試練の証明29
ディアスはふと視線を落とし――記憶の底に沈んでいた、あの日の情景を、ゆっくりと引き上げていく。
「……あれは、俺にとっても、忘れられない日だった」
言葉とともに、空気が揺れる。
その日は静かな朝だった。迷いのないノック音が、ギルド本部長室に響いた。
そして、まっすぐに扉が開かれる。
入ってきたのは、まだ十七歳だった頃のリュア。
そこに浮かぶ色は澄んでいて――どこか冷たい。
彼女は迷いなく机へと歩み寄り、一冊の古びた資料を音もなく置いた。
その表紙には、かつて存在した特別階級の名が記されていた。
『昔、Sランク制度ってあったんだってね』
それは、あまりに強すぎて組織に収まりきらなかった者たちのために設けられた称号――すでに公式には廃止された、幻の制度だった。
『つまり――私も、そこに行けばいいんでしょ』
静かに、しかし揺るぎない声だった。
目だけが、鋼のように強く、確かな意志を宿していた。
「……無茶だろ」
ディアスは小さく息をつき、ほんのわずかに眉を下げ――そして、苦笑いを浮かべた。
しかし、リュアは少しだけ唇の端を持ち上げ、子どもっぽい笑みすら浮かべて――
『じゃあ、こうしようか。今、この国にいるAランク冒険者――全員に勝てたら、“それに見合う称号”をちょうだい』
それは、一見すればただの戯言。
けれど、リュアの力を知る者にとっては――決して、夢物語ではなかった。
「……結局な。俺も、上層部も、それを止めきれなかった」
数日後。
ギルド本部の名のもとに、各地のAランク冒険者たちが集められた。
重要任務中の者を除いて、招集に応じたのは三十数名。いずれも各地で名の通った実力者たちだった。
対するリュアは、たったひとり。
混乱を避けるため、試験は一対一の連戦形式で始まった。
場所はギルドの地下訓練場。
その中央に立つ少女は、誰とも目を合わせず――ただ、自分の足元だけを見つめていた。
一人目、二人目、そして十人目、二十人目―― 剣も魔法も、すべてが正確だった。
判断も速く、動きも洗練されていた。
一つひとつを、驚くほど淡々と、完璧にこなしていく。
「途中で息切れするかと思った。けど、あいつは……魔力切れの兆しすら見せなかった」
そして、ある瞬間――リュアは静かに顔を上げ、試験官に向かってこう言った。
『もう……まとめてかかってきていいよ……』
その言葉が放たれたとき、試験官たちの間で判断が下された。
――これ以上、一対一を続ける意味はない。
力量差は明白で、残る者たちもいずれ同じ結末を迎えるだろう。
形式は、対複数戦へと移行した。
だが、それでもなお――
「それでも、あいつは止まらなかった。相手の数が増えても、手数も、精度も、まるで落ちなかった」
次々と迫る猛者たちを前に、リュアの戦いぶりは一貫していた。
鋭く、静かで、そして、完璧だった。
そして――最後の一人を退けた、その瞬間。
「……全員を倒しきったときのあいつの顔が、忘れられない」
勝者の誇りも、歓喜もなかった。
そこにあったのは、ただ――
「どこか、グレン。……お前と似ていたんだよ。あの時の顔」
それは、孤独を知る者の顔だった。
“もう誰も、自分と並んで戦えない”という現実を、静かに、当たり前のように受け止めていた――そんな表情。
語り終えたディアスの声が、ふと途切れる。
グレンは、黙ったままその話を受け止めていた。
ふたりの間に、ゆっくりと静寂が落ちる。
似た痛みを知る者だけが辿り着ける、深い沈黙――
そこに、言葉では語れない理解が、確かに漂っていた。
部屋を満たしていたディアスの語りが一段落し、ギルド本部長室に再び静けさが戻った。
グレンは窓の方へ視線を向けた。
その目は、窓の外にある光景ではなく――遠い過去、まだ言葉にならない記憶を見ていた。
……生まれたときから、俺の周りには、誰もいなかった。
家族はいたが、まともに話した記憶はほとんどない。
育てられたというより、ただ五年、生き延びさせられただけ――そんな感覚しか残っていない。
誰かを想う、という感情さえ知らなかった。
大事な人を失う痛みなど、理解する機会すらなかった。
けれど――
リュアと出会ってから、少しだけ、わかる気がしてきた。
彼女が危険な目にあうと想像したとき、胸の奥に、何かが痛んだ。
それは理屈ではなく、感覚としての“喪失の予感”だった。
しばしの沈黙のあと、グレンは小さく息を吐き、ぽつりと口を開いた。
「リュアは……なんであんなに、まっすぐなんだ?」
問いかけた声は、無意識の吐露のように低く静かだった。
今の話を聞けば聞くほど、彼女の明るさや笑顔が不思議でならなかった。
あれほどの過去を背負いながら、なぜあそこまで真っ直ぐでいられるのか――。
ディアスは一瞬だけ目を細め、ふっと息を吐くように笑う。
「……昔、あいつが言ってたんだ。突き詰めれば、どんなことも、挑戦するか、諦めるか、の二択なんだってな」
「挑戦か、諦めか……?」
グレンが小さく眉を寄せる。
ディアスは肩を竦め、目線をテーブルに落とした。
