試練の証明16
前の話の、試練の証明15の後半が追加されていますのでご注意ください。(2025/7/24)
夜の帳がすっかり降り、グリーダ村は静けさに包まれていた。
宿屋の灯りも消え、窓の外に続く通りには人の気配がない。
リュアは、ベッドの端に腰掛けたまま、じっと俯いていた。
今日一日を、頭の中でゆっくりと反芻していたのだ。
「……影喰」
その名を、口の中で確かめるように呟く。
「……あれは、倒したというより、“消えただけ”。完全に終わった感覚はなかった」
ひとつひとつ、記憶の断片を拾い集めながら、言葉が漏れていく。
「何かが残ってる……そんな気がする」
わずかに眉を寄せ、次の思考が浮かぶ。
「あのとき、グレンの魔力に起きた揺れ……。あの干渉は、一体……」
そこまで言って、リュアはそっと頭を振った。
思考が深く沈む前に、自分を切り替えるように立ち上がる。
「……ちょっと夜風に当たろうかな」
静かに上着を羽織り部屋から出て、宿の扉に手をかける。
きしむ音が立たぬよう注意しながら開けると、外には冷えた夜気が流れ込んできた。
彼女はそっと一歩を踏み出し、闇へと身を委ねる。
夜の村は、まるで時間が止まったかのように静かだった。
どこか遠くから、虫の声が微かに聞こえる。
空を見上げれば、雲ひとつない空に、無数の星が瞬いていた。
まるで、今日という日をやさしく見送ってくれているかのように。
リュアは、自然と足を止める。
そして、ひときわ輝く星を目で追いながら、そっと微笑んだ。
(……こんな夜でも、ちゃんと星は見えるんだ)
その思いが、胸の奥でじんわりと広がる。
少しだけ、心が軽くなる気がした。
そのときだった――
「リュア?」
低く、けれど柔らかな声が背後から届く。
リュアが振り向くと、宿の入口に立っていたのはグレンだった。
戦闘時の装備ではなく、落ち着いたラフな服装に身を包み、後ろで束ねていた髪もほどいていた。
どこかいつもより穏やかな印象を与えるその姿に、リュアの目がわずかに丸くなる。
「グレン……キミも、夜風にあたりに?」
「……妙に、頭の中が静かじゃなくてな。歩いていた方が、整理できる気がした」
返ってきたのは、いつものようにぶっきらぼうでありながら、どこか含みのある声だった。
リュアは、ふっと肩の力が抜けたように笑う。
「……せっかくだし、一緒に散歩でもしよっか」
グレンは黙って頷くと、彼女の隣へと静かに歩み寄った。
ふたりは並んで、夜の村道をゆっくりと進む。
風が木々を撫で、遠くで犬の遠吠えがひとつだけ響いた。
それ以外には、ふたりの足音と、夜の静寂が広がるばかりだった。
言葉はない。だが、その沈黙が不思議と心地よい。
グレンは時折、ほんのわずかに歩幅を変えていた。
それが無意識のものか、意図的なものか――リュアには分からない。
けれど、それがどこか“優しさ”のように感じられて、自然と頬が緩んだ。
ふたりはふたたび、空を見上げる。
無数の星が、変わらずに瞬いている。
言葉がなくとも、初めて出会ったあの時より――ほんの少し、距離が近づいた気がした。
リュアは、ちらりと隣を見やった。
無表情ではあるが、数日前までの張り詰めた気配は、もうない。
ほんのわずかに眉が和らぎ、目の奥は落ち着いていて、どこか安心感すら漂っていた。
その気配に、またひとつ、笑みがこぼれる。
しばらくして、ふと視線が重なる。
リュアが小さく微笑みながら、口を開いた。
「なんか、こうして並んで歩くの、変な感じだね」
その言葉に、グレンはほんの少し首を傾けた。
「そうか?」
「うん。……でも、最初は、ずっと緊張してるのかなって思ってたから」
「……ああ。間違ってはいない」
グレンは歩みを止めず、少し遠くを見るようにして言葉を続けた。
「封印が解けた直後は、見るものすべてが変わっていた。音も、匂いも、人の気配も……どこか現実じゃないようで」
「それに……人として話しかけられたのも、あの時が初めてだった。――追放されて以来、なかったことだったからな」
「……混乱しないほうが、おかしいくらいだ」
リュアは前を見ながら、ふっと小さく息を吐いた。
「……でも、戦ってるときは違って見えたよ」
「誰かを助けるの、すごく自然だった。私を守ってくれたときも、あの男の子を助けたときも、少しの迷いもなかった」
その言葉に、グレンはわずかに目を伏せる。
そして、言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話し始めた。
「……俺は、“魔王”だと恐れられてきた。けど――周囲の人々は、普通に暮らしていたんだ」
「家族で笑い、仲間と語らって……そういう日常を、当たり前のように過ごしていた」
「……きっと、それが“普通の人間”の生き方なんだと思う」
そこで少し言葉を切り、夜空を見上げた。
「そういう日々は、奪われちゃいけない。……守られるべきものだと、ずっと思ってた」
リュアは、その言葉に目を見開いた。
「……そんなふうに、人の幸せを“守られるもの”って思えるなんて……すごいよ」
そして歩みを止め、前方を見つめながら、静かに
――けれどまっすぐに問いかける。
「でも……悔しくなったりしなかった?」
「なんで自分だけって、悲しくなったこと、なかったの?」
グレンも足を止め、リュアの方へと向き直る。
その表情には、いつになく真剣な色が宿っていた。
