沈黙の街4
店内の一角、専門書が並ぶ棚の前で、グレンの指がぴたりと止まった。
背表紙には、金の細い文字で《自然魔法応用論》と記されている。その下には、著者名――《ノーラ・エルクレア》。
何気なく手に取り、数ページをめくる。
構文理論、属性の相互作用、そして“自然現象としての再現性”という観点からの考察が、緻密な言葉で綴られていた。
「……風と水の干渉による電位差生成。仮定として、雷に似た放出現象……か」
低く呟いたその声に、微かな興味が滲む。
隣で同じ本を覗き込んでいたリュアが、ふと小さく首を傾げる。
その気配を感じたのか、グレンは視線をページから外し、問いかけた。
「今は……風と水みたいな、違う属性を組み合わせて使う魔法って、普通に使われているのか?」
リュアは一瞬考えるように目線を泳がせたあと、ゆっくりと首を横に振る。
「ううん。少なくとも、私は聞いたことがないよ。属性の混合って、昔から“理論上すら難しい”って言われてるくらいで、実践なんて到底無理だって」
グレンは再び本に目を落とす。
火と風を用いた旋風性の熱流操作、水と土による粘性流体の制御、そして風と水による放電反応の可能性――
それらを、現象としてではなく“魔術として成立させる構文の可能性”として、理論的に構築していた。
しばしページを滑らせたのち、グレンはわずかに目を細めた。
「……よく書けている」
その一言は、静かでありながら確かな評価を含んでいた。
空論ではない。実地での試行や既存理論の批評も含まれており、基礎と応用の接点を追い求める筆致には、読み手への誠実さすら感じられた。
「それ、面白そう?」
隣から覗き込むリュアの声に、グレンは本から視線を上げる。
「ああ……自然の属性を組み合わせて、きちんと“魔法”として成立させようとする考え方は……少なくとも、俺の時代にはなかった」
そう答える彼の目には、静かな光が宿っていた。
グレンは一度、手の中の本を見下ろす。
《自然魔法応用論》――表紙は地味だが、内容は濃く、単なる理論の羅列ではない。
魔力配分や構文設計、属性干渉にまで踏み込んだ分析が綿密に記されていた。
(……これを書いた者は、相当に研究している)
わずかに目を細め、開いていたページを丁寧に閉じ、そのまま本を持ってカウンターへと歩き出す。
「買うの?」
リュアが問いかけると、グレンは小さく頷いた。
「……理論としての完成度が高い。試す価値はある」
「へぇ……」
リュアはグレンが手にしたその本を見つめる。その瞳に宿るのは、興味と探究心。
そしてすぐに、声を弾ませて言った。
「そっか。ちょっと難しそうだけど……読み終わったら、私にも貸して?」
その一言に、グレンはふと本を持ち直し、視線をリュアに向けた。わずかに静けさを帯びた頷きには、確かな肯定と、どこか柔らかな響きがあった。
「……お前なら、すぐ理解するだろう。内容は、理詰めだ」
それは、彼なりの肯定と信頼だった。
リュアは嬉しそうに笑い、小さく頷いた。
「うん、ありがとう。……楽しみにしてる」
グレンは黙って本を差し出し、レジの店主に代金を渡す。簡素な包みにくるまれた本を受け取り、その重みを左手に収めた。
それは知識の重さであり、同時に――共有の始まりでもあった。
***
宿屋の一室。柔らかな灯りのもと、リュアは簡素な机に向かっていた。
魔道印を通じてギルドと通信するためのプレートに、指先で言葉を綴っていく。
公的な報告書ではない。あくまで、信頼する一人――ディアスへの、私的な記録だった。
「今日は、いろいろあったよ」
最初の一文を打ち込むだけで、自然と頬がゆるむ。
視線の先には、今日という一日が鮮やかによみがえっていた。
