試練の証明10
しばしの沈黙の中、誰もが言葉を探せずにいた。
最初にそれを破ったのは、カイルだった。
「……あの魔物は、魔物としての……生物としての肉体を保ってなかったのかもしれない」
魔導記録装置の結晶を確認しながら、カイルが低く呟く。
淡々とした声音の奥に、明らかな違和感と困惑がにじんでいた。
「……やはり、こんなふうに消えてしまうのは普通じゃないんですね……」
ヴァンが息を吐きながら言った。
それは、長年村を守ってきた者としての誠実な驚きであり、現実の異常さに直面した者の本音でもあった。
その言葉に、ティオがそっとカイルに視線を送る。
自らの一撃が何かを壊してしまったような――そんな戸惑いの色が、わずかに瞳に揺れていた。
「はい。監査の現場では、さまざまな魔物の死に際を見てきましたが……こうして痕跡ごと消えたのは、初めてです」
カイルが淡々と続けた。
けれどその声は、無理に平静を装っているようでもあった。
リュアは、眉をひそめながらふっと目を伏せる。
「グレンの闇魔法で、魔物が呑まれて消えるのは見たことあるけど……あれとは違う。攻撃で倒しただけなのに、何の痕跡もなく消えたのは……私も、初めて見たよ……ちょっと……嫌な感じがするね……」
グレンもまた、言葉を発することなく、かつて魔物がいた場所をじっと見つめていた。
赤い瞳の奥には、警戒と推察――そして、まだ確信の持てない一抹の危機感が、静かに揺れている。
再び、沈黙。
風が木々を揺らす音だけが、耳の奥で微かに響いていた。
塵ひとつ残さず消えた魔物の“痕跡のなさ”は、ただの異常ではない。
何かが始まりつつあるという予感が、全員の胸に、言葉にならない影を落としていた。
だが、そんな空気を切り替えるように、リュアが顔を上げる。
「……とにかく、今考えても情報が足りなすぎる。奇形の魔物自体は対処はできるし……まずは、先に進もう」
その声には迷いがなかった。
前を向くための強さと、慎重さを内包した決断の響きだった。
彼女の言葉に、全員がそれぞれ小さく頷いた。
そしてまた、一歩を踏み出す。
魔物の塵が風に溶けて消えた――その、痕跡も残らぬ道を。
***
森を抜けた先には岩地が広がっていた。
剥き出しの地面には苔が散り、風に削られた岩肌が、不自然なほど静かに連なっている。
足元を踏みしめるたび、ざらついた音がかすかに響き、先ほどまでの草地とは異なる感触が、否応なく気配を変えていた。
やがて、一行の目の前に、ぽっかりと開かれた黒い穴が姿を現す。
それは、かつて鉱石の採掘に使われていた坑道の名残だった。
入り口のアーチは崩れかけ、岩壁には蔦や苔が絡みついている。
使われなくなって久しいその空間は、まるで何かを拒むように、重く口を閉ざしていた。
ひんやりとした風が中から吹きつける。
その冷気は、外の空気とは明らかに違っていた――まるで、坑道の奥そのものが異質な空間であると告げているようだった。
グレンが、坑道の奥へと目を向ける。
「……この奥から、強い気配がするな」
低く絞り出すようなその声に、リュアも黙って頷く。
表情は静かで、だがその瞳には、緊張の色が浮かんでいた。
「……間違いない。奇形の魔物が生まれた原因――何か、異常なものがある」
そのリュアの一言に、ティオとヴァンが息を呑む。
カイルは記録装置に目を落とし、何度か画面を確認しながら言葉を続けた。
「魔力反応も、通常の魔物が放つものとは異なっています。……どこか、不安定で、揺れているような……存在の輪郭がぶれている感じです」
その言葉に、ティオがごくりと喉を鳴らす。
表情はこわばっていたが、そこに浮かぶのは恐怖ではなかった。
むしろ、自分の足で未知へと踏み込もうとする者の、張り詰めた緊張だった。
それに気づいたリュアが、そっと彼に顔を向ける。
「みんなで進むんだから。落ち着いて、冷静にね」
穏やかな声は、戦いを知る者の頼もしさと、仲間を気遣う優しさが滲んでいた。
ティオは一度、ぎゅっと拳を握った。
その小さな決意が、声に力を込める。
「……はい!」
隣で見守っていたヴァンが、緊張を吐き出すようにふぅっと息を吐いた。
静かな空気の中に、ひとつ、芯の通った声が響く。
「そしたら、入ろっか」
リュアのそのひと言は、決して軽くはなかった。
だが、重たくなりすぎた空気を、ほんのわずかに解きほぐしてくれた。
その声に導かれるように、誰からともなく足が前へと動く。
ひとり、またひとりと、閉ざされた坑道の中へ――
足音だけが静かに、暗がりの奥へと消えていった。
坑道の中は、薄暗く、足元の感覚も外とはまるで違っていた。
ところどころ崩れかけた岩壁や、天井の低い箇所があり、進行には常に注意が必要だった。
隊列の先頭には、リュアとグレン。その後ろに、ヴァンとティオ。
最後尾には記録装置を持ったカイルが控えている。
光源は、カイルが持つ魔導灯と、リュアの腰に装着された小型の携帯灯具。それが、闇に覆われた坑道の輪郭を、ぼんやりと照らしていた。
