、リュアの目はその下にあるもの――危険域に達しつつある出血量と、急激に落ちかけている意識の兆候を即座に見抜いていた。
「《天癒〈セレスティア・ヒール〉》!」
その声とともに、リュアの掌から放たれた光が青年の体を包み込む。
淡い光が波紋のように広がり、傷口を覆っていく。血がぴたりと止まり、裂けた皮膚がふさがり、肉が徐々に元の形を取り戻していった。
苦しげだった呼吸が落ち着き、青年の顔から苦悶の色が引いていく。しばらくすると、彼の身体は目に見えて軽さを取り戻していた。
「……え?」
青年は自分の手を見下ろし、次いで腕や胸元をまじまじと見つめた。
痛みは引き、動きに支障もない。まるで――何事もなかったかのように。
信じられない、と言わんばかりに目を見開いていた。
「……キミの仲間は、どこ?」
リュアは柔らかな声でそう問いかけた。
その瞳には、確かな決意の光が宿っている。
青年ははっと我に返り、震える指で南の方角を差し示した。
「南の旧道沿い……古い石橋の先の遺構に、地下階段があって……そこに、みんなが!」
「迷宮の奥の方に行くと、クエスト票の記述よりも……はるかに強くて、多い量の魔物が現れて……!」
その声は震え、言葉の端々には焦りと後悔が滲んでいた。
「お願いだ! あいつらを助けてくれ! ……みんな、大事な幼馴染なんだ……! 誰ひとり、置いてきたくなかった……!」
リュアは真っ直ぐに彼を見つめたまま、静かに頷いた。
「大丈夫。必ず、助けるよ」
その声は短く、けれど何よりも強く――青年の胸に染み渡るようだった。
そのやり取りを横で聞いていたグレンに、リュアはそっと視線を送る。
グレンは何も言わずに頷き返す。
「行こう」
その一言に、青年は息を整えながら立ち上がり、足元を確かめるように一歩踏み出す。
「……こっちです!」
振り返った青年が、強くなった眼差しで道を指し示し、先導するように走り出した。
その背を、リュアがすぐに追いかけ、グレンもまた、無言のまま足を踏み出した。
ミリア、レイ、サーシャの三人も視線を交わし、わずかに頷くと、力強くその後を追った。
空は晴れているのに、空気はどこか張りつめている。
確かな足音が、広場を抜け、石畳の上を駆けていく。
***
リュアたちは南の旧道を駆け抜け、道沿いにある古びた石橋へと辿り着いた。
橋の先には、崩れかけた石造りの建物――旧魔導文明の遺構が、ひっそりと佇んでいた。
中へ踏み込むと、空気は一変した。
苔むした階段を下り、石造りの通路を進んでいくと、次第に肌を刺すような魔素が漂い始める。光も届かない闇の中、五人の足音だけが響いていた。
やがて――その場所は、現れた。
迷宮の奥、半壊した石の祭壇が残る小部屋。その中心で、一人の少女が、ひざをつきながら必死に結界を張っていた。
年の頃は十七、八。若い術者の少女が張る結界は、淡く蒼白い光を放ちながら、ひび割れた床にかろうじて展開されていた。
魔力の乱れと疲労の色が濃く、その姿には限界が近いことが明らかだった。
その背後には、二人の仲間が倒れている。誰もが満身創痍で、意識の有無すら怪しい。荒い呼吸と呻き声が、かすかに響く。
結界の外側では――鋭い牙と爪を持つ大型の魔物たちが、何体も蠢いていた。
漆黒の体毛を逆立て、低く唸りながら、結界の周囲を執拗に叩き続けている。
強靭な四肢と鋭い動き――熟練の冒険者でも油断できない気配が、空気を刺すように満ちていた。
「っ……だめ……もう、持たない……っ!」
聖術師の少女が、苦悶の声を漏らす。
結界の揺らぎが激しくなり、魔力の流れが急激に不安定になり始めていた。
