災厄の烙印と名を呼ぶ声1
誰かを救うために、ひとりで戦い続けてきた者と
世界から拒まれ、孤独に囚われていた者
ふたりの出会いが、閉ざされた心に変化をもたらし、
封じられた真実と向き合う旅の始まりとなる
――それは、鍵と光が交わる物語の序章
やがてその歩みは、世界に広がる歪みを越え
人々の未来を取り戻すための戦いへと繋がっていく
――――――――――――――――――
「私は信じてる。 キミのその力には、未来を変える価値がある。
もっと多くの人を、絶望から救える力が――確かに宿ってるって」
風が吹く。
その中で、彼女はまっすぐに笑った。
「だから――私と一緒に、冒険しよう……!!」
その笑顔は、夜明けのように明るく、まっすぐで。
彼の胸に、静かな熱を灯していた。
……それが、すべての始まりだった。
――――――――――――――――――
《結界領域》――
かつて古代魔導文明が栄え、今なお魔力の乱流と禁じられた残響が漂う地。
厚く垂れ込めた雲の下、風は冷たく、草木をざわめかせていた。
空気に含まれる魔素は重く、吸い込むだけで肌がざらつくような感覚を残す。
ここに足を踏み入れることが許されるのは、ただ一握りの熟練者だけ。
地図にすら詳細が記されないこの領域は、強力な魔物が跋扈し、探索に向かった多くの冒険者が消息を絶ったという。
その危険な地に、たったひとりで立つ者がいた。
――リュア・ゼフィラ。 水色と白を基調とした軽装の戦闘服に身を包み、腰には二振りの短剣を帯びている。
短めの金髪はふわりとした質感で、毛先が風にそよぐたびに軽く跳ねる。肩先にかかるその髪が風に揺れ、整った顔立ちの奥に宿る水色の瞳は、凛として揺るぎない。その立ち姿は静かで、だが一歩も引かぬ強さを湛えていた。
目の前にそびえるのは、黒曜石で形作られた古代の祭壇。
その中央には、ひび割れた封印陣――淡く揺らめく光と闇の残滓が、今にも崩れ落ちそうな脆さを帯びていた。
「……ここに、“あの”魔王が封じられているってこと、なんだよね」
リュアはぽつりと呟いた。
それは確認でも疑問でもない。ただ、長く語り継がれてきた伝承を、自分の中でなぞるような言葉だった。
「……確かに。少し魔力を加えれば、封印は解ける……か」
彼女は小さく息を整え、黒曜石の祭壇に歩を進めた。
緊張はあった。けれど、それを表に出す余地はない。
もしこの奥に“本物”がいたとして――
自分が敵わなければ、もう誰も止められない。
だからこそ、自分が来た。
その選択に、迷いはない。
「……伝説の存在だろうが、この手で確かめて――立ち塞がるなら……私が討つ」
祭壇に刻まれた術式の中心部へと手をかざし、そっと魔力を注ぐ。
――封印が反応を返す。空気が微かに震え、地の底から這い上がるような低い共鳴が広がった。
魔力の流れに導かれるように、結界の紋が淡く浮かび上がる。
光と闇が絡み合うように揺らぎ――次の瞬間、黒曜石の壁が砕け、その奥にあった空間が音もなく“ひらいた”。
静寂の中、そこから現れたのは、ひとつの影だった。 黒き瘴気がわずかに立ちのぼり、封印の奥から姿を現す。
まるで、長い夢の淵をさまよい続けていた者が、ようやく現実の空気に触れたように――ゆっくりと、重たげな足取りで歩みを進めてくる。
その姿に、リュアは思わず息をのんだ。
目の前の者は青年の姿をしていた。
黒を基調にしたロングコート風の鎧。
手に引きずるのは、禍々しい気配を帯びた漆黒の大剣。
静かで、けれど、抗いがたい圧を伴う存在感。
立っているだけなのに、まるで世界から断絶された“異質”が、そこに在るかのようだった。
けれど――
(……恐ろしいはずなのに、違う)
異様な気配は確かにある。力も尋常ではない――それでも、恐怖は感じなかった。
むしろ胸に広がったのは、ずっと閉ざされていた“何か”が、静かに目を覚まそうとしている気配だった。
本当に、これが“魔王”なのだろうか――。
この祭壇には、人々が語る“魔王”――全てを滅ぼすと伝えられた存在が封じられているはずなのに。
目の前に立つその人物から感じたのは、禍々しさでも殺意でもなく、深い孤独と静けさだった。
直感が告げる「違う」という確信と、伝承が語る「恐るべき存在」という警鐘。
その間で、リュアの思考はわずかに揺れた――けれど、その瞳は逸らさなかった。
彼は足を止めた。
そして――微かに眉をひそめ、ゆっくりと顔を上げる。
伏せがちだったまぶたが、時間をかけて静かに――だが確かに、開かれていく。
赤い瞳が、薄闇の中で淡く揺れ、まだ醒めきらぬ世界を映しており、長く伸びた黒い髪は、下の方で無造作に束ねられていた。
その表情には、混濁した意識の奥から這い上がるような目覚めの気配が滲んでいる。
まるで遠い記憶をたぐるように――視線が空から地平へ、そして足元へと、ゆっくりと落ちていく。
彼の喉が、かすかに動いた。
「……ここは……まだ、地上か」
それは、確認のような独白だった。
赤い瞳がゆっくりと周囲を見回し、やがて立ち尽くすリュアに向けられる。
彼の声は落ち着いていて、驚くほど静かだった。
「……今は、星環歴、何年だ?」
突然の問いに、手は自然と腰の双剣に添えられていたが、青年の様子に攻撃の意志は見られない。
ただ、自分の中にある情報を確かめるように、淡々と問いを重ねているだけのようだった。
リュアは数秒の沈黙ののち、慎重に答える。
「……星環歴八百七十一年……だよ」
その言葉を聞いた瞬間、青年の瞳がわずかに細められる。
「……八百七十一年……あれから……四百年も経ったのか」
言葉には感傷も、動揺もなかった。
ただ、ひとつの事実を受け入れるように、静かに呟いただけだった。
リュアは返事をした自分の口元に、わずかに違和感を覚えていた。
警戒はしている。目の前の存在が危険でないとは言い切れない。それでも、彼の反応は――想像していた“魔王”像とは、あまりにも違っていた。
彼の声も仕草も、むしろ長い眠りの末にようやく呼吸を取り戻した人間そのものだった。
(……この人はいったい、何者なの?)
