試練の証明9
しばらく歩いていると、草に覆われた道はかすかに湿気を帯びてきた。
空気はいつの間にかひんやりと冷たくなり、周囲の鳥の声も、先ほどまでより静かになったように感じられた。
その変化に、誰よりも早く気づいたのはリュアだった。
ふと歩を止め、前方の木々を見つめたまま、わずかに目を細める。
「……この先にいるね。風に混じって、魔物の気配がある」
低く呟かれたその声に、グレンが即座に応じた。
「おそらく、二百メートルほど先か。距離は近い」
途端に、一行の空気が張り詰める。
ティオが思わず息を呑み、後ろにいたヴァンも無言で眉を寄せた。
カイルは小さく頷きながら、手元の記録装置をそっと閉じ、いつでも対応できるように身構える。
リュアは静かに前方を見据えたまま、言葉を続けた。
「グレン。できれば……魔物の動きを見たい。通常の魔物と比べて、どんな習性なのか、特徴があるのか、できるだけ観察したい」
「わかった。先陣は任せる。俺はお前のフォローに回る」
その即答に、リュアはわずかに驚いたような表情を見せる。
だがすぐに目を引き締め、静かに頷いた。
「……ありがとう。じゃあ、慎重にいこう」
彼女は後ろを振り返り、視線をティオに向ける。
表情は柔らかく、だがその奥には、戦場を知る者の真剣さが宿っていた。
「ティオ、止めはキミがお願い。大丈夫、私たちが絶対に支えるから」
一瞬、ティオの表情が揺れる。
だが、怯えではなかった。その瞳に浮かんだのは、迷いの先にある覚悟の色だった。
「……わかりました」
声に、もう先ほどのような不安はなかった。
カイルがそっと前に出て、リュアたちに告げる。
「私と村長で後方を見ておきます。念のため、追撃や伏兵に備えて」
リュアはすぐに応じた。
「うん、お願い。念には念を、だね」
短いやり取りのあと、彼らは静かに歩を進めた。
前方には、魔力の残滓が色濃く漂う気配――
音のない静寂が、彼らの歩を飲み込みながら、次の瞬間を待っていた。
風が草を揺らす音だけが、かすかに耳を打つ。
一行は足音を殺しながら、草木の茂みを掻き分けるように前進していた。
先行するのはリュアとグレン。木立の陰を縫い、低く身を屈めながら周囲の視界を探る。
そして――リュアの動きが、ふっと止まる。
「……いた。あそこ」
囁くような声に、グレンも視線を向ける。
草むらの向こう、倒木の影に潜む一体の魔物――
オーガの亜種にしては、あまりにも異様な姿がそこにあった。
膨張した下半身は歪にねじれ、片脚は腫れ上がって地を引きずるように曲がっている。もう一方の脚は、干からびた枯枝のように痩せ細っていた。 右腕は地面を擦るほど肥大し、関節が逆方向に折れ曲がっている。
その顔の右半分は崩れ、黒く濁った眼窩からは、瘴気のような黒い霞が揺らめいていた。
――その異様すぎる姿に、場の空気が一気に冷え込む。
「……な、にあれ……」
ティオが思わず呟きかけるが、グレンの手がわずかに制するように挙げられると、すぐに口を閉ざした。
ヴァンは茂みの影で固まったまま、眉を寄せて見つめていた。
「……あれが、本当に……魔物……?」
カイルもまた、記録装置を構えた手がわずかに震えている。
「外見の変異だけじゃない。……これは、構造そのものが……」
しかしその中で、リュアはただ静かに魔物を見据え――
そして、すぐ隣のグレンも、わずかに目を細めながら視線を注いでいた。
「――動きそうだ。来るぞ」
その低く短い言葉は、警告でも恐れでもなく、ただ“事実”としての観察だった。
場の緊張が一層高まり――リュアの声が、空気を裂いた。
「そしたら、行くよ」
リュアが静かに呟き、風の魔力を纏った身体が一気に加速する。
空気を切り裂く疾風のように接近し、魔物の死角から肩口を斬り裂き――続けて、脇腹までを鋭く穿つ。
だが――呻きもせず、オーガは即座に反応した。
ずるりと地を這うように身体をねじり、引きずっていた腕を、反動を殺した不自然な角度で振り上げる。
「――っ!」
リュアはすんでのところで身を引いた――その瞬間、空気が歪む。
魔物の巨大な腕が再び、予測不能な角度から唸りを上げて振り抜かれるが、リュアの足がわずかに地を蹴った直後、地面に滲んだ闇が鋭く跳ねた。
そこから噴き出すように伸びた影の帯が、魔物の右腕を包み込み、その動きを強引に捻じ曲げるように絡みつく。
まるでリュアの動きに合わせたかのような、一分の狂いもない拘束だった。
肥大した腕が闇に絡め取られたまま、バキバキと不気味な音を立てて空を裂くが、その一撃は明確に軌道を外れていた。
土埃がわずかに舞い上がる中、リュアは身を翻しながら言った。
「……この魔物、痛みを感じてない」
グレンは眉をひそめたまま、低くリュアに告げる。
「火傷にどう反応するか、試してみる。注意を引いてくれ」
通常の傷よりも強い痛みを伴う火傷なら、さすがに反応を示すかもしれない――
「了解」
再びリュアが魔物の側面へと回り込み、斬撃と蹴りで動きを封じるように牽制。
その間に、グレンは大剣に火の魔力を纏わせ、焔を弾丸のように放つ。
轟、と小さく爆ぜる音とともに、魔物の背に炎が走った。
肉が焼け、皮膚が爛れて崩れる――それでも、魔物は叫びひとつ上げず、リュアに向けて突撃を仕掛けてくる。
――バキィ……ッ!