「ミリア、レイ、サーシャとも再会できた。三人とも元気で、ちょっと泣きそうになった。変わってないところも、変わったところも、全部嬉しくて」
一文ごとに、指が滑らかに動き、文字が浮かび上がっていく。
その頬には、どこか穏やかな微笑が浮かんでいた。
「グレンが、あのグレンが……ミリアに頼まれて焦っててね。私、ちょっと驚いたかも。冷静そうに見えて、案外そうでもないのかなって」
「それに、本が好きだってことも知った。読んでる時が落ち着くって。……なんとなく、わかる気がしたよ」
そのあたりでふっと息をつき、手を止める。
魔道印から浮かび上がるプレートに滲んだ言葉の余韻に、しばし目を細めた。
だが次の瞬間、リュアの表情がほんの少しだけ、静かに引き締まる。
「……ただ、薬草の件だけは、気がかりかな」
指先が、より慎重に動き始める。
「支部での対応が、明らかに遅い。施療院の人たちも困ってた。もしかして……わざとじゃないよね?」
問いかけるように綴ったその一文に、迷いが滲んでいた。
遊び心も、懐かしさも含んだ最初の文章とは違い、その筆致には明らかな警戒と疑念が混じっている。
「もしかすると、何かが裏で動いてるのかもしれない。……明日、もう少し様子を見てみるつもり」
それだけ綴ると、リュアはゆっくりと背もたれに身を預け、小さく息を吐いた。
楽しい一日の終わり――だが、心のどこかに、微かなしこりが残る。
静かな夜の帳が降りるなか、魔道印の光だけが、リュアの決意を淡く照らしていた。
***
レーンハル冒険者ギルドの食堂隅――。まだ陽が落ちる前の時間帯、数人の冒険者たちが、酒の代わりに口を動かしていた。
「なあ、聞いたか? あのリュア・ゼフィラが、男と組んでるって話」
「は? 誰とだよ? あいつ、ずっと一人でやってきたんじゃなかったのか?」
「マジだって。名前は……確か、《アークノクス》ってパーティ名だったかな。なんか大剣を持った黒い剣士と一緒に薬草取りしてたって、施療院のやつが言ってた」
「黒い剣士……? どこぞの成金野郎か、魔導実験の失敗作かって噂もあるぜ。妙な気配だったとかなんとか」
「……にしても、リュアがパーティを組むとはな。何かあったのかねぇ。“崩れ”の兆しか?」
「強い奴ってのは、結局“独りじゃ無理”って気づく時が来るんだよ。いくら剣が速くても、信念なんてのは、背負いすぎりゃ折れる」
誰かが鼻で笑い、誰かが黙ってそれを聞く。漂うのは憶測と、少しの羨望と、そして――滑稽な安心感。
そのざわめきは、廊下の奥へと続くギルド支部長室の扉まで届くことはない。
――だが。
「……ふふ、ふふふ、ははははっ……!」
部屋の中、ひとり笑う男がいた。
――ベイル・ファルゼン。レーンハルギルド支部長。
年齢は五十歳前後、長身で体格が良く、真っ直ぐな姿勢が威圧感を放つ。年齢に見合った浅い皺を刻みながらも鋭い顔立ちは、表情をより厳しく見せる。
深紅を帯びた暗褐色の髪は左側へ流して低く結ばれ、手入れの行き届いた艶を保っていた。
深い紫色の瞳は不気味に光り、冷たい執念と狂気が渦巻く。視線は鋭く不安を煽り、その奥に潜む危険な意図を隠そうともしない。
暗紺色のハイカラーのコートには、肩から裾にかけて絡み合う蔦のような精緻な刺繍が施され、ねじれた不気味な影を形作っていた。
「いいぞ……やはりお前も、その程度か。“理想”にすがり、“連携”に頼り、“信頼”を口にする。……英雄面の冒険者どもが、どこまで墜ちるか……この目で見届けてやろうじゃないか」
椅子から身を乗り出し、指先で机を軽く叩く。
「リュア・ゼフィラ、そしてその相棒。貴様らがどんな信念を掲げようと、この街の“現実”が、それを喰い尽くす。冒険者の理想など、欺瞞の装飾にすぎん」
ベイルは嗤う。
それは、冒険者という存在すべてに向けた、否定の哄笑だった。




