試練の証明19
魔導装置の周囲では、数人の技術職員たちが静かに、だが慌ただしく動いていた。魔導陣の接続を確認する者、記録装置の調整をする者、魔力安定結晶の照度を測る者。
すべては、これから始まる“干渉”のための準備だった。
グレンは、その中央に向かって、ゆっくりと歩みを進めていく。
球体の下には、淡く発光する円形の装置――“受容の陣”が設けられていた。彼の足がそこへ踏み込むと、魔力が反応し、陣の縁が静かに光を帯び始める。
ディアスが短く告げた。
「……開始」
瞬間、床に刻まれた魔導陣が明滅し、グレンの身体がふわりと宙に浮かび上がる。
重力が緩やかに喪失し、彼はまるで空間そのものに支えられているかのように、ゆっくりと球体の中心へと導かれていく。
拘束はない。だが、自由もなかった。
まるで見えない何かに包まれ、空間そのものに“縛られている”――そんな感覚だった。
リュアは思わず息を呑み、拳を握りしめる。
隣のカイルもまた、沈黙のままその光景を見つめていた。
――《エングレイブ》が、作動を開始する。
球体の外縁に刻まれた複雑な魔導陣が、一斉に起動を始めた。
幾重もの光が交差し、空間が軋むような異音を発する。
そして――
「……っ、ぐ……あ……っ!」
宙に浮かぶグレンの身体が、びくりと大きく震えた。
次の瞬間、彼は頭を抱え、身体を激しく捩らせる。
空気が震えるほどの苦悶が、彼の全身からにじみ出ていた。
脳を直接焼かれるような痛み。
意識の奥底、理性のさらに深層を、冷たい針が幾重にも突き刺してくるようだった。
過去、記憶、感情――すべてが一斉に流れ込み、混線し、境界を失っていく。
その苦悶の光景に、リュアは一歩、無意識に踏み出しかけた。
だが、すぐにディアスの手が静かに彼女の肩を押さえる。
目は前を見据えたまま――だが、その表情には、わずかな険しさが滲んでいた。
球体の外郭に浮かぶ魔導式円盤が変化を始める。
それは記録結晶へと姿を変え、淡い光をたたえ始めた。
――記録の映写が、始まった。
初めに現れたのは、黒く沈んだ空と、断崖の風景だった。
重く垂れ込めた雲、冷たく湿った風――
その中心に、ひとりの青年が立たされていた。
黒曜石の祭壇。その中央。
彼の手足には魔導鎖が巻きつけられ、動くことすら許されていなかった。
魔力が、少しずつ、だが確実に、身体から抜け落ちていく。
祭壇の周囲には、数十人の魔導師らしき者たちが円を描いて並んでいた。
彼らは低く、重い詠唱を唱えている。呪いのような響きが、風に混じって祭壇を包んでいく。
青年――グレンの記憶の中の彼は、必死に首を振り、叫んだ。
「やめろォォォォッ……! 俺は……魔王なんかじゃない! 違う……違うんだッ!!」
声が空気を裂き、風が巻く。
祭壇の刻印が明滅を始め、黒曜石の表面に淡い紫光が走った。
魔力が暴れ、光の奔流が空間を満たす。
耳をつんざく魔力音。閃光。焼けつくような熱――
グレンの視界が、白く染まりはじめる。
身体は徐々に硬直し、足元から黒曜石に呑まれていく。
まるで自身が石の棺に取り込まれていくようだった。
――それでも。
彼は、最後の一瞬まで目を見開いていた。
まっすぐに、何かを求めるように視線を向け、全力で叫んだ。
その目は苦悶に歪みながらも、否を叫び続けていた。
すべてを拒絶するように。
絶望に抗うように。
視界が、音が、感覚が、すべてを失っていく。
“封印”の瞬間が、静かに、しかしあまりに鮮烈に――魂の奥から浮かび上がってくるように、記憶の像となって現れていた。