「悔しさがなかったわけじゃない。……自分だけ、どうして、とは何度も思った」
「でも……俺が恐れられてたのは、見た目と魔法のせいだ。俺が何かしたわけじゃない」
「当時は魔王の言い伝えは一般的に知れ渡っていた。怖がるのは、仕方のないことだと……思うようにした」
淡々とした口調。けれど、そこには過去を受け止めるために必要だった時間と葛藤が滲んでいた。
「嘆いても、何も変わらない」
「だったら、この力を少しでも“誰かを守るため”に使った方が……まだ、マシだった」
「積極的に誰かを助けたいと思ったわけじゃない。けど――目の前で困っている者がいれば……動かずにはいられなかった」
そして、最後に――少しだけ、目を伏せながら言葉にした。
「……そうしなきゃ、いつか本当に、“魔王”になってしまいそうで……怖かったんだ」
それは――ギルドの長、ディアスに問われたときには言えなかった言葉だった。
心の奥にしまい込んでいた、長い孤独の中で育まれた、たったひとつの「恐れ」。
今ようやく、彼はそれを言葉にすることができた。
リュアは、その言葉にゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、優しさと尊敬の色が混ざっていた。
「……優しいんだね、グレンは」
その一言に、グレンはわずかに視線を逸らした。
褒められることに慣れていない者の、静かな戸惑い。
けれどその顔には、どこか穏やかな安堵の色も浮かんでいた。
そして、彼は小さく息を吐き、視線を戻す。
「……俺も、一つ、質問していいか?」
グレンの低い声が、夜の静けさを優しく揺らした。
リュアは、少しだけ驚いたように顔を向け、そしてすぐに柔らかく頷いた。
「もちろん」
その一言に、グレンはわずかに目を伏せ、ほんの少しだけ間を置いてから、前を見たまま問いかけた。
「――どうしてお前は、“冒険者になってみないか”ではなく、“一緒に冒険しよう”と言ったんだ?」
それは、あの初対面の日。
彼女がかけた、たった一言への疑問だった。
“力”として認められたことは、理解している。
けれど――それだけでは、旅の仲間として誘う理由にはならない。
(……同情か? 俺が“ひとり”だったからか?)
言葉にはしなかったその疑念が、グレンの胸に、いまだ小さく残っていた。
リュアは、すぐには答えなかった。
「……そうだね……」
少しの間を置いてから、ぽつりと問いかける。
「結界領域で、私が“唯一のSランク”って話したこと……覚えてるかな?」
「ああ。覚えている」
グレンは短く頷く。
リュアは、小さな苦笑を浮かべた。
「……Sランク、さ。ほんとに、私しかいないんだ」
その言葉には、ほんのわずかに滲んだ孤独があった。
「……お前と同程度の実力がある人間が、いないということか」
「そう。共に戦える仲間が、いなかったの」
リュアは、夜道を見つめながら言葉を続けた。
「……私の力に、合わせてもらうっていうのは、いつもすごく難しくて」
「誰かを守るつもりが、逆に無理をさせてしまうこともあった」
「だから、ひとりで動くのが当たり前になってたんだ」
その声は寂しさを帯びながらも、過去を語る静けさがあった。
そして、彼女はふとグレンの方を見やった。
ニッと、少しだけ茶化すような笑みを浮かべる。
「だけど……キミに出会った」
「規格外の魔力量、そして、洗練された魔力操作による、質の高い魔法――思わず見とれてしまったよ」
グレンは視線を少し伏せる。
「……あの時、とっさに魔法を放ったが……俺の助けがなくても、お前だけで倒せたはずだ」
リュアは肩をすくめて、ふっと目を細めた。
「倒せはしたけど、あんな一瞬で倒すことはできないね」
思い出すように視線を上げ、夜空を仰ぐ。
「……魔法、すごく、きれいで……つい、想像しちゃったんだ」
その瞳に、ほんのわずかな熱が宿る。
「グレンと一緒に冒険ができる未来を」
静かに語られるその言葉には、まっすぐな願いがあった。
そしてリュアは、少し寂しげに目を伏せた。
「確かに、私は一人でも冒険はできる。でも……出会った人たち、見た景色、得た経験――全部、心の中だけにしまっておくのが、ずっと寂しかった」
「それを、誰かと分かち合いたくて……一緒に歩いて、笑って、進みたくて……」
ふっと目を逸らし、照れたように笑いながら続ける。
「だからね、思わず言っちゃったの。“一緒に冒険しよう”って」
「……グレンと一緒に旅をしたい。だから、私はキミを誘った」
その笑顔は、揺るぎない誠実さに満ちていた。
「この旅でね、あらためて思ったよ。
やっぱり私は、グレンと一緒に進んでいきたいんだ、って」
まっすぐに語られたその想いに、グレンはわずかに目を見開いた。
風が、静かに草葉を揺らしていく。
夜の冷たさが、どこか柔らかく感じられるほどの静けさだった。
グレンの表情は変わらない。
けれど、その瞳の奥には――確かに、小さな波が揺れていた。
誰かの、飾らない想いが。
ただ“共にありたい”という言葉が。
ゆっくりと、心を揺らしていた。
それが、どれほど貴重で、どれほど温かいものなのか。
今の彼には――少しずつ、分かってきている気がした。
やがて、グレンはほんのわずかに目を伏せ、静かに頷いた。
言葉はなかった。
けれど、その一動作がすべてを語っていた。
それが彼なりの“応え”。
リュアは、その応えをしっかりと受け取るように、ふわりと微笑んだ。




