試練の証明2
街道を抜け、都市の門を越えてからは、人の気配が一気に濃くなった。
石造りの道を踏みしめる足音が交差し、広場には人のざわめきが満ちている。
焼きたてのパンの香ばしさと、張りのある商人の呼び声が混ざり合い、空気は忙しなく動いていた。
冒険者や旅人が行き交う石の街――それは、熱と生の鼓動をそのまま街路に映したような光景だった。
そんな喧騒の中心に、ひときわ重厚な建築がそびえていた。
無駄のない直線で構成された、黒灰色の石造り。幾層もの階層を持ち、正面にはギルドの紋章が刻まれた巨大な鉄扉。
《冒険者ギルド・セントレア本部》
ここが、リュアの所属するギルドの拠点であり――ふたりの“報告の場”でもある。
扉をくぐれば、広々とした吹き抜けのロビーが現れる。
クエストボードの前でクエスト票を確認する者、談笑する冒険者、奥の窓口に列を作る依頼主たち。
魔導照明が空間を照らし、空気は熱と声に満ちていた。
その入口で、グレンの足がふと止まる。
無言のまま、周囲を見渡す。
表情は変わらない。声も出さない。ただ、淡々と視線を巡らせるその姿には、どこか“馴染まない空気”があった。
まるでこの空間が、彼だけ“別の世界”であるかのように――
リュアは横に立ち、彼の様子を静かに見やった。彼がこの“現代”の熱気に触れ、何を思うかはわからない。
けれどそれでも――一歩ずつ、進もうとしているように見えた。
ロビーを抜け、ふたりは受付の前で足を止めた。
木製のカウンターの奥では、数名の職員たちが忙しく書類を整理し、時折、冒険者たちと短い会話を交わしている。
その中のひとりに、リュアが軽く手を上げた。
「ただいま。例の調査、無事に終わったよ。ディアスのところへ直行するから、手続きは後でいい?」
職員の女性はその声に顔を上げ、リュアを見た途端、ほっとしたように目を細めた。
「おかえりなさい。……了解です。ディアス様には、すでに報告が届いています。どうぞ、奥へ」
慣れた手つきで許可証を取り出しながら、ちらりとリュアの隣に立つ男へと視線を送る。
深紅の瞳に、黒を纏った長身。無言で周囲を見渡すその佇まいに、職員の表情が一瞬だけ固まる。
――だが、何も問わずに頭を下げた。
「ご同行の方も、ご一緒にどうぞ」
リュアは頷き、静かに歩き出す。
グレンもまた、その背に続いた。
階段を上がって長い廊下を進み、執務室の前まで来ると、リュアはノックもせずに扉の取っ手を回した。
「ただい――」
「お前なぁぁぁぁぁッ!!」
扉を開けた瞬間、怒声が爆音のように飛んできた。
ドンッ!という音とともに、執務机がわずかにきしむ。怒りに任せて拳を振り下ろしたディアスが、烈火のごとく立ち上がっていた。
「うん、やっぱりそう来たか」
リュアは心底慣れた様子で笑い、なんのためらいもなく室内へと足を踏み入れた。グレンはほんのわずかに目を見開いたが、すぐに落ち着いた様子でリュアに続く。
「調査から戻っただけで、そんな鬼の形相しなくても」
「鬼じゃねぇ!俺は常識人だッ!!」
ドスドスと床を踏み鳴らしながらリュアに詰め寄ると、彼女の頬を片手でぐいとつねりあげた。
「ふぁ、ふぃふぁいっ……!」
情けない声を上げるリュア。しかしその頬が引きつるなかでも、どこか嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「まったくお前は……胃に穴開くかと思ったわ……」
言葉とは裏腹に、ディアスの目元に浮かんだのは、安堵の色だった。
「封印が解けるだけでも十分すぎる厄介ごとだったのに……」
ディアスはようやく手を離し、デスクの向こうへ戻ると、グレンの姿にちらりと視線を送ったあと、リュアの肩をぐらぐら揺らす。
「“一緒に冒険したい”って何だ!? 魔法か!? 呪いか!? それとも自我が崩壊してんのか!?」
