試練の証明13
空気が、ふと揺れた。
見えない何かが忍び寄るような微かな異変に、リュアとグレンはほぼ同時に気づく。互いに目を合わせ、言葉なく頷いたリュアが、ゆっくりと前へ歩み出た。
そのままエルゴの正面に立ち、穏やかな口調で言う。
「じゃあさ、実際に何がこの村の脅威となっているのか、キミたちも見てみたらいいんじゃないかな?」
まるで冗談のような言い方だったが、目には真剣な光が宿っていた。
エルゴは鼻で笑った。
「見ろ? わしに何を見ろと言うんじゃ。得体の知れんもんを“脅威”だと吹き込んで、恐怖で言いなりにさせるつもりか?」
「そんなものは、“脅威”やない。――“支配”じゃ」
リュアはわずかに口角を上げ、しかしそのまなざしは鋭く遠方を見据えたまま、呟くように告げた。
「三十……いや、四十体くらいかな。近くに奇形の魔物の気配がするよ」
その瞬間、エルゴの目がわずかに見開かれた。
すぐに表情をしかめ、吐き捨てるように反論する。
「……また、そうやって大げさなことを。村を惑わすような話を持ち出して、何のつもりじゃ」
だが、その語尾には明らかな揺らぎがあった。四十体という異常な数に、本能が恐怖を覚えているのは、誰の目にも明らかだった。
その背後で、年配の村人たちがざわめきはじめる。
「……四十? 本当か、それ……」
「さっきまでは静かだったのに、そんな急に――」
「まさか、例の“奇形の魔物”というのが……集まってきてるのか?」
不安のさざ波は後方の村人たちにも広がり、場の空気をじわじわと締め上げていく。
ヴァンが真剣な表情でリュアに問う。
「……そんなにいるんですか?」
焦りはなかった。ただ、現実を直視しようとする冷静な覚悟が、その声に宿っていた。
ティオもその言葉に続くように、リュアの方を見上げて呟いた。
「……それじゃあ……“影喰”が、新たな奇形の魔物をまた生み出し始めたのかな……」
その声には、不安と確信がないまぜになっていた。坑道で一度は逃げ去った異常存在――それが、再び動き出したのか。
リュアは静かに頷く。
「おそらくね……」
その一言が持つ重みが、周囲に波紋のように広がる。
気づけば、空気の緊張が一段と強まっていた。
続いてカイルが沈黙のまま魔道記録装置を操作し、数秒ののちに呟いた。
「確認できました……半径五百メートル圏内に、異常な魔力反応が多数。数は、リュアさんの言ったとおり……三十体以上。推定、四十」
ざわめきは一層大きくなり、緊張が肌を刺すように走る。
そんな中、リュアはまっすぐに前へ進み直し、エルゴを正面から見据えた。
「エルゴさん、それに……そっちのふたりも。一緒に、現場を見に行こうか」
その声はあくまで穏やかだったが、逃げ道を許さぬ力強さがあった。
エルゴは冷笑を浮かべる。
「ふん、何を企んどる? わしらを脅して黙らせる気か?」
その問いに、リュアの表情からは一切の笑みが消える。
「“守る”って何なのか――知らなきゃ、キミたちも誰かを壊す側になるよ」
その言葉は静かだったが、確かな重みと威圧を含んでいた。
エルゴはリュアを睨みつけながらも、言葉を返せないまま沈黙する。
その背後で、村人たちの視線が揺れた。
誰もが、今の言葉を無視できずにいた。
***
リュアたち一行は、村の外れから続く獣道を抜け、谷間の斜面を登っていた。
目指すは、村から見て北東側に位置する浅い崖地。岩と灌木が入り混じる高台で、そこからは谷筋に沿って広がる一帯を見下ろすことができる。緩やかな起伏の草地の中央には、ねじれたような樹木と、岩が不自然にえぐられた一角があった。
その中央付近を、異様な気配を放つ“魔物”たちが徘徊していた。
誰も言葉を発さない。耳を澄ませば、下草が揺れる音と、不規則なうなり声が混じり合って聞こえてくる。
歪んだ肉体を引きずるように進む奇形の魔物たち。
足の太さが左右で極端に異なる個体、背骨が外へ突き出たようなもの、関節が逆にねじれた肉の塊――
そのどれもが、ただそこに“存在する”だけで、寒気を呼び込むほどの異質さを帯びていた。
リュアが、灌木越しにわずかに身を乗り出し、指先で前方を示す。
「……あのあたり、見えるかな。あれが実際の魔物だよ」
その言葉と同時に、前村長とその支持者たちの顔色が目に見えて変わった。見下ろす谷底に、言葉を呑むようにして動きを止め、硬直する。
「こ、こんな……」
かすれた声を漏らしたのは、エルゴの背後にいた男のひとりだった。額に浮かんだ汗が頬を伝い、首元へと滴り落ちていく。
リュアは視線を下に向けたまま、静かに続けた。
「ここから見えるのは十匹くらい。……でも、あの奥――木立の向こう側にもまだいる。少なくとも四十は超えてるはず」
