沈黙の街3
ミリアが肩を落とした直後、リュアがふと思い出したように声を上げた。
「そうだ。火魔法の操作なら――グレンが得意だから、教えてもらうといいよ」
あまりにも自然に放たれたその言葉に、ミリアはぴたりと動きを止めた。
「えっ……グレンさんが……? 本当に!?」
ぱっと顔が明るくなり、驚きと期待が入り混じった声。
琥珀色の瞳が輝きを増すと、勢いよくくるりと振り返ってグレンの方を向く。
「ぜひ! ぜひお願いしますっ!!」
声と同時に勢い任せに深く頭を下げ、バランスを取るためにつま先立ちになり、両腕を横に広げる。
「……は?」
一拍遅れて、グレンが困惑を押し殺すように眉をぴくりと動かした。
視線が宙をさまよい、やがてじわりとリュアへ向く。
「ちょっと待て。……おい、リュア」
低く、しかしどこか焦った声。顔だけこちらに向けながら、思わず声を潜める。
「……俺が、人に何かを“教える”だと? そんなこと、できるわけないだろうが……!」
わずかに眉をひそめ、困惑を隠しきれない視線が一瞬だけ逸れる。
混乱を振り払うように、無意識に身を乗り出し、リュアの耳元に近づいた。
「頼むからやめてくれ。俺はそういう……面倒な……いや、繊細な……いや、なんというか……!」
視線を泳がせながら、手はわなわなと宙を彷徨う。
一方、当のリュアは――
「いけるって。グレンなら」
にっこりと、満面の笑み。
「だってほら、魔力の扱い、いつもすごく丁寧だし。教えるのも、きっと得意だよ!」
さらりと放たれた言葉に、グレンはついにこめかみを押さえる。
伏せられた目元に影が落ち、吐息とともにわずかに肩が沈む。
「……あの、俺も少しだけ……風魔法の制御、見てもらってもいいですか?」
ミリアの横で、レイが落ち着いた声ながらもわずかに緊張を帯びて口を開いた。
「最近、戦闘中に風圧の制御が甘くて……狙いが散ることがあるんです。弓と合わせるときの魔力の乗せ方とか、何かアドバイスもらえたらって」
続いて、サーシャも胸元で手をぎゅっと握りしめる。
「わ、私も……魔力操作の基礎や、戦場での位置取りとか……教えてほしくて……」
次々と飛び出す希望者に、嫌な予感が走り、グレンは肩をこわばらせたまま固まった。
気づけば、視線は自然とリュアへ――だが彼女は悪びれるどころか、楽しそうにうなずいている。
「ちょうど明日の朝、訓練場を使う予定なんだ」
リュアが軽く片手を腰に添え、柔らかく微笑む。
「よかったら、そのときに私とグレンで、みんなの動きも見てあげるよ」
「やったーっ! 明日が楽しみすぎる!!」
ミリアが歓声を上げ、レイとサーシャも嬉しそうに頷く。
――その光景を、グレンはほんのわずかに眉を引きつらせながら見つめていた。
(……今、私とグレン、って……言ったよな?)
『あいつの隣は、きっと馬鹿みたいに大変だぞ』――かつてのディアスの言葉が脳裏に響く。
(……おいディアス。大変って、こういう意味だったのか……?)
爽やかな風が吹き抜ける中、彼の内心には嵐の気配が満ちていく。
諦めと困惑と、ほんの少しの覚悟をないまぜにしながら、グレンは小さくため息を吐いた。
***
薬草採集を終えたリュアとグレンは、三人と別れて街の道を歩いていた。
陽は傾き始め、空には夕焼けの赤がにじみ始めている。
レーンハルの街並みはその光に照らされて、石畳や屋根の縁が淡く金に染まり始めていた。
「……なんだか、今日は濃い一日だったね」
並んで歩きながら、リュアがふと漏らす。
その声には、再会の喜びと、懐かしい感情をひとつひとつかみしめるような余韻があった。
「おかげで、明日は俺にとって気が重い一日になりそうだ……」
グレンはぼそりと呟き、肩を落とす。
リュアはそれを聞きながら、くすっと小さく笑った。けれどその笑いには、どこか嬉しそうな響きも混じっていた。
やがて、宿のある通りが見え始めたころ。
ふと、グレンが足を止めた。
その視線の先には、一軒の本屋があった。
飾り気のない看板と、整然と並ぶ背表紙が窓越しに見える。人通りの少ない通りに、どこか静かな空気を湛えていた。
「気になる本でもあった?」
リュアが立ち止まり、問いかける。
「……いや。ちょっと寄っていってもいいか?」
グレンの静かな問いに、リュアは一瞬だけ目を瞬かせる。
だがすぐに、にこりと微笑んで頷いた。
ふたりは並んで本屋の扉へと向かう。
夕暮れの静けさの中、軽やかな鈴の音を立てて、木の扉がゆっくりと開かれた――。
本屋の扉を押し開けると、かすかに紙とインクの匂いが鼻先をくすぐった。
中は思いのほか広く、棚が几帳面に並べられている。新刊よりも定番書や専門書が中心らしく、華やかさはないが落ち着いた雰囲気に満ちていた。
窓から差し込む夕光が木の床に斜めの影を落とし、棚の背表紙を穏やかに照らしている。
背の高い本棚が通路を挟んで並び、各棚の端には「魔法理論」「歴史・地誌」「冒険録」など、手書きの札が控えめに掲げられていた。