「じゃあ、“正気に戻るおまじない”でも考えておいて」
「済まねぇんだよ、おまじないじゃ!!」
突き刺すような怒声と、投げやりな嘆き。だがそれもまた、無事に帰ってきた証であり、ほっと胸をなで下ろす瞬間でもあった。
リュアは頬をさすりながら、少しだけ肩をすくめて見せた。
その様子を、部屋の隅で静かに見つめていたグレン。
深紅の瞳に、変化の色はほとんどない。
だが、言葉が飛び交い、表情が動き、感情がぶつかり合う――そんなやり取りを前に、彼の視線がわずかに揺れた。
誰も刃を抜かず、怒声も敵意ではなく、どこか温度を持ったやり取り。
その一連の光景は、彼にとってあまりに“異質”だった。
壁際に立ったまま、何も言わず、ただ黙って見つめている。
けれど瞳の奥に、ごくかすかな“戸惑い”が滲んでいた。
リュアへの文句を一通り言い終えたディアスは、グレンの方へと視線を向けた。
「で、この男が――グレン・ルシェイドか」
問いかけというより、確認のような低い声。
グレンは、わずかに顎を引いて頷いた。表情に変化はない。
「……報告書は読んだが、正直、信じがたかったぞ」
椅子に体を預けながら、ディアスが肩を落とす。
「まさか、“魔王”とされて封印されていた人間だったとはな……」
その言葉に、リュアが一歩前へ出る。
瞳はまっすぐにディアスを見据えていた。
「うん。結界領域から戻ってきてからの数日、一緒に過ごしてみて――間違いなく“人間”だったよ」
ディアスはわずかに眉を寄せる。
「……どうして、そう言い切れる?」
リュアは一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと顔を上げる。
瞳には、揺るぎない確信の光が宿っていた。
「もし、グレンが“魔王”だったら――」
そう口にして、胸元にそっと手を当てる。
「――私は、とっくに殺されてる」
静かな断言。そこに虚勢も演出もなかった。
「……マジかよ」
ディアスがぼそりと漏らし、苦笑を浮かべた。
世界最強のSランク冒険者――リュア・ゼフィラが、“敵わない”と口にした相手。
もしそれが、伝承通りの“魔王”であったなら――
「……さすがに瞬殺されるとは思わないけど」
リュアは肩をすくめ、少し口元を緩める。
「魔法も剣も、私じゃ勝てない」
「……なら、ほんとに“魔王”だったら、この国は終わってたな……」
ディアスは深くため息をついた。口調は軽いが、その眼差しは真剣そのものだった。
しばらく沈黙が流れたのち、ディアスが深く息を吐いた。
「だが……」
言葉を選ぶように、わずかに間を置く。そしてグレンの方を向き、重い声で問うた。
「魔王と決めつけられ……誰にも理解されずに生きてきた。そんな中で、お前は――人を憎まなかったのか?」
その問いに、グレンの瞳がわずかに揺れる。
深紅の瞳が、初めて静かに大きく見開かれた。
答えようとして、けれど言葉が出てこない。喉が動くだけで、声にならないまま沈黙が落ちる。
リュアがそっと隣に歩み寄る。
「グレン……」
その声音は、まるで何かをすくい上げるように柔らかかった。
「今、思ってること――そのまま話していいよ」
グレンはしばらくのあいだ視線を落とし、そして、ほんの少しだけ口を開いた。
「……すまない」
かすかな吐息のような言葉。目を伏せたまま、続ける。
「……なんて話したらいいのか……わからない」
その声に、かつての冷ややかさはなかった。
ゆらぎを見せた表情。困惑、そして――戸惑い。
無表情だったその顔に、初めて人間らしい“揺れ”が滲んでいた。
長い時間、感情を言葉にせずにきた者の、拙く、真っすぐな反応。
ディアスはその様子を黙って見つめると、わずかに眉をひそめ、椅子の背にもたれた。
「……報告書の内容がすべて事実だとしたら……まあ、そうなるか」
その声に、責める色はなかった。理解と重さを含んだ、年長者の本音だった。