動いた瞬間、関節が悲鳴のような異音を立てる。その異様な音に、後方のティオとヴァンは思わず顔をしかめた。
「……このオーガ、通常より能力が高くないか……?」
グレンが困惑を滲ませながら呟く。
それは、彼が四百年前に知っていた魔物との違いに対する素朴な疑問だった。
「そうだね。スピードも早いし、何より攻撃のパターンが精密になってる。こんな動きにくそうな見た目なのに、動きに“迷い”がない……」
リュアも応戦しながら冷静に返す。
後方でその様子を見つめていたティオの手に、汗が滲む。
緊張に肩がこわばり、息を詰めたまま立ち尽くしていた。
そんな彼を、リュアがふと見やった。
表情は柔らかいが、その眼差しには確かな意図が宿っている。
「大体の動きは見れたかな。ティオ――次は、あなたの番。私が隙を作るから、首を狙って。失敗しても大丈夫。私とグレンがすぐに動く。だから、思いっきりやってみて」
ティオは目を見開いたまま、数秒だけ黙っていた。
背後で、ヴァンが無言で頷いているのが視界の端に映る。
「……わかりました!」
短く深呼吸をひとつ。
ティオの眼差しに、覚悟の光が宿った。
リュアが斬撃を繰り出し、魔物の体勢を崩す。
注意を引きつけるように足元へ滑り込み、背後へ誘導するように位置を取る。
グレンは剣をわずかに下ろし、魔力を集中させながら隙を狙っている。
その一瞬――ティオが走り出した。
草を裂き、空気を蹴り、一直線に魔物の背後へ迫る。
声を上げることもなく、全身の力を剣に込め――
だが、刃はわずかに軌道を外れ、肩口を浅く裂いただけだった。
「――ッ!」
魔物が苦悶もなく振り向こうとする。瘴気が滲んだ顔が、ぎょろりとこちらを見た。
ティオの動きが、恐怖で一瞬だけ止まる。
「落ち着いて――今だ!」
リュアの声が、空気を裂くように響いた。
彼女の双剣が横から斬り込まれ、魔物の視線を再び逸らす。
ティオは喉を鳴らし、握り直した剣を構え直す。
――違う。怖がってる場合じゃない。任せられたんだ、もっと強くなるんだ。
その一念だけが、頭の中を支配していた
ふたたび地を蹴る。今度は、迷いも声もない。
魔物の首筋へ、渾身の一撃を――叩き込んだ。
「――ッ!」
肉を裂く感触が手に伝わる。
オーガの身体がぐらりと揺れ、数歩、よろめきながら血を吹き出し、崩れ落ちる――
……かと思われた、その瞬間だった。
倒れたオーガの肉体が、地に触れた途端、砂のように崩れ始める。
肌が割れ、肉が剥がれ、骨の構造すらも――すべてが、黒い塵となって風に溶けていく。
「……消え……た……?」
リュアが、息を呑むようにして呟く。
グレンも、カイルも、言葉を失ったまま、その場に立ち尽くしていた。
魔物の死体は、跡形もなく消失していた。
風が吹く。朝の光が地面を照らしている。
だが、そこには何も残っていなかった。
ただ――“異常”の余韻だけが、彼らの胸に重く残っていた。