次に映し出されたのは、古びた木造の集落だった。小さな家が並ぶ村の広場。その一角に、ぽつんと立つ小さな少年の姿があった。
年の頃は五歳ほどだろうか。赤い瞳と黒い髪を持つ少年――幼いグレンだった。
その小さな身体は痩せ、服は泥にまみれていた。周囲には同年代の子どもたちが何人かいたが、誰一人として彼に近づこうとはしない。
むしろ、意図的に距離を取っていた。
「ねえ、あの子……魔王の子なんだって」
「ほんと? じゃあ、目を合わせたら呪われるんじゃ……」
「しっ! 聞こえちゃうよ!」
怯え混じりの囁き声が、どこからともなく聞こえてくる。
その視線。その声。すべてが小さな少年を拒絶していた。
幼いグレンは、何も言わなかった。ただ、じっと立ち尽くしていた。声を上げることも、逃げることもせず、誰とも目を合わせないように、うつむいて。
次の瞬間、場面が大きく切り替わる。
夕暮れの村。赤く染まった空に、不穏な咆哮が響いていた。
地鳴り。悲鳴。逃げ惑う村人たち。――村に魔物が襲来したのだ。
広場を横切って逃げる人々の中に、まだ幼いグレンの姿があった。恐怖に染まった瞳。だが彼は逃げない。ただ、その場で震えていた。
――そのときだった。
魔物のひとつが、彼に向かって跳びかかる。
絶叫が上がるかと思われたその瞬間。
黒。
空気がねじれ、漆黒の魔力が爆発的に奔った。
幼いグレンの身体を中心に、黒い奔流が渦を巻き、魔物へと一直線に突き刺さる。
ドン、と乾いた音を立てて、魔物が吹き飛ばされた。
的確に、致命の一点を撃ち抜いていた。
――だが。
村人たちは静まりかえり、その場に立ち尽くしていた。
少年はまだ震えていた。何が起きたのかもわからぬまま、その手に宿った黒い光を見つめていた。
「やっぱり……見たか?」
「……ああ、間違いない。あれは……魔王の力だ」
「もう、だめだ……」
誰かがそう呟いた瞬間――人々は、一斉に彼から背を向けた。
恐怖と拒絶の視線だけを残して。
グレンの顔が、ゆっくりと下を向く。
――誰も、近づいてこなかった。
再び、記憶が切り替わる。
今度は、獣道のような荒れた小道だった。
まだ六つか七つほどに見える、小さな影が、ひとりきりで歩いている。
粗末なマントを羽織り、片足を引きずるようにして進むその姿。
顔や腕には擦り傷、足には痣。小さな身体には、疲労と痛みが滲んでいた。
草むらをかき分ける音が聞こえる。
その直後、茂みから飛び出してきたのは、小型の魔物だった。牙を剥き、少年に襲いかかる。
逃げる時間はなかった。
咄嗟に、腰の短剣を抜く。
ぎこちない手つき。技術などなかった。ただ必死に、手を振るう。
ナイフはかすり、魔物の動きが鈍る。
だがすぐに反撃が――
その瞬間だった。
黒い魔力が、かすかに彼の周囲に揺らいだ。
まるで本能に導かれるように、それは一閃――空気を裂き、魔物の目前で炸裂する。
魔物が怯え、吠える。
そして、後ずさりしたまま、逃げるように森の奥へと消えていった。
グレンはその場に崩れ落ちる。
小さな身体が震えていた。寒さでも、恐怖でもなく――ただ、すべてに耐えてきた疲労の色。
彼は腕を抱え、膝を抱えるようにして、丸くなる。
曇天の空から吹きすさぶ冷たい風が、少年の髪を揺らしていく。
その中で、誰に届けるでもない声が、ぽつりと落ちた。
「……生きる、んだ……絶対……」
かすかな声。けれどその言葉だけが、彼を支えていた。
――孤独な、生存の誓い。
そして、また場面が変わる。