「“自分がこうすると決めたことに突き進むか、下を向いて黙って立ち止まるか。その二つしかないんなら、私は進み続ける方を選ぶ”……だとよ」
その言葉に、グレンは黙って目を伏せた。
胸の奥で、その響きを何度も噛みしめる。
……進み続けるか、立ち止まるか。
それだけの話なら、俺も、同じだった。
たとえ誰にも必要とされなくても。
たとえ、大事な人なんて最初からいなくても。
――ただ、生きることだけは、やめなかった。
だが、リュアは違う。
誰かを想い、誰かを守れず、それでもなお――前に進もうとしている。
その強さの在り方が、グレンの胸に重くのしかかった。
「……あいつは、どうしてそんなふうに歩けるんだ。そんなにも強く……」
吐き出すようなその言葉は、疑問というより、胸の奥から滲み出た実感だった。
頭では説明できない。ただ――その在り方が、まっすぐ心に刺さっていた。
グレンの問いに、ディアスはふっと肩の力を抜いた。
「……あいつは、強いんじゃない」
口調は軽い。だが、そこに滲んだ感情は、決して軽くなかった。
「ずっと、弱い自分に負けないようにしてるだけさ。……怖くても、傷だらけでも、前に進もうとする。ただの――意地っぱりだよ」
その言葉には、確かな実感がこもっていた。
グレンは、黙ってその声に耳を傾ける。
ディアスは少しだけ視線を遠くへ向けるようにしながら、記憶の糸を手繰るように続けた。
「一度だけ、弟子を取ったことがある。若い三人組でな」
「あいつ、最初は“教える気なんてない”って突っぱねてた。けど、話を聞いてるうちに……放っておけなくなったらしい」
「しぶしぶ引き受けたくせに、結局は本気で向き合ってさ。……教えるうちに、自分も変わっていったんだよ」
そこでディアスは、ほんの少し微笑を浮かべた。
「自分が強いだけじゃ足りないって、気づいたんだろうな。人に何かを伝えるなら、自分もまっすぐでいなきゃって――」
「……そうやって、誰かの前に立とうとするたびに、あいつは少しずつ、強くなっていったんだと思う。そういうやつなんだよ」
グレンは無言のまま、視線を落としていた。
けれどその目は、はるか遠く、まだ見ぬ過去のリュアを見つめていた。
“誰かのために強くある”――
それは、彼にとって、持ち合わせていなかった価値観だった。
「……あいつ、めちゃくちゃ負けず嫌いでさ」
ディアスの声が、少しだけ茶化すような調子に戻る。
「自分の限界なんて、まるで信じてねぇ。おまけに頑固ときた。いったんやるって決めたら、誰が止めようと聞きゃしねぇ」
その言葉に、グレンの目がふと細められる。
何かが、胸の奥でわずかに引っかかった。
「……初めて会った時、結界領域で……俺が立ち去ろうとしたとき、リュアが言ったんだ。“嫌だ”って」
ディアスが、わずかに目を見開いた。
「……あいつが?」
グレンは黙って頷く。
「“待って”でも、“行かないで”でもなく、“嫌だ”と言っていた……」
その言葉を思い出す彼の声音には、どこか微かな温度が宿っていた。
その時は、ただのリュアの反応に思えた。
けれど今なら、少しだけ、わかる気がする。
「っはははっ、ははははっ……!」
唐突に、ディアスが大声を上げて笑い出した。
肩を揺らし、椅子からずり落ちそうになりながら、豪快に笑い続ける。
「ほんっと、頑固だな、あのバカ!!」
笑いながら、涙が滲むほどに顔をしかめる。
「そうだよ、それ! まさしくそれがリュアなんだよ!」
グレンは、やや呆気に取られながらも、その様子を黙って見つめていた。
「エングレイブのときも、“嫌だ”って言ってたしな。……そういうところは、本当に素直だよ、あいつ」
ディアスは笑いながら、どこか誇らしげにそう言った。
それはただの笑いではなかった。
長年彼女を見守ってきた者にしかできない――確かな“誇り”の色を帯びていた。
しばらくして、ディアスは大きく息を吐き、ようやく笑いを収めた。
そして、少しだけ表情を落ち着かせ、ふっと眉を下げる。
「……けど、だからこそ、すげぇ無茶もするし、引かない」
そして、冗談めかしてニヤリと笑う。
「あいつの隣は、きっと馬鹿みたいに大変だぞ」
その目は、ギルド本部長としてではなく――
彼女の"父親"としてのそれだった。
「……いろいろ話したが、これはギルド本部長じゃなく、俺個人としてのお願いだ」
その言葉に、グレンはわずかに視線を向ける。
ディアスは真っ直ぐに彼を見つめ――そして、静かに言った。
「リュアは、弱音を吐かず、辛さを見せず、ただ“自分がこう”って思ったことに、たった一人でまっすぐ突き進んでしまう」
「自分がどうなろうとも、どれだけ傷つこうとも……止まらない」
「そんなあいつを、もう――一人にしないでやってくれ」
その願いには、誰よりも彼女の歩みを見守ってきた者としての、切実な祈りが滲んでいた。
グレンは、一瞬だけ目を見開いた。
そして、静かに、けれど真剣な表情で頷く。
その姿に、ディアスはほっとしたように息を吐き――そして、嬉しそうな、どこか少し寂しげな微笑みを浮かべた。