そんな問いが、胸の奥で静かに波紋を広げていく。
次の瞬間――空気が、わずかに揺れた。
リュアの眉がわずかに動く。
背後――森の奥から、異質な気配が忍び寄ってくるのを感じ取った。
(……来る)
気配は三つ。どれも、常識的な魔物の枠を逸脱している。
肉体から放たれる魔素の濃度、重さ、足音すら残さぬ気配の沈み――
それは、この《結界領域》では珍しくもない――むしろ、当たり前のように現れる“最上位の魔物”の気配だった。
この地に踏み込む者なら誰もが心得ている。ここは、魔物の楽園。強さこそが日常で、油断は即、死に繋がる。
リュアはすぐに振り返り、腰の双剣を抜刀する。
目に映ったのは、剣が連なったような鋭利な外殻に覆われた三体の魔物。
四足で静かに歩むその姿からは、わずかな気配すらも仕留める“捕食者”の本能が、研ぎ澄まされた殺気となって滲み出ていた。
――戦い慣れた者でなければ対処を誤る強敵だった。
だが、リュアは表情を変えない。
「……三体同時か。少し、やりづらいけど――いける」
声は低く抑えられた。独りごとのように、確かめるような口調だった。
焦りはない。慎重に、だが確実に。いつも通りの手順で、仕留めるだけ――。
リュアが構えを取った、そのときだった。
「――《深淵葬》」
冷たい声が、背後から届いた。
時間が止まったような感覚。
そして次の瞬間、闇が“走った”。
リュアの視界の端――青年の手元から放たれたそれは、大地を這うように広がる深い闇の魔力。
研ぎ澄まされた意志を宿し、触れた魔物を一瞬で“呑み込んだ”。
三体の魔物は、抵抗する間もなく、闇に取り込まれていった。
咆哮も、絶叫も、何もなかった。ただ、静かに“消滅”したのだ。
リュアは目を見開き、その光景を見届けた。
あまりにも唐突で―― けれど、無惨ではなかった。
目の前で起きた現象を、目で、肌で、魔力で感じ取っていた。
(……あの魔法、まるで……)
恐ろしい破壊力だった。触れたものを容赦なく“無”へと還す。
だが、それは暴力ではなかった。
冷酷さもなければ、衝動もない。
そこにあったのは――ただ澄んだ、闇。
精錬され、雑味のない魔力。
研ぎ澄まされ、寸分の狂いもない意志。
それは、リュアがこれまでに見たどんな“魔法”とも異なっていた。
(……きれい……)
無意識に、そんな言葉が脳裏を過る。 闇の力に“美しさ”を感じるなど、かつてなかった。
だが確かに、今目の前に現れたそれは――“美しい”としか言いようがなかった。
(この魔法は……人のものだ)
直感だった。
そして同時に、それは確信だった。
彼の力には、“恐怖”ではなく“意志”があった。
何かを守るために、何かを選び取るために――そういう“覚悟”の質を感じた。
(あんな魔力を持っているのに……暴れていない。洗練された魔力制御……)
リュアはほんの少し、胸の奥が温かくなるのを感じていた。
(この人なら……)
わずかな願いにも似た想いが、心の奥で静かに芽吹いていく。
沈黙がふたりの間に落ちた。
再び、風が草木を撫でる音だけがあたりに満ちていく。
そんな静寂の中、リュアはそっと口を開いた。
「……キミは、人間だね」
静かな、けれど迷いのない声だった。
問うのではない。確認するように。確信に似た眼差しが、青年の瞳をまっすぐに射抜く。