災厄の烙印と名を呼ぶ声2
「……キミは、人間だね」
静かな、けれど迷いのない声だった。
問うのではない。確認するように。確信に似た眼差しが、青年の瞳をまっすぐに射抜く。
青年の表情が、わずかに揺れた。
“人間”という言葉を向けられた瞬間の、ほんの一拍の沈黙。 その瞳には――驚きというより、静かな困惑が宿っていた。
思いがけず掘り起こされた記憶の底を、かすかに覗かれたような、そんな揺らぎ。
だが、彼の口は何も語らない。
ただ、無表情の奥で、ごくわずかに眉が動いた。
リュアはそんな彼を見つめたまま、ほんの少し、微笑を浮かべる。
「私は、リュア・ゼフィラ。アストリア王国のギルドに所属してる冒険者――今は、唯一のSランクって呼ばれてる」
肩の力を抜くように、ゆっくりと自己紹介する。語尾に少しだけ、冗談のような響きを混ぜて。
青年は、その名を噛みしめるように小さく繰り返した。
「……リュア」
そして、再び沈黙が落ちる。
名乗るという、ただそれだけのことに、青年はわずかに躊躇した。
表情は変わらない。だが――その指が、ごく微かに動いた。 剣の柄にも、鎧にも触れず、ただ空を払うように。
それは、無意識の防衛反応か、あるいは過去の記憶を振り払おうとする仕草。
けれど、彼は決断する。
何かを押し込めるように、視線をリュアに向け直し、短く答えた。
「……グレン。グレン・ルシェイド」
その名には、ためらいの痕跡が残っていた。
だが、隠そうとしないその声音には、不思議な潔さがあった。
リュアはゆっくりと、グレンに歩み寄る。
距離を詰めた彼女は、そっと問いかけた。
「……どうして、こんな場所で封印されていたの?」
声は柔らかく、まっすぐだった。
好奇心でもなく、疑いでもない。知りたいという、ただそれだけの想いが乗っていた。
グレンの瞳が、わずかに伏せられる。 答えをすぐに返すことはなかった。
まるで言葉を選ぶように、あるいは……口にすること自体をためらっているかのように。
その沈黙を破ったのは、静かな問いだった。
「……なぜ、お前はそんなふうに話しかける?」
そこに込められたのは、明らかな“違和感”だった。
「私は冒険者だよ。人を助けるのが、私の仕事なんだ」
リュアは微笑みながら、言葉を返す。
グレンの中で、その言葉は確かに――心のどこかに届いていた。
だが、その眼差しはどこか曇っている。
何かを見ようとして、けれど見ないようにしているような――そんな迷いが、そこにはあった。
これから語ろうとする“過去”を、自分の中で押し出すための、沈黙。
そして、静かに言葉が零れる。
「……かつて、俺は“魔王の再来”だと、勝手にそう名付けられた」
「幼いころから、赤い瞳、黒い髪、闇の魔力――そのどれもが“災厄の証”だとされていた」
「俺が何者かを問われることはなかった。ただ、“恐れるべき存在”として村を追い出され、最後は封印された……」
感情を抑え込むように、静かに語った。 叫びも、怒りも、恨みもない。
ただ、過去をなぞるように淡々と紡がれたその言葉の中には、どこか遠くを見つめるような、諦めの色が滲んでいた。
リュアの胸の奥が、かすかにざわめいた。 幼い頃から何度も耳にしてきた“伝説”。 この世の理を歪めた存在として語られていた“魔王”の封印――
けれど今、目の前にいるのは、ただ静かに、自分の過去を語るひとりの人間だった。
(……魔王じゃなくて、魔王“とされた”人だった?
……誰も、グレン自身を、見ようとしなかったの?)
唇が、わずかに震える。
けれど彼女は、まっすぐに想いを乗せた言葉を紡いだ。
「さっきキミは――守るために力を使っていた。そんなキミは、どう考えても"人間"だよ」
グレンは何かを言いかけて――けれど、言葉にはならなかった。
(……守るために、力を使った……?)