坑道に入ってしばらくすると、ふいに、ヴァンがリュアたちに向かって声をかけた。
「そういえば……リュアさん、グレンさん、それにカイルさんも。もしよければ、“村長”って呼ぶのはやめてくれませんかね」
リュアがきょとんとした顔をして振り返る。グレンもちらと視線を向けた。
「なんかこう、戦いの最中に“村長”って呼ばれると……どうにも背中がむず痒くなるんです。大したもんでもないのに、っていうか」
リュアが小さく笑った。
「じゃあ、“ヴァン”でいい……ですか?」
「ええ。そのほうが助かります。“村長”って呼ばれると……戦いの最中だと、ちょっと間が抜けるというか、呼びにくいでしょう?」
そう言ってヴァンは、気恥ずかしげに頭をかいた。
後方のカイルが静かに頷き、グレンも無言のまま肯定を示すように一歩進んだ。
「了解、ヴァン。じゃあ、仲間としてよろしくね」
ヴァンの言葉に、リュアも頷き返す。
やり取りの中で、ティオが少し驚いたようにヴァンを見つめていた。
けれどその表情には、ほんのわずかに誇らしげな色も滲んでいた。
坑道の奥へ進むにつれ、足元の岩はより粗くなり、空気も一段と冷たさを増していった。
壁に走るひびや裂け目が目につくようになり、どこから何が現れてもおかしくない――そんな予感が、じわじわと背筋を這い登ってくる。
誰もが自然と足音を控え、呼吸を浅くして進んでいた、その時だった。
「……来るよ。右の影、揺れた」
リュアが囁くように告げた直後、岩の裂け目から這い出すように、小型の魔物が姿を現した。
それは村外で見た奇形オーガとは異なり、より細身で素早そうな個体だった。
脚は異常に長く、背骨が弓なりに反っている。だが、その目には理性のかけらもなく、ただ獲物を狩る本能だけが渦巻いていた。
先手を取りに、グレンが闇を纏って踏み出す。
その足元から伸びた影が縄のようにうねりながら魔物の脚に絡みつき、動きを封じる。
「ヴァン、左から回って」
リュアの指示にヴァンが応じる。鋭い一撃が魔物の肩を裂き、続く斬撃が致命の一撃となる。
短いが的確な連携――以前の彼らにはなかった動きだ。
ティオは、少し後ろでそれを見つめていた。
自分の剣はまだ鞘にあるまま。だが、心の中にわずかな焦りが灯る。
(村長、すごい……俺も、早く――)
その後も数体の小型魔物が現れたが、チームは冷静に対処し続けた。
ティオもそのたびに剣に手をかけ、気配を読む努力を重ねていた。
やがて、少し開けた岩場に出る。
坑道の中でも、比較的空間のある地形――それが、思わぬ油断を生むことになる。
前方を行くヴァンとの距離が、ふと開いたことにティオが気づく。
(いけない……間隔が空きすぎてる)
焦りが、彼の足を一歩だけ早めさせた――その瞬間だった。
「――ッ!」
ティオの足元で、岩がぐしゃりと嫌な音を立てて崩れた。
バランスを崩し、身体が傾く。反射的に手を出した側の岩壁には、鉱石の突起がいくつも突き出していた。
危ない――そう思った刹那。
ふわりと、何かがティオの身体を包み込んだ。
黒い影――グレンの闇魔法が帯状に伸び、彼の身体をやわらかく支えていた。
まるで子どもを抱き起こすようなその動きは、確かに彼を傷つけることなく受け止めていた。
「す、すみません……!」
顔を青ざめさせたティオが、グレンの方に向き直る。
グレンはその様子に目を細め、低く、静かな声で言った。
「油断するな」
その一言に、ティオは一瞬、びくりと肩をすくめ――しゅんと項垂れる。
「はい……本当に、すみません……」
落ち込み気味にうなだれる彼を、グレンはしばし無言で見つめた。
そして、何か言いかけたように口を開くが――すぐに言葉を飲み込む。
表情には、どこか不器用な葛藤が浮かんでいた。
それを見たリュアが、思わず口元に小さな笑みを浮かべる。
「違うよ、ティオ。グレンはね、ただ心配してるだけ」
穏やかなその声に、ティオが目を丸くして振り返る。
グレンは……黙って、ひとつだけ頷いた。
ティオは、その仕草に驚き、けれど――少しだけ安心したように、微笑んだ。
「……ありがとうございます!」
空気が、わずかに和らぐ。
そのとき、ヴァンが振り返り、軽く茶化すように声をかけた。
「戦闘は少しずつできるようになってきたが、それ以外はまだまだだな」
「なっ!……これからもっといろいろできるようになりますよ! そしたら、ちゃんと村を守れるって見せてやりますから! 村長も、楽しみにしててくださいね!」
ティオは胸を張って、真っ直ぐにそう言った。
少し顔を赤らめながらも、その声には確かな自信が宿っていた。
ヴァンは、目を丸くしてから――静かに笑った。
後方のカイルも、記録装置を下ろしながら、わずかに表情を緩めていた。
先頭に立つグレンは、無言のまま進み続けている。
だが、その背中からは、どこか安心した気配が滲んでいた。