――崩れたら終わる。私が、守らなきゃ……でも、もう魔力が……
視界がにじみ、意識がかすむ。それでも彼女は、必死に指先を震わせながら術式の制御を続けていた。
誰かが来るかもしれない。あと少しだけ……あと少しだけでいいから……
祈るような想いが胸を締めつける。けれど、限界はすぐそこまで迫っていた。
そのとき――。
「《天癒〈セレスティア・ヒール〉》!」
凛とした声とともに、柔らかな光が部屋に満ちた。
リュアが駆け込むと同時に、光の波が床を滑り、倒れた冒険者たちの身体を包み込んでいく。
透き通るような光が、傷口をなぞるように滑り、ひび割れた骨や荒れた魔力の流れを静かに繋ぎ合わせていく。
その光はただ淡く、穏やかに――乱れた命の輪郭を整える力があった。
呻き声が和らぎ、顔色がゆっくりと戻っていく。
聖術師の少女が目を見開いた。
「っ……あなたは……!」
身体が楽になり結界が一時的に安定する。何が起きたのかと、彼女が背後にいるリュアを見つめた。
リュアはその前にしゃがみ込み、真っ直ぐにその瞳を見つめ返した。
「よく頑張ったね。――あとは、私たちに任せて」
その声は、静かで、そして温かかった。
少女の瞳が、涙で滲んだ。
「……っ……お願い、します……!」
リュアはすでに双剣を抜いていた。
「ミリアたちは冒険者達の避難を!」
その声と同時に――魔力の限界を迎えていた聖術師の結界が、淡い光を散らして砕けた。
展開されていた魔力の膜が霧のように消え失せる。
咆哮が、空気を裂いた。
漆黒の魔物たちが、一斉に襲いかかってくる。
リュアは即座に前へ出た。
風の魔力を纏った双剣が、空気を裂いて閃く。
滑るように魔物の懐へ飛び込み、鋭い一閃がその胴を断ち切る。
続く一体の突進を跳躍でかわし、空中で反転――交差した双剣が首筋を切り裂いた。
切り裂かれた魔物は呻く間もなく崩れ落ちる。
さらにもう一体が襲いかかる。
リュアは低く沈み込んで回避しつつ、一太刀で足を裂くと、体勢を崩した敵に刃を走らせた。
風の軌道が描かれ、倒れ伏す魔物たち。
その圧倒的な速さと力に、周囲の魔物たちは徐々に動きを止め、様子をうかがうように距離を取った。
「こっちに! 通路の奥へ!」
ミリアの声が響く。
彼女たちは冒険者たちへと駆け寄り、通路の安全な場所へと誘導を始めた。
冒険者たちはすでに回復しており、自らの足でしっかりと立ち上がっている。
ルセリアの三人は後方を見守りつつ、隊列が乱れないように目配せを交わし、冷静に誘導を続けていた。
リュアはなおも魔物の群れを前に立ちはだかり、風を纏い続けている。
空気がうねり、足元の魔力が揺れ動く――それは、さらなる大技の兆しだった。
だが、そのとき。
「風だと、ここではやりにくい」
グレンがリュアの背に立ち、低く静かに告げた。
「闇魔法で一気に片付ける」
リュアは一瞬だけ肩越しに彼を見やり、頷く。
そして数歩、後方へと跳び退いた。
「《深淵葬〈アビス・レクイエム〉》」
重々しい詠唱と共に、空間が黒く塗りつぶされる。
闇の奔流が床を満たし、壁を伝い、天井から滴るように降り注ぐ。
まるで世界そのものが、深淵に呑まれていくかのようだった。
魔物たちは咆哮を上げる暇もなく、その波に呑まれる。
鋭い肢体が闇に裂かれ、魔素ごと浄化され、魔物の存在はひとつ、またひとつと霧散していく。
やがて、静寂が戻る。
リュアが静かに息を吐き、双剣を腰の鞘へと戻す。
グレンは剣を肩に担ぎながら、周囲に気を配るように視線を走らせ――短く言った。
「……終わったな」
リュアも、無言で頷く。
言葉など、もはや必要なかった。