草むらの向こうから、小さな悲鳴が響いた。
「たすけてっ……!」
魔物に追われ、転んだまま立ち上がれない子どもがいた。
その前に、黒い影が素早く飛び込む。
フード付きの黒いコート。その下から抜き放たれた大剣が、無音のまま閃く。
一瞬。血飛沫すらない。
魔物は何が起こったのかもわからぬまま、その場に崩れ落ちた。
子どもは呆然としたまま、地面に座り込む。
しかし、助けた人物――グレンは、すでに背を向けていた。
草陰へと身をひそめ、遠巻きに様子を見守る。
ほどなくして、ひとりの母親が駆け寄ってきた。
泣きながら子どもを抱きしめ、無事を喜ぶ姿。
その光景を見届けたグレンは、小さく息を吐いた。
そして、何も言わず、草の中へと静かに踵を返す。
背中はどこまでも孤独だった。
だがその歩みに、ほんのわずかだけ――安堵の気配が、滲んでいた。
光の幕が、再びゆらりと揺れた。
次の映像は、暗がりの中に浮かび上がる。
そこにいたのは、またしても――幼いグレンだった。
まだ幼さの残る顔。だがその表情には、深い恐怖が刻まれていた。
混乱の渦中にあったのだろう。背景には、崩れかけた木柵、焦げた地面。燃え残りの灰が風に舞い、辺りにはかすかに煙の匂いが漂っていた。
村に魔物が襲来した直後――。
人々が避難し終えた直後の、あの混沌の裏側。
グレンは、ひとりきりで立ち尽くしていた。
その前に、男がひとり、立ちはだかっていた。
筋張った腕。握られた剣。その男の顔には、歪んだ怒りと恐怖と、諦めのようなものが入り混じっていた。
――彼の父親だった。
男は、そのまま剣をグレンに向けた。
躊躇はなかった。迷いもなかった。
そして、低く、重たい声が放たれる。
「もう関わるな……あれは“魔王の子”だ」
言葉が、夜の空気を裂いた。
「生きていれば、いずれ人を殺す。今のうちに――!」
鋭く、剣がわずかに持ち上がる。
だが、それを止める者はいなかった。
――そこに立っていた母親さえも。
彼女はただ、その場に立ち尽くし、夫の背後から静かに見守っていた。
顔には感情の色がなかった。否定も肯定もしない、無の表情。
まるで、最初から答えなど決まっていたかのように。
「……っ!」
幼いグレンの表情が歪む。
身体が小さく震え、足が一歩、二歩と後ずさる。
それでも倒れまいと、必死に立っていた。
恐怖に染まった瞳のまま、彼は両手を前に差し出した。
細い腕。傷の残る手のひら。
その指先が、剣先を拒むように、ふるふると宙を押し返す。
「父さん……母さん……」
その声は――
現実から響いた。
映像の中ではなく、今この瞬間、《エングレイブ》の内部で苦しむグレンの、実際の声だった。
リュアが、はっと顔を上げる。
「……っ、今の……」
息を呑み、グレンを見上げる。
(いまの声……記憶の中のじゃない……)
球体の中心。
魔力光に包まれたその中で、グレンが呻きながら、かすかに身をよじっていた。
焦点の合わない瞳が宙をさまよい、意識はどこか遠くへと沈んでいる。
それでも――彼の唇が、はっきりと動いた。
「僕は……魔王じゃない……っ……殺さないで……」
まるで幼子のように、弱く、細く、必死に訴えるような声だった。
リュアは拳を握りしめたまま、動けなかった。
その声は、苦痛の叫びでも、怒りでもない。
ただ、助けを求めるような――
“人として生きたい”と願う、幼い少年の叫びだった。
球体の中のグレンは、なおも苦悶に身を震わせていた。
過去という名の痛みに呑まれながら、なお、もがき続けていた。