淡々とした声だった。だがその事実がもたらす現実は、あまりに重い。
「エルゴさん。この魔物がすべて村に来たら――どうやって対応する?」
そう問いかけたリュアの声には、感情ではなく、事実を突きつける鋭さがあった。
エルゴはしばし何も言えず、やがて強張った声を絞り出す。
「ふん……それでも、村はわしらが守る。余所者などいなくともな……!」
その反論はどこか空回りしていた。怒りというより、否認にすがる者の声だった。
だが、リュアは一歩も引かない。
「気持ちを聞いているんじゃない。“具体的な対応策”を聞いてるんだ」
言葉に力を込めたその瞬間、エルゴの顔が歪んだ。口を開こうとするが、言葉が出ない。やがて吐き捨てるように声を放った。
「だったら、貴様らが好きにしろ! わしらはわしらのやり方を――!」
そのときだった。
谷底の魔物のひとつが、突如として地面を叩きつけるように前脚を振り下ろし、咆哮を上げた。
「――ッ!」
反応するように、周囲の魔物たちがざわめき始める。いくつかの個体がこちら側の崖へと顔を向け、嗅ぐような動作をした。
「こっち来るぞっ……!」
怯えた声で叫んだのは、支持者のひとりだった。
その叫びと同時に、エルゴまでもが思わず一歩、足を後ろへ引く。崖の縁に積もった小石がぱらぱらと転がり、草地へ落ちていった。
リュアはその様子を、冷静な目で見据えていた。
やがて、まっすぐに彼らへと顔を向け、低く、静かに――だが確実に響く声で言った。
「……キミたちは守れるの? 今、この村を」
その問いに、誰も言葉を返せなかった。
灌木の間に沈んだ沈黙が、重く、鋭く、空気を裂く。
――その沈黙の中、最初に動いたのは、グレンだった。
彼は無言のまま腰の大剣に手を添える。その手元から、滲むように炎の魔力が立ち上がり、熱を孕んだうねりが周囲に広がっていく。
リュアが小さく、しかし鋭く頷いた。
「グレン、いこう」
その言葉が、戦いの幕を開けた。
***
――リュアが、風を裂いた。
そのまま崖の縁から跳躍し、まるで滑空するかのように草地へと舞い降りる。
風の魔力をまとった身体は、着地の衝撃を吸収するように軽やかに沈み、次の瞬間にはすでに駆け出していた。
グレンもまた、わずかに遅れてその縁に立つ。
周囲と敵の配置を一瞥し、正確な着地点を見極めてから、無駄のない動作で飛び降りた。
空気を裂くように降下し、膝を沈めて着地。立ち上がるその動作すら静かで無駄がない。
少し距離を取り、リュアの進路を外した岩場へと移動する。
そこから俯瞰するように戦場を見渡し、静かに魔力の流れを練り始めた。
草を踏みしめる足音すら残さず、リュアは魔物の群れへと突入する。
左右に構えた双剣が、風と共に閃いた。
「――はっ!」
切り裂かれたのは肉だけではない。
風の刃が前方へ奔り、飛び退いた別個体の脚部を絡め取る。
わずかにバランスを崩したその隙を見逃すことなく、リュアは回り込んで一閃。
悲鳴を上げることもなく、異形の魔物はその場に崩れ――黒い煙のような塵となって、風に溶けるように消えていった。
魔物の不規則な動きすら読み切るような立ち回りで、一体ごとに最適な距離を保ち、鋭い斬撃を浴びせかけていく。
そして――。
グレンの後方から一筋の火炎が天を衝いた。
狙いは魔物が固まりかけていた中央部。
爆裂音が響き、熱と衝撃が交錯し、数体が一気に焼き払われる。
焼け焦げた臭いが、風に乗って戦場を駆ける。
だがリュアはその煙の端にもかからない位置で、すでに別の群れに突入していた。
グレンの炎が通る領域は、あくまで彼女の動線を外れている。
(……グレンが、私と呼吸を合わせてくれてる)
そう思いながら、リュアは次の魔物に踏み込んだ。
火球が次々と空間を切り裂いて着弾し、魔物の進行を分断する。
その間隙を縫うように、リュアは風の奔流と化して走る。
声も、合図も、言葉もない。
それでも互いの動きが、見事なまでに噛み合っていた。
グレンは、これまで誰かと連携を取る機会などなかった。
封印から目が覚めたあと、坑道での戦いくらいしか、互いの動きを預け合う場面はなかったはずだ。
それでも今、彼は確かにこちらを見て、動きを読み、炎を放っている。
リュアはそれを感じ取りながら、グレンの炎が届く方向を自然に避け、別の角度から魔物の群れへと切り込む。
視線と判断だけで成立する呼吸。それはまだ不完全かもしれない。
けれど、その不器用な一歩が嬉しかった。
リュアは一度だけグレンの位置に視線を送り、そして静かに微笑んだ。
(……ちゃんと、関わろうとしてくれてるんだね。……なんか、ちょっとだけ――嬉しいな)
胸の奥で生まれたその想いを抱きながら、彼女はまたひとつ魔物を斬り伏せた。