そんなふうに言われたのは、初めてだった。
リュアの言葉から、否定でも憐れみでもない、“まっすぐな意志”感じた。
それは、これまでの人生で触れたことのなかった温度だった。
自分の力が、“誰かのため”に見えたことなど、一度もない。
心の奥に、形のない何かが、ほんのわずかに揺れた。
けれど、それを認めるには――あまりにも遠すぎた。
彼は、生まれた時から“魔王”だった。正体など問われず、人間として接してくれる者などいないまま、災厄の象徴として封印された。
その中で学んだことは、ただひとつ。
――関わらなければ、傷つけも、壊されもしない。
だからこそ、誰とも交わらずに生きてきた。
今ここで、その距離を越えてしまえば――
その秩序は、あっけなく崩れてしまうかもしれない。
彼はふと視線を伏せ、わずかに息を吐いた。 その揺らぎごと、沈めるように。
そして、静かに背を向ける。
「……行く」
その声には、余計な感情はなかった。
ただ、淡々とした響き――けれど、そこには長く染みついた諦めと距離が滲んでいた。
「どこへ……?」
リュアの問いに、彼は振り返ることなく答える。
「誰にも期待しない。誰にも望まれず、ひとりで在ればいい……それだけだ」
それは、自分を拒絶してきた世界との、唯一の“和解”だったのかもしれない。
彼はゆっくりと踵を返し、祭壇の前から離れようとする。
その動きに、迷いはなかった。 いや――迷いを押し殺しただけだった。
背中に残る、誰かの声を振り払うように。
――何も残さず、何も関わらずに。
それが、彼が四百年前に学び、身に染み込ませた“在り方”だった。
だが――
「――嫌だっ!!!!!」
リュアの叫びが、張り詰めた空気を裂くように響いた。 胸の奥から突き上げた衝動が、言葉になってあふれ出たのだ。
――ただ、行かないでほしかった。 理屈も、立場も、正しさも関係ない。
気づけば、言葉になっていた。
その言葉は、真っ直ぐに彼の背を射抜いていた。 グレンの足が、止まる。
ゆっくりと振り返ったその表情には、はっきりとした驚きが浮かんでいた。
まるで、“そんなふうに”自分を呼び止める者がこの世にいるとは思ってもみなかったかのように――。
「……なぜだ」
かすれたような声で問うグレン。
その声音には、確かな困惑と、かすかな怯えの色すらあった。
リュアは一歩踏み出す。
瞳に、迷いなんてなかった。
「私には、キミの力が“希望”に見えた」
グレンがわずかに眉をひそめた。
「……俺は、“魔王の再来”だと思われていた存在だぞ」
その言葉を口にした瞬間、ほんのわずかにグレンのまぶたが伏せられる。
それは、何度も口にしては“感情”を殺してきた痕跡――、自分すらも慣れてしまった烙印だった。
怒りでも自嘲でもない。
ただ、長い間貼り付けられてきた“レッテル”を、そのまま口にしたような無感情な響き。
「……お前、本気で言ってるのか?」
無表情の裏に、戸惑いがかすかに透けて見えた。
けれど、リュアのまなざしは真っすぐだった。
むしろその目は、より強く、確信を宿して彼を見据えていた。
「誰にどう思われていたかなんて、私は気にしない。
私が見たのは、“今”のキミ。私を守ってくれた、キミの姿なんだ」
拳を握りしめ、一歩踏み込む。
「わからなくてもいい。今は、ね」
声の調子は落ち着いていたが、その瞳には強い意志が宿っていた。
「……グレン」
一度だけ、名を呼ぶ。
その声音には、強い祈りにも似た真剣さがこもっていた。
「私は信じてる。 キミのその力には、未来を変える価値がある。
もっと多くの人を、絶望から救える力が――確かに宿ってるって」
グレンは、ゆっくりと顔を上げた。
その言葉が、確かに心の奥に届いた証のように。
リュアは大きく息を吸い込んで、晴れやかな笑顔を浮かべた。
まるで夜明けのように明るく、まっすぐだった。
「だから――私と一緒に、冒険しよう……!!」
その言葉には、希望と信頼、そして未来を信じる強い意志が込められていた。
ただ“歩く”のではない。 ただ“隣にいる”のでもない。
共に戦い、共に旅し、世界を変えていく仲間になろう――
そう語るような、力強い誘いだった。
沈黙が落ちる。
グレンは、その言葉を飲み込むように静かに目を閉じた。胸の奥に、知らないはずの“感覚”が灯る。
――誰かと共に在るという可能性。
今までの人生には存在しなかったはずの温度。
触れたことのない言葉が、まるで初めての風のように心を揺らす。
ゆっくりと目を開けると、リュアの笑顔が、まっすぐに彼を見ていた。
強い光のようなその眼差しに、彼はほんの一瞬だけ視線をそらす。
だがそれは拒絶ではない。
まるで心の奥に刺さった“何か”を、そっと取り出すような仕草だった。
その胸に宿った小さな温度に、自分でも戸惑いながら――
グレンは、かすかに息を吐き、ぽつりと呟いた。
「……勝手にしろ」
それは、ぶっきらぼうな言葉だった。
けれど確かに、“共に歩むこと”を許す、小さな肯定だった。
その瞬間、リュアの口元がゆるんだ。
ふっとにじんだ安堵と微笑みが、胸の奥に静かに灯る。
それは、確かに“届いた”という証。
小さく、けれど満ち足りた笑顔だった。
これは、かつて“災厄”と呼ばれた者と、誰かの“光”であろうとした者が紡ぐ、まだ誰も知らない物語。
やがて世界を揺るがす旅の、ほんの始まりにすぎなかった。