店の奥には小さな机と椅子が置かれ、数冊の本が読みかけのまま積まれている。どうやら、閲覧用のスペースも兼ねているようだった。
店主の姿は棚の陰に隠れていたが、店内に満ちる静けさは、むしろそれが当然の空気のように感じさせた。
本の世界にだけ許される、時間の止まったような空間――。
本の匂いに包まれた静かな空間の中で、グレンはゆっくりと足を進めながら、棚の背表紙を順に見ていく。
指先が、慣れたような仕草で一冊の書をなぞる。魔導理論、魔物の生態、古代の封印術に関する記録――どれも専門的な装丁だが、その手つきには迷いがなかった。
そんな様子を、リュアは少し後ろから見守っていた。
不思議そうに首を傾げながら、小さく問いかける。
「ねえ、グレンって……本、よく読んでたの?」
問いかけに、グレンの手がふと止まる。
しばらく黙ったあと、背表紙から視線を外さずに静かに答えた。
「……幼いころから、まともな教育を受けさせてもらえそうになかったからな。それで、村にあった小さな図書館にこもって、本を読んでいた」
リュアはその答えに目を瞬かせる。
グレンは一歩進みながら、別の棚へと向かい、低く続けた。
「“魔王に似ている”というだけで、村を追い出されて……生きていくために必要な知識も、誰かが教えてくれることはなかった。
だからそれからも、本に頼るしかなかったんだ。……読み続けて、少しずつ世界を埋めていった」
その声には、怒りも悲しみもなかった。ただ淡々と、事実をなぞるような静けさだけがあった。
リュアはほんの少しだけ口を結び、その横顔を見つめる。
「……でも、落ち着くんだ。本を読んでるときだけは」
それは、彼にとっては唯一の安らぎだったのだろう。
知識を得るためだけではなく、自分という存在を受け入れる場所として。
リュアは静かに頷いたあと、ふと問いかけを変える。
「じゃあ、小説とかも読むの?」
グレンは少し考えるように視線を棚に向けたまま、言葉を選ぶように答える。
「……人と関わる機会がなかったからな。どういう言葉で感情を表すのかとか、人がどう考えるのか……そういうのは、物語の中で見て、推測していった」
言い終えたあと、グレンは手に取っていた本のページをめくる手をふと止める。
その視線が、一瞬だけリュアの方へ向けられた。
「それが、正しいかどうかは分からない。だが……そうするしかなかった」
その声音は、淡々としている。けれど、どこか静かな誇りのようなものが滲んでいた。
リュアはその横顔を見つめたまま、そっと息を吐く。
本を通して、人を学ぶ。それは決して“普通”ではなかったかもしれないけれど――
「……だから、ちゃんと話せるんだね」
ときどき不器用で、無口で、距離の取り方もぎこちない。
けれど彼の言葉には、いつも人を傷つけまいとする配慮がある。
目を逸らさず、聞いたことには答えようとする誠実さがある。
きっと彼は――ずっと、本の中で“人”を見つめてきたのだ。
触れることも、交わすこともできないその向こう側で、彼なりに誰かを理解しようとしてきた。
リュアが小さく頷いたとき、ふいにグレンが視線を棚から外した。
「……そういえば」
ぽつりと漏れた声は、木の床に反響してわずかに柔らかく響く。
「……これまで読んだ物語で、復讐を果たした者が救われた例なんて……ほとんどなかった」
彼はゆっくりと歩を進めながら、指先で背表紙をなぞる。
「悪役が勝って終わる物語もあった。だが、そういうのも結局は悲惨な幕引きになる」
棚の影が頬をかすめ、瞳に淡い夕光が揺れる。
「……そういう結末を見てきたせいか、人に復讐するって行為は……ろくな結果を生まないって、自然と刷り込まれていたのかもしれない」
リュアはその言葉を静かに受け止め、視線を本棚の隙間から差し込む光へ向けた。
「たしかにね。物語に限らず、現実の世界でも……そういう印象があるな」
淡く笑うその声には、ほろ苦い色が混じっていた。
グレンは小さく息を吐き、背筋を伸ばす。
「そうやって……復讐をしないって選択ができたなら――こんな方法でも、意味はあったのかもしれないな」
その横顔には、過去を見据えながらも、わずかに安堵の色が差していた。
リュアはその言葉を聞きながら、ふっと目を細めた。
胸の奥で、何か温かいものがゆっくりと広がっていく。
復讐を選ばないというその姿勢が、彼の中で当たり前のように息づいていることが――ただ、嬉しかった。
「……そっか」
短く漏らした声は、どこか温もりを含んでいた。
「そういう考え方……すごく、いいと思う」
そう言って、リュアはわずかに口元を緩める。
彼の視線が一瞬こちらに向くと、夕暮れの光を受けたその水色の瞳は、やわらかな輝きを宿していた。
グレンは何も言わなかったが、その沈黙は不思議と重くはなかった。
静かな本の匂いと、二人の間に流れる穏やかな空気だけが、ゆっくりとその場を包んでいた